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5.エホバの証人の教理の考察⑥「神義論」

「神義論」という言葉は、周知の通り1710年ライプニッツの著書「神義論(弁神論)」に遡るわけですが、つまるところこれはきわめて近現代的問いであるということになります。もちろん、昔から「神も仏もない」という言い方がありますし、古代にも「義人の苦難」に関する話があるわけで、不条理を感じる心自体は変わらないと思います。しかし、時代によって人の心や、感じ方も違う部分があるのも事実です。

ここでは、あまり難しいことは抜きにして、「神が悪をどうして許してきたのか?」「神が創造者であり全知全能なら、なぜ悪が存在するのか」というような基本的部分を「神義論」の中心主題と大まかに定義して考えてゆきたいと思います。(あくまで素人のNOTEですのであしからず)。不勉強な点が多く、資料をひっくり返しながらになりますので、論点が「とっちらかっている」ことを前もってお詫びいたします。

資料としては、S.T.デイヴィスの「神は悪の問題に答えられるか」や、B.D.アーマンの「破綻した神キリスト」などが読みやすいかと思います。ほかには、ユダヤ教のラビH.S.クシュナーの「なぜ私だけが苦しむのか」なども宗教的な見地からですが、面白いです。また、上記デイヴィスの翻訳もなさっている二松学舎大学の本多峰子教授の本や論文も大変参考になります。

エホバの証人の神義論

エホバの証人が信者を増やした要因の一つは、神が悪を許している理由について、ある意味で「納得のいく答え」を提示しているからだと思います。もちろん「納得がいく」かどうかは、受取手次第ではありますが、それなりに構築された「神義論」が存在するのは確かです。

エホバの証人の神義論は、実際はきわめて現代的ですが、現代人が知りたい要素をうまく網羅しています。「神義論」ですから、基本となる命題は「神は善であり、愛情深い」というものです。世界の不条理に心を痛めているが、心のどこかで「神を信頼したい」と考えている人にうったえる信条なのです。ちなみに、エホバの証人自体は「神義論」という言葉を使いません。おそらく神の義を人間が云々する必要がないと考えるからかと思われます。それでも実際は「神義論」であるので、この言葉を以下でも使用いたします。

エホバの証人の「神義論」をまとめると、以下のようになります。

1.悪の起源について、神は責任を負わない。(自由意志とサタン)
2.悪を長く許してきた理由を二つの論争で提示する。下記2つの論争は宇宙的な裁判であり、パワーによる解決ではなく、法的倫理的解決が必要であるため、非常に長い期間が許されているというもの。
 ①宇宙主権の論争(アダムとエバが、善悪の知識の実を食べた際)
 ②人間の忠誠の論争(ヨブの忠誠に疑問が差し挟まれた際)
3.将来ハルマゲドンですべての悪は一掃され(裁判の判決)、犠牲者たちは地上に復活し永遠に生きることによって、すべての過去の害悪が精算される。

これから考えるのは、エホバの証人の考える「神義論」が、聖書に書かれている思想と一致するのかどうかということです。ちょっと表現しづらいのですが、聖書を書いた当時の人たち(聖書筆者たち)の考えと、一致するものなのかを考えたいと思います。(もちろん、これにも限界があります)。


「悪の起源の説明」の考察

塔11 3/1 21ページ 神が悪魔を創造したのですか
エホバに創造された者が,自ら悪魔となったのです。ですから,神の主要な敵対者であるこの者の存在は,創造者であるエホバ神について聖書が明らかにしていることと矛盾しません。・・・かつてはサタンも完全な者,義にかなった者で,神の子である天使たちのひとりだった,と結論することができます。ヨハネ 8章44節ではイエスが,悪魔は「真理の内に堅く立ちませんでした」と述べて,サタンがかつては真実な者また罪のない者であったことを示唆しています。
とはいえ,サタンとなる前のこの天使も,エホバの創造された他の理知ある者たちと同様,正邪のいずれかを選ぶ自由を持っていました。それで,神に敵対する道を選び,最初の人間夫婦を唆して自分に加わらせることによって,自らサタンつまり「反抗する者」になったのです。―創世記 3:1-5。
また,この邪悪な霊者は自ら悪魔になりました。「悪魔」と訳されている原語には,「中傷する者」という意味があります。サタンは蛇が話しているように見せかけて,巧みにうそをついてエバをだまし,創造者の明言された掟に背かせました。イエスがサタンを「偽りの父」と呼んだのはそのためです。―ヨハネ 8:44。
しかし,完全な霊者が,内からの弱さも外からの悪影響もないのに悪の道に走ることなど,どうしてあり得るでしょうか。サタンは,エホバ神だけにささげられるべき崇拝を渇望するようになり,人間をエホバの支配下から自分の支配下に置けるかもしれないと考えたようです。そして,支配できる可能性を,頭から振り払うのではなく,考え続けることにより,ついに行動に出るまでになったのです。その過程はヤコブの手紙の中でこう描かれています。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます」。―ヤコブ 1:14,15。テモテ第一 3:6。

