【仮説】天正年間の徳川家中における五徳の立場に関する一考察

 織田信長の息女であった五徳は『織田家雑録』によると「信忠・信雄・岡崎殿三人一腹ニテ、五徳ノ足ノゴトクナリトテ、五徳ト名ツケ玉フト云」と記載されている。永禄六(1563)年に徳川家康の嫡男であった松平信康と婚約し、永禄十(1567)年五月に岡崎に輿入れしたという。しかし、天正七(1579)年の松平信康事件をうけて信康とその母である築山殿が死亡した後、翌年二月に信長のもとに送り返された(『家忠日記』)。彼女が信康に嫁いだ以降の徳川家中における動向は史料上にはほぼ残っていない。

 本稿は天正年間の徳川家中における五徳がどのような立場にいたのか、これまでの研究で提示されてきた成果とは少し違った視点から考察することを目的とする。

 五徳が岡崎にいる松平信康のもとへ嫁ぐ際の様子は当時の史料で見出すことができず、江戸時代に成立した史料をもとにして描く他ないのが実情である。下記の三点の史料を参照していただきたい。

五月廿七日三郎信康于時九歳織田信長ノ女于時九歳ヲ娶給。佐久間信盛女娶ノ使トシテ岡崎ニ来賀ス

(「家忠日記増補」『史料稿本』を参照のこと)

五月廿七日信長の御息女信康公江入輿御祝言に猿楽仕舞をいたす、

(「石川忠総留書」『史料稿本』を参照のこと)

廿七日織田信長息女徳姫ヲ以テ 神君ノ宗子三郎信康君ノ室トナン岡崎ヘ入輿アリ信長佐久間右衛門尉信盛ヲ以テ是ヲ送ラシメ生駒八右衛門中島與五郎ヲ徳姫ニ付ラレ信康君徳姫共ニ今年九歳ナリ

(「武徳編年集成」『国文研データセット』を参照のこと)

 これらの史料によると、永禄十年五月二十七日に尾張から三河岡崎への輿入れがあり、猿楽や仕舞が行われるなど賑々しい中で挙行されたことが分かる。徳川家に派遣された織田家の使者は宿老の佐久間信盛、五徳の家臣として生駒八右衛門(家長)・中島与五郎が付けられたという。

 生駒家長は信長の側室であった生駒氏(久菴桂昌、いわゆる「吉乃」)の兄である。もともとは犬山城主・織田信清に仕えていたが、その後は信長に仕えた。信長は近侍する侍の中から黒角白角の兜を着用できる勇士を十人ずつ選出したが、家長は黒角の兜の着用を許されたという。五徳の輿入れの際には信長から「途中守護」を目的として派遣され、家康から褒賞されて刀一腰、一休和尚の墨跡一軸を与えられた。ところが、家長は五徳の付け家臣として徳川家に留まらずにすぐに織田家中に戻ったようで、元亀元(1570)年四月の金ヶ崎城の戦いでは信長を守って矢疵を被り、また、同年六月の江北浅井氏との合戦では殿をつとめた佐々成政の軍勢に属して力戦したと伝わる(『阿波国古文書』『久昌寺縁起』)。

 中島与五郎の事績について詳細は不明である。『寛永諸家系図伝』(以下では『寛永譜』)と『寛政重修諸家譜』(以下では『寛政譜』)を参照すると、信長の命令で五徳の輿入れに同行し、そのまま徳川家に転仕したという。息子の与五郎(『寛政譜』は「今の呈譜に重次に作る」と記述する)は家康が浜松城に移ったときに遠江高塚で采地百石を賜った。天正四(1576)年十月三日に武田勝頼が駿河に進出すると、舞坂の湊にいた与五郎は敵の軍船を相手に奮戦し、多数の者を討ち取ったものの討死してしまったという(注1)。『寛永譜』『寛政譜』はともに「法名守法」と伝えている。

 ここまで五徳の男性付け家臣として配属されたと思われる生駒家長と中島与五郎の事績を確認してきた。生駒家長は五徳の輿入れ後にすぐに織田家へ帰還したと推測できる。また、中島与五郎は織田家から徳川家に転仕したが、恐らくは五徳の輿入れ直後に死亡したのか史料上でその後の足取りを確認することができず、息子の与五郎は天正四年十月の徳川方と武田方との合戦で討死したという。注目すべきことは天正四年後半頃を目途に信長から配属された五徳の男性付け家臣の存在が確認できなくなるということである(註2)。

