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ここから⇒人生の広場 "ベンチ"

ベンチの魅力

いつの頃からかはっきりとは覚えていないのだけど、「ベンチ」というものに心惹かれるようになった。公園とか歩道沿いに置いてある、あのどこにでもあるベンチである。それはコンクリート製であったり木製だったり、鉄で出来ていたり石で出来ていたりする。稀にごろっと横になっている人もいるけれど、基本的には人が座るためのものだ。

ベンチに人が座る。その目的は様々だ。ちょっと一息つく、待ち合わせ場所にする、ランチを食べる、本を読む、スケッチする。ベンチは座るという動作に付随する、多くの活動を手助けしてくれる。誰だって一度はどこかのベンチに座ったことがあるだろう。

しかし多くの人にとってベンチは周りの風景の一部として溶け込んでしまっているので、それ自体を意識するようなことはあまりないのではないかと思う。
僕もずっとそうだった。しかしあるとき何かのきっかけがあって、ベンチというものが無言のうちに持つイマジネーションの広がりに気がついたのである。
今回はそんなベンチの魅力について書いてみたい。

ベンチとは

ベンチは、この世の多くの(というかほとんどすべての)ものがそうであるように、人が人のために作ったものだ。
そこにベンチがある、ということ。
それは誰かが、ここにベンチがあったらきっと役に立つだろうな、とこれからやってくる誰かのために仕込んでくれた、やさしい心遣いなのである。

ベンチには大きく分けて二種類のものが存在する。
ひとつは公共の場に設置されたベンチ。
このタイプのものは公園や河原、大きな通りや建物の中でよく目にする。これらは公園や建物に付随するものとして設計段階で組み込まれ、設置されたものだろう。これはもちろん、誰が座ってもいい。

もうひとつのタイプは私設のベンチである。
これは公共のベンチとは違って、そうそうお目に掛かれない。このタイプのものは山や畑の中、湖畔や海辺といった辺鄙な場所にぽつんとあったりする。
こうした私設ベンチは公共のものと同じく誰か通りがかった人のために設置された可能性もあるが、その土地をよく使う人が自分のために設置した可能性もある。
基本的にこの手のベンチは木製だ。いかにも手作り、といった素朴なものもあるし、丈夫にしっかりと作られたものもある。大体前者だと個人的なもののような気がして無断で座るのが憚れるような気がするし、後者だと誰が座ってもウェルカムといったムードがある。

ベンチに座ってみよう

いずれのベンチにしても、座ってみて初めてわかることがたくさんある。ベンチの役割はただ座って何かをするためだけではない。そこに座って見える風景。それを伝えたくてあえてここにベンチを置いたんだな、と感じるものも少なくない。そうやって、座りながらそのベンチを設置した人の意図を想像してみるのもたまには悪くないものだ。

だいたい人間には、座ってみてやっと思い当たるようなことがたくさんあるのだ。僕は座ってから忘れてかけていた重要な案件を思い出したり、何かしらの良いアイディアが浮かんだりすることがよくある。
ベンチとはそうした、生活の中での気付きを促すものでもあるのだ。

ベンチ、その素敵な佇まい

それと最後にもうひとつ。ベンチの魅力はその佇まいにもある。
散策していてベンチに出会ったときの、あのいかにもあなたが来るのを待っていましたよ、という静かな主張。それが何とも良い。
それでいてこのベンチというやつは、まあ別に座っていってもいいし、このまま通し過ぎてもいいんです、私はそんなこと気にしませんから、という風情なのだ。
追いもしないし捕まえもしない。
主導権は常にあなたのものですよ、自分はただのベンチですから、という完璧なまでの謙虚さがある。
そういう文脈でいうと、僕は屋内にあるベンチより屋外にあるベンチの方が好きである。ちょっとニスが禿げ掛けていたり落書きされていたりするのも、またいじらしさを助長するばかり。そのうち犬や猫に挨拶するのと同じ感覚で話しかけてしまいそうだ。
でも僕もそんなところを誰かに見られて不審がられたくはないから、今のところは心のうちに挨拶する程度で留めている。
もし公園でベンチを熱心に撮影している人を見かけても、それくらいは何とか許していただきたい。

どうでしょう。
こうして考えると、なるほどベンチっていうのもなかなか良いものだな、と思えてきませんか?

マキタ・ユウスケ

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