最初に、上記ヨハネ8:44の訳し方の問題を指摘したいと思います。上記資料で引用しているのは、オリジナル版の新世界訳です。既にこれは改訂されているので、2013年改訂版での比較を以下に記載します。

その者はその始まりから人殺しで,真理から離れました。真理を好まないからです。(新世界訳2013)
悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。(聖書協会共同訳)
彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。(口語訳)
悪魔は最初から人殺しなのだ。そして真理の中にいるわけではない。真理が彼の中にはないからだ。(田川訳)

エホバの証人の翻訳で目立つのは、サタンが「最初は忠実だった」というニュアンスです。それゆえに、「離れた」と意訳しています。厳密には、この過去形の「離れた」は誤りで、原文の意味は「今現在真理の内にいない」という意味です。その次の「真理を好まない」も、かなり飛躍した意訳ですが、上記の「離れる」というのがやはり問題です。古いオリジナル版新世界訳は上記引用資料内にあるように、「真理の内に堅く立ちませんでした」であり、これもはやり問題ありです。他の翻訳が原文の意味を正しく伝えていると言えます。

エホバの証人(一般のキリスト教を含め)の「サタン」=「元天使」という考えは、中間時代の旧約聖書外典の影響や、初期教父たちの神学の影響です。(ルシファー=サタン説などより発展)。そもそも、まずサタンという言葉は、旧約聖書では現在のような「悪魔」の意味では使用されていません。イエスの時代に、旧約聖書外典の影響などもあって、ようやく悪魔サタンという今日的イメージする定義が定着するのです。(後ほどまた考えます)。

したがって、聖書そのものは「悪魔サタン」の起源を明確には示していないというのが正確な答えになるでしょう。悪魔サタンの起源について活発に論争されるようになるのは、教父時代になってからです。

この悪の起源に関係して必ず言われるのは、「自由意志」の問題です。エホバの証人は、上記資料内でも述べられていたように、悪魔サタンは「自分から」悪魔サタンになったのであって、それは「自由意志の誤用」であるとします。アダムが禁じられた木の実を食べたのも、「自由意志の誤用」であるとします。

では、そういう「自由意志」を人間に付与した神の責任はどうなのでしょうか。エホバの証人の別の教材の説明に注目しましょう。

「聖書は実際に何を教えていますか」p113–114
人間は自由意志を持つ者として創造されました。それがどれほど貴重な贈り物であるかお分かりでしょうか。神は無数の動物を造られましたが,動物はおもに本能によって行動します。(箴言 30:24)人間は,命令に従って動くようにプログラムされたロボットを製造してきました。神が人間をそうしたロボットのように造ったとしたら,わたしたちは幸福でしょうか。いいえ,幸福ではありません。人間にとって,どんな人になるか,どんな生き方をするか,どんな友情を築くかといったことは,自分で自由に選べるほうがうれしいのです。人間はある程度の自由があることを好みます。神も人間がそうした自由を楽しむことを願っておられます。
エホバは,強制されていやいや行なう奉仕に関心をお持ちになることはありません。(コリント第二 9:7)例えで考えてみましょう。親にとってうれしいのはどちらでしょうか。子どもが,命令されたので「お父さん大好き!」というときでしょうか。それとも,子どもがそれを心から自然に言うときでしょうか。それで,問題は,エホバが与えてくださった自由意志を,あなたはどのように用いるか,ということです。サタンも,アダムとエバも,自由意志を最大限に悪用しました。エホバ神を退けたのです。あなたはどうされますか。