 北条氏康に嫁いだ瑞渓院殿(今川氏親と寿桂尼との子ども)や武田勝頼に嫁いだ桂林院殿(北条氏康と松田殿との子ども)の輿入れの際に従ってきた侍臣たちは基本的に彼女たちの家臣として配属されていることが史料上から確認できる。そして、彼らが主人である彼女たちの家政運営に携わっている事例が数多く見受けられる。ここから考えると、生駒や中島といった織田家から派遣されていた男性付け家臣は本来であれば五徳の家政運営に従事することを求められていたのではないであろうか。しかし、彼らが様々な理由で不在になってしまったことは五徳の家政運営に悪影響をもたらし、徳川家中における五徳の影響力の低下を招いたのではないかと考えてみたい。

 そのように考えると、ほぼ同時期の天正五(1577)年頃から五徳と松平信康・築山殿との間に対立が見え始めてくることに興味が湧いてくる。この対立について、『三河物語』『松平記』は五徳が信康の娘二人を出産したことを一つの要因とすると述べる。

何たる御咎もなけれ共、御前様ハ信長の御娘子にておハしまし給ふ。其故、早御娘君も二人出来させ給へ共、御不合にも有つるか。それとても、御子も有中と申、御夫婦の御中なれバ、御子の御為と申、人口と申、方々以か様に御さゝへ可有にハあらざる御事なれ共、「さりとてハ、むごき御仕合」と申さぬ人ハなかりけり。

(「三河物語」『日本思想体系26 三河物語・葉隠』を参照のこと)

其比三郎殿御前御子ヲモウケ玉ウ女子ニテ御座候間三郎殿モツキ山殿モサノミ御ヨロコヒナシ其後又御子出来是又女子ニテ御座候間三郎殿モ築山殿モ御立腹有是ニ依テ御前ト三郎殿ト御中不和ニ成玉ウ

(『松平記』)

 『松平記』では「五徳が出産した子どもが女子であったため信康と築山殿は喜ばなかった、また、再び出産したのが女子であったので信康と築山殿が怒り、夫婦は不仲になった」という。五徳は天正四年に福姫(後に信濃深志の国衆・小笠原秀政と婚姻)、天正五年に久仁(後に本多忠勝の嫡男忠政と婚姻)を出産している。そして、一次史料で夫婦間の対立が見え始めてくるのが天正七年である。

家康浜松より信康御[(欠損)]の中なをしニ被越候、[(欠損)]時[(欠損)]家康御屋敷へ[(欠損)]御渡し候て、ふかうすかへり候

(天正七年六月五日付『家忠日記』)

 『家忠日記』によると、天正七年六月五日に家康は信康と何某との「中なをし」のために岡崎にやって来たという。欠損部分にあたる何某については多数の研究者が五徳に比定しており、当時の信康と五徳との関係が冷え切っていたことが推測できる。また、三河の古書を集成した『三河東泉記』によると、楊枝を使っていた信康が「築山殿にも(楊枝を)取ってあげるように」と言ったが、五徳は返事もせずに取ろうともしなかった。怒った信康が五徳を叱りつけ、彼女が「諸事仕付悪敷」のためこのような仕儀になるのだと信康が言ったことを根に持ち、父である信長に書状を送って信康の悪行を伝えたというのである。

一、月山様ハ関口刑部殿御息女、御娵子様ハ信長公御息女ニテ、兼而御中モヨカラズ、信康公ヨウシヲトサセタマイシトキ、御前様ニ御取タマハレト、御申候ヘハ、御返事モナクシテ御座アリシトキ、信康公、局ヲ大キニ御シカリ、諸事仕付悪敷ニヨリ如此ト被仰候ヘハ、其事ヲフクレテ信康公ノ御事ナケ状書て信長公遣シケリ

(『三河東泉記』岡崎市立中央図書館)