しかし、悪を行えるような自由は果たして望ましいものでしょうか。またそもそも、「正しいことを自由に選択することが幸福である」という考えは本当に正しいのでしょうか。今の世界ではこの考えは「正しい」ように思えます。しかし、これはその世界の定義の問題であり、その定義を決めるのは創造者である神です。そう考えると、「ロボットのように作られると不幸である」という発想自体も相対的なものになるでしょう。

「自由には責任が伴う」とよく言われます。これは確かに真理です。しかし、その自由を与える側の責任はどうなのでしょうか。悪を行う自由も与えた上で、悪を行わないようにと命令することが「誠実」あるいは「善」であると言えるのか、これは大きな問題です。

このような、自由意志的な神義論はアウグスティヌスを起源とするとされ、カトリックにも受け継がれているわけで、エホバの証人の自由意志論も、その流れの中にあるわけです。(創世記の解釈自体も、このアウグスティヌスの考えに多く影響されている)。もちろん、この説も長い歴史の中では批判されてきたものであり、どれも「悪の存在理由」の「納得がいく」説明にはなっていないと私は考えます。

「悪が許されてきた理由の説明」の考察

エホバの証人の説明は、以下のようなものが基本です。

塔15 9/1 14–15ページ
アダムとエバは,後に悪魔サタンとして知られるようになった反逆したみ使いに仕向けられ,「善悪の知識の木」から食べてはいけないという命令によって表わされていた神の善悪の規準を退けました。悪魔はエバに,神に従わなくても死ぬことはないと言い,神をうそつき呼ばわりしました。また,神は臣民から善悪を決める権利を差し控えている,と非難しました。(創世記 2:17; 3:1-6)人間は神の支配を受けなくても幸福にやっていける,とサタンはほのめかしたのです。こうして,神には支配する資格があるのかという非常に重要な論争が持ち上がりました
悪魔は別の論争も引き起こしました。人間は利己的な動機で神に仕えている,と非難したのです。忠実なヨブに関して神にこう述べました。「あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。……しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを見てください」。(ヨブ 1:10,11)サタンはヨブについて述べていますが,これには,人はみな利己的な理由で神に仕えている,という含みがありました。
・・・
これらの基本的な論争を一度限り永久に解決するための最善の方法は何でしょうか。全知全能の神が最善の解決策,人を失望させない解決策をお持ちでした。(ローマ 11:33)ある期間,人間に自らを支配させ,その結果によってだれの支配権が勝っているかを明らかにするのです

エホバの証人は、このような2つの「宇宙論争」が展開していると考え、その答えを出すためには、時間が必要であるとします。神の支配が正しいのかどうかは、あらゆる政治形態(民主政治も含めて)を試してみる必要があるという理解です。この世の「理知を備えた被造物」(人間、天使、悪霊、悪魔サタンなど)すべてが、納得する証拠を整えるには時間がかかるというわけです。

このような考えは聖書に出てくるのでしょうか。結論から言えば、この「宇宙論争」なるものについての言及はありません。あくまで、いくつかの聖句を組み合わせることで成り立つ「解釈」であり、エホバの証人の「神学」といっても過言ではないと思います。エホバの証人の用意した神義論は、あくまで聖書を援用したものであり、明白に聖書に述べられているものではありません

ただ、これまでも繰り返して来たとおり、「聖書のみ」といっても、結局は解釈や神学が必要なわけですので、エホバの証人のような説明をすることそのものの是非は述べることはできません。エホバの証人のように、聖書の理解(解明)は神の聖霊の導きの結果であると信じる人たちもいますが、それは証明も否定もできないレベルの問題です。カトリックも、「聖書のみ」のプロテスタントも、結局はエホバの証人と同じように神学をもって説明するしかないのです。ここで強調したいのは、聖書からそのまま読み取ることはできないという事実です。

もう一つ指摘したいのは、エホバの証人(や福音主義的な教派の場合)の場合、上記の聖書の記述すべてを文字通り「史実」としてとらえているということです。神に創造された最初の男女アダムとエバが実在し、実際に蛇に誘惑を受けたと考えますし、ヨブはモーセが生きた時代に実在した人物であると考え、ヨブ記はあくまで彼の「実体験」であるとします。もしこれらすべてが史実であれば、たしかに神の人間にたいするなにがしかのメッセージをそこから読み取ることができるでしょうし、その努力にも大きな意味があるでしょう。しかし逆に、これらが「歴史的な事実」でなければ、それはあくまで物語であり、著者の神学を反映したものだということになります。

現実はどうなのでしょうか。信じることは自由であるにしても、これらが史実であるということは「ほぼ」あり得ないことです。少なくとも、ヨブ記は非常に新しい時代の文体で書かれていて、現行の形になったのは非常に新しい時代であると言う点で学問的には合意されています。(後述します)。創世記については様々な議論があるものの、実際の編集は捕囚期以後になされた可能性が高いと考えられます。その証拠として、旧約聖書内で、アダムとエバやエデンの園に言及する部分がほとんどないのは興味深いことです。これほど重要に思える話にほとんど言及されないのは、多くの筆者が「知らなかった」と考えるのが自然です。(例外としてエゼキエルのエデンのケルブの話など)。

このことに関係して考えされられることは、創世記の蛇を悪魔と結びつけて考えること自体、新しいものだったということです。蛇を悪魔として最初に解釈したテキストは、ソロモンの知恵2:24(BC1世紀)と言われます。(悪魔の妬みで死が世に入った)。私たちは、キリスト教のフィルターを通して旧約聖書(その場合はタナクと呼ぶべきか)を読んでしまうわけですが、時間的に先に書かれた旧約聖書には元々の神学が存在するはずなのです。当たり前と思うことを、疑ってみることは非常に重要です。

このように考えて見ると、聖書から神が悪を許している理由を「歴史的な神の意志や行動」として見いだすことは出来ないことになります。聖書に書かれているのは、「この世の真理を探し求めた人たちの記録」であり、彼らの神学的主張であると言えます。たとえ、そこに歴史的な事実が含まれているとしても、そのまま受け取ることはできないということになります。

エホバの証人の教義としての「神義論」を大切に信仰している人たちの思いを否定する気持ちはありません。エホバの証人の神義論が、多くの人に慰めを与えてきたことも事実です。そして、学問的な分析ももちろん絶対ではありません。しかし、事実として最低限言えることは、エホバの証人の用意した「神義論」は現代的に洗練されたものであり、必ずしも聖書自体が明確に回答しているものではないということです。


エホバの証人の神義論の限界(私見)

ここで、議論を少々脱線させて、このようなエホバの証人の神義論についての自分なりの意見を述べさせていただきたいと思います。この部分はあくまで私見ですから、独断と偏見に基づくものです。

エホバの証人の神義論は、神を善良だと信じたいけれども、現実に打ちのめされているような人には確かに訴えるものであると思います。(そもそもそれが神義論の目的でしょう)。しかし、私個人としては現役時代からずっと何か引っかかるものを感じていました。

聖書的な根拠が少なく、現代の価値観に基づく、神学的・哲学的な議論が実際かなり展開されているという違和感はもちろんあったのですが、それ以上に、これで本当に納得できるのか?という思いがありました。

神が「悪魔サタン」を創造してないにしても、神が造った優秀な天使の一人が反逆したことは重大な問題なはずです。このサタンにしてもアダムにしても、造った神の責任は問われないのでしょうか。(この議論は昔からある)彼らに「自由意志」があってこそ「完全」であるというのがエホバの証人の解釈ですが、何が完全かはさておき、結果的に「人類は不幸になった」ことに神は免責されるのでしょうか。

また、「論争の解決のために時間が与えられた」という解釈ですが、たしかに神にとっては「千年は一日のよう」でしょう。しかし、人間は僅か数十年の人生を生きねばならず、神が悪を許している間にも多くの人たちが塗炭の苦しみを味わうことになります。神にとっては「手桶のひとしずく」である人間も、各個人が一生を生きることは大事であり、歴史上無数の人間が様々な種類の苦難を経験し、最終的には苦しんで死んでゆくのです。一人の人の死や病気、怪我、事故も多くの悲しみを与えるのに、それを何千年も、そして何億人分も見過ごせるというのはもはや理解不能です。エホバの証人は、将来の楽園への復活で、すべての苦難が帳消しになるとします。