 黒田基樹は『家康の正室 築山殿』において、築山殿は家康の正妻として徳川家の「奥向き」を管理していたが、大岡弥四郎事件において武田方に内通したことから家康との間で決定的な亀裂が生じ、それ以降は自身の存立をかけて岡崎城主・信康の母として性格を強めることになったと述べている。そして、信康事件にきっかけとなる十二ヶ条の条書を送付した五徳については天下人・信長の娘であり、その従属大名の地位にあった家康の息子である「信康とその家族よりも、自分のほうが地位は上との認識があったに違いない」と記述している。

 しかし、本多隆成は信康事件における五徳の立場について、信康の荒々しい資質に五徳が耐えることができなかったため夫婦の関係に不和が生じたこと、そして、五徳が信康や築山殿の悪行を信長に報告したのではなく、家康が酒井忠次を派遣して信長に対して信康の処断を求めたことを指摘する。筆者は『信長記』や『当代記』、「堀秀政宛徳川家康書状写」などの史料から考察を進めている本多説の方が説得力があると考える。それでは、五徳と築山殿との不仲をどのように考えればよいのか。これまで考察してきた男性付け家臣の不在による五徳の徳川家中における影響力の低下を踏まえて、武田方に通ずる動きを見せるようになっていた築山殿と五徳との対立が目立つようになってきたのではないであろうか。

 本稿では五徳と松平信康・築山殿との対立が天正五年頃を目途に顕在化してくること、そして、この時期が五徳の輿入れの際に織田家から派遣されてきた男性付け家臣を完全に喪失した時期と重なることから両者の対立の要因の一つとして挙げることができないかを考察してきた。他の戦国大名に嫁いだ女性が自身の家臣を有して家政を運営していたことは黒田基樹ほかの研究によって考察が進められつつあるものの、女性が戦国大名の家中においてどのような役割を果たしていたのかについて解明されていないことは非常に多い。しかし、信康事件に至る過程を少し違った視点から眺めてみたいという目的からつらつらと書き並べてみた。


(注1)『寛永譜』『寛政譜』では天正四年十月に武田勝頼が駿河に進出してきたと記述されているが詳細は不明。しかし、『当代記』では天正四年八月に徳川方が駿河に侵入して苅田を働き、これを察知した勝頼が同年九月に進出してきたため家康は軍勢を遠江中郡に撤退させたと記載されている。この時期の武田方の動向が中島の討死に関連するのではないかと思われる。

(注2)男性付け家臣については本文で考察してみたが、女性家臣についてはどうであったか。天正十八年八月二十二日付治部卿法印(雑賀松庵)・埴原加賀守(植安)宛豊臣秀吉朱印状は「両人事、主家ニ可有之候、局ちやあ亀其儘居候へ」と記載し、織田信雄の改易をうけて岡崎殿(五徳)が生駒氏の本領があった丹羽郡小折村に移住する際に「ちやあ」「亀」の二人の女房衆が同行することを認めたという。「ちやあ」「亀」は『織田信雄分限帳』において信雄から尾張のうちで所領を与えられていることが確認できる。しかし、この二人が五徳が岡崎に輿入れする際から仕えていたのか、五徳が織田家に戻されてから仕えていたのかは不明である。


【主要参考史料】

・『愛知県史』資料編12 織豊2(愛知県史編さん委員会、2007年)

・「阿波国古文書」五 大日本史料総合データベース
画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp)

・『続史料大成 第19巻 家忠日記』(臨川書店、1981年)

・「家忠日記増補」『史料稿本』大日本史料総合データベース
画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp)

・「生駒家系譜」一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫HP
生駒家系譜(初代から4代).pdf (ikoma-yashiki.com)

・「石川忠総留書」『史料稿本』大日本史料総合データベース
画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp)

・「寛永諸家系図伝」『史料稿本』大日本史料総合データベース
画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp)

・『寛政重修諸家譜』第5輯(國民圖書、1923年)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1082718/1/192

・「久昌寺縁起」一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫HP
久昌寺縁起(生駒家本)解題(HP用).pdf (ikoma-yashiki.com)

・「武徳編年集成」国文研データセット
国文研データセット 武徳編年集成 215 (dhii.jp)

・『松平記』(青山堂雁金屋、1897年)

・「三河東泉記全」岡崎市立中央図書館 古文書翻刻ボランティア翻刻一覧
Microsoft Word - 三河東泉記全(最終原稿) (library.okazaki.aichi.jp)