創造 第16章 196–197ページ 20節
幾十世紀にもわたる苦しみは,その犠牲となった人々にとって非常な痛みとなってきましたが,それは一つの良い目的も果たしてきました。それは,健康上の大きな問題を正すため,自分の子供が苦痛となる手術を受けるのを許すのと似ているでしょう。長期的な益は一時的などんな苦痛よりはるかに重要です。さらに,神がこの地球とそこに住む人間の将来のために意図しておられる事柄は,過去の重圧を記憶の中からぬぐい去らせるでしょう。「以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない」。(イザヤ 65:17)ですから,人間が経験したどんな苦しみも,神の支配が全地に及ぶ時に生きる人々の思いの中からやがて消し去られるでしょう。

確かに、永遠の幸福な将来が約束されているとするなら、有限な現世での「苦痛」は一時的といえるかもしれません。(この教義の発達は、次の見出しをご参照ください)。しかし、誠実な人なら、たとえ一時期であっても他の人が多大な苦しみにあることを良しとはしないでしょう。上記の「手術」の例えは、まったく的外れです。手術は病気の回復のための「最小限に痛みを抑える努力がなされた」治療法です。しかし、この世の不条理な苦しみはそのような「治療法」ではないのです。神から見てそれが自らの正しさを証明するための「苦痛」であるなら、それは残酷なことです。

ただ一方で、最近私が思うのは、このような神観(愛の神)こそ間違っており、聖書はこのような神を提示していないのではないかというものです。つまり、神が全き善であるべきと考える私の思考自体、理想化されたものであり、聖書の神観とは乖離しているかもしれないということです。どっぷりと保守的なキリスト教に浸かってきた私は、無意識にも「愛情深い神」を想像し、それゆえにこそ神の不条理に「なぜ」と言ってしまうのかもしれません。聖書が記述する神の像は、民族神の時には戦の神であり、嵐と共に来る山の神、荒ぶる神だったことを私は都合良く忘れていたようです。

エホバの証人の神義論は、あくまで神を愛の体現者とするところからスタートしています。その上で、論争の解決のために神は「断腸の思いで」悪を許し、将来楽園で人類を生き返らせることですべての問題を解決しようとしておられる神像を提供します。

これで救われている人たちを否定するつもりは決してありません。しかし、繰り返しになりますが、これが聖書に書かれている答えなのかと言えば、それはNOです。

これはエホバの証人(また保守的なキリスト教一般)の「哲学」であり、純粋に聖書から導き出せる答えではありません。もし聖書に答えがはっきり書かれているのであれば、昔からこれほど論争にはならなかったはずです。むしろ、聖書には、神のご意志を探求する過程や、苦難の答えを探る思考の過程が記録されているのです。そして、当然ですが、その「答え」も様々なのです。

閑話休題


聖書内の「神義論」の発展

「発展」と言いましても、聖書は実際複雑な編集段階を経てきており、専門家達の意見もかなり分かれています。また、「神義論」という言葉がその当時からあったわけではないので、あくまで神と悪や不条理さの存在をどう解釈するかの聖書の見方を追って見たいと思います。

出エジプトがどの程度民族の記憶を反映しているかはわかりませんが、少なくともイスラエル・ユダの王国あたりの記録(記憶・伝承)が末期にまとめられて、亡国を経験し、捕囚期以降にまとめられたというのが真実でしょう。そう考えると、特にこの捕囚期以降に書かれた(編纂された)部分に「神義論」に関係する物の見方が強く現れていると予想できます。民族が王国を失い、バビロンに捕囚されるという危機をどのように「神学的に」説明するかという問題に直面するからです。

このあたりは、申命記史家と、歴代誌史家の違いを振り返るのがよいのかと思います。ヨシュア記~列王記あたりまでを記述した人(たち)を申命記史家といい、(クロス、スメントらなどの)諸説ありますがヨシヤ王時代から捕囚期にかけて活動した人(たち)と考えられています。それに対して歴代誌史家(歴代誌を書いた人たち)の活動は、ペルシャ帝国~ヘレニズム時代が想定されています。(マカベアあたりまでという学者もいるが極端か)。当然彼らは申命記史家とは時代も違えば、価値観も変化しています。その点を少し比較してみたいと思います。比較する場合の主な要素は、「応報原理」や「罪責神学」などです。

申命記史家は、罪責神学が、累積的であるとされます。各個人というより、民族の罪が最終的に問われるような考え方です。

歴代誌史家は「応報原理」が徹底してきていて、罪責神学は個々人に厳密に適用されるようになります。

K.シュミートが次のようにまとめている通りです。

歴代誌にとっては、歴史を通じた罪の堆積ということはありえない。むしろ、各世代はそれぞれ自分たちで神に対する責任を持つのであり~神に背教した場合には~それぞれ世代ごとに罰されるのである。この個別化された罪責神学は、祭司的な背景を反映している。贖罪祭儀の機能というものは、罪への個人的な責任ということにかかっているのである。…破局があればそれは罪と結びつけられ、逆に繁栄の時代は、正しく敬虔な態度の証言なのである。(K.シュミート「旧約聖書文学史入門」p313)

いくつか実例をみてみましょう。

ヤラベアム王(2世)
北のイスラエル王国の王ヤラベアム2世は、治世41年を誇る重要な王である。(列王第二14:23~)。北王国の王であるため、南から見れば宗教的には理想の王ではないが、預言者ヨナまで登場して、国土の拡大と繁栄が約束された。
しかし、歴代誌では、系図など極一部に名前が出てくるだけで、まったく評価されていない。(南王国中心主義もあるけれど)。歴代史家にとっては、背教した王国の王が長い支配と繁栄を謳歌するはずがないという「応報原理」が徹底している。
ウジヤ王(別名:アザリヤ)
列王では、ウジヤは、「良い王」とされており、52年にわたる長期政権を維持した。とはいえ、彼は「神に打たれ」癩病にかかり非業の死を遂げる。(なぜ打たれたのかは書かれていないが、良い王とされる)。
しかし、歴代誌では彼は繁栄の故に高慢になって、祭司の仕事を行う越権行為ゆえに癩病で打たれ死ぬ。ここにも、長い治世と繁栄と、病気という結果が結びつけられ、彼の晩年の反逆が付け加えられた。
マナセ王
もっとも扱いが顕著に異なる王。列王ではマナセは「悪い王」で、悪の権化のように扱われる。列王の罪責神学は累積的なので、「マナセの罪」という言葉が使われ、亡国の理由とまでされた。後の王ヨシヤが宗教改革を行ったにもかかわらず、「マナセの罪」の故にユダは滅びたと解釈される。
これに対し、歴代誌史家は、「応報原理」は強化されているが、罪責神学は個別化しているので、あくまでマナセの所業はマナセに帰することになる。「マナセの罪」などという言葉は使われない。(ユダの亡国は、最後の王ゼデキヤの罪であることになる)。マナセは55年にもわたる長期の治世を誇り、軍事的にも成功したので(列王であれほど悪逆を尽くしたと批判されているにもかかわらず)、歴代史家からすると悪い王として生涯を終わるはずはないとされた。したがって、歴代にのみ、マナセの悔い改めが記されている。
ヨシヤ王
宗教改革を行った聖書中でも最も評価の高い王の一人。申命記史家は、彼の治世以降活躍したと思われるが、彼の死については非常にあっさりとエジプト軍との戦いで戦死したとだけ書いている。
歴代誌史家は、彼ほど良い王が比較的短命で、しかも戦死するには意味があると考えた。その結果、ファラオ・ネコが「神の言葉」として、ヨシヤに出陣しないよう語るが、それを無視した結果の戦死であるということになっている。ここでも、良い王が死んでしまうことへの「説明」がなされている。

列王でも「応報原理」がまったくないわけではありませんが、歴代で明らかにそれは強化され徹底されています。(前記のシュミートの解説参照)。これは歴代が書かれた時代の背景も関係していると思われます。(歴代の成立は基本ペルシャ末期であろうとされるが、最近ではマカバイ時代まで下げる説もある)。ペルシャやヘレニズムにおいて、宗教的なアイデンティティを維持し続けることは捕囚期とはまた違った意味で重要な問題だったと思われます。一神教の強化や神の普遍化などが発展した時代なので、全能の神と神の民の関係を位置づける上でも、一つの考えとして「応報原理」の強化があったのだと思われます。彼らは苦難の問題を、罪に対する応報として処理するようになったのです。


しかし、世の中必ずしもそうはならないというのも真理です。「義人の苦難」というテーマもその一つです。「応報原理」を(すべてではないけれども)否定したヨブ記が誕生するのもこの時代です。

ただ、このヨブ記は一筋縄では行かない書で、無数の解釈があり、学説も非常にたくさんあります。(そもそも難解)。上記で述べた成立年代すら多数派意見というだけで、エルサレム崩壊以後ということしか確実なことは言えないということも付け加えておきます。

また、「義人の苦難」がテーマというのも一つの通説ですが、K.シュミートなどの解説では「この書の中心主題は、義人の苦難でも、神義論的問題でもない」とも言われています。彼によれば、ヨブ記では、義人の苦難の理由は天上からの試練だと最初にはっきり書いてあるのであり、むしろこの書の中心テーマは「正統神学への挑戦である」としています。つまりヨブ記は否定神学を主張しているのであり、神については何も語り得ないし「神学も啓示も、いったいどういうことなのかを確実には説明できない」というのです。私はこれも一つの解釈かなと思います。

また、ヨブ記には14:14の「人もし死なばまた生きんや」(文語)という有名な聖句があります。これを復活についての萌芽とみるなら、後述のように悪の問題の解決への一つのステップアップとみることができるでしょう。ただ、上記14:14を復活と解釈しないものも多いです。新共同訳などは「人は死んでしまえばもう生きなくてもよいのです。」という独特の訳をしていますが、これも復活信仰との直接のつながりを敬遠しているように思えます。(関根訳の解説なども、否定的)。

いずれにしても、ヨブ記そのものは「義人の苦難」という問題に重要な一石を投じているといえるでしょう。


イスラエル民族の神だったものが、バビロン捕囚、ペルシャ、ヘレニズムと時代を経るに従って、唯一神としての性格を強くし普遍化し、神義論的な問題を抱えるようになってゆくというのはある意味では当然のことなのでしょう。世界を創造した唯一神であるなら、すべての責任を一身に背負う必要が出てきます。他の神の存在を認めないなら、その神に責任を分担してもらうことはできません。G.タイセンが言ったように現実に苦難が存在しているという事実が「神の善性を脅かす」ことになったのです。

この後、ダニエル書が書かれた時代からマカベア戦争時代に、神義論はある意味で完成します。(既にヨブの部分で述べましたが)「復活」の教義の始まりです。復活があるなら、どんな不条理もうまく解決できることになります。マカベア戦争の混乱の時代には、義人も非業の死を遂げることになります。彼らの救いはどこにあるのか? ここで「復活」は、神義論を反論できない次元へ引き上げたことになります。(死後の世界を云々し始めると、議論も成り立たない)。これは、この世の不条理さをなんとか解決しようとした人たちの模索の結果でもあるのです。


まとめ

このように考えると、エホバの証人の神義論は、「神が悪を許している理由」を説明する論理的部分と、それを越えたところにある「復活」という希望(すべてを帳消しにしてくれる対価)の部分があるということになります。神義論の論理的部分は、様々な矛盾も含みつつ今後も議論が続くでしょうけれど、死後の「復活」ということについては、信じるかどうかであり、議論の余地はありません。

「神義論」は、古代から現代まで、哲学や難しい議論ばかりで、私も良くはわかりません。そんなに難しい議論が必要なら、結局人間の救いとはほど遠い議論なのではないかとも思うのです。たしかに、哲学や様々な思想神学の積み重ねの上に、現代社会があるのでしょう。(日本も例外ではない)。しかし、「今現在の」人の救いにそれらがどの程度役に立っているでしょうか。神義論的な議論は、学問ではなく本来信仰の問題であり、一般信者の日々の生活に資するものであるべきでしょう。宗教であるかぎり、これらの「研究」が、一般信徒に還元されないなら、何の意味もないとも言えるでしょう。その点で、エホバの証人は「神義論」を単純化して分かり易くし、信者の信仰強化に資するものになっているということは認めるべきでしょう。私個人としては、このような「神義論」で納得はできませんが…。

冒頭でお断りしましたとおり、やはり議論がかなり「とっちらかって」しまいました。私の現在の能力ではこれ以上まとめられませんでした。ただ、神義論というものは、その名の通り「神を義とする」ことが目的であり、そのような神観を「不条理な世の中に住む敬虔な人たち」に提供するものだということだと思います。これは現代において特に(創造神としての)神を信じるためには避けて通れない道だと言うことなのでしょう。

長文失礼いたしました。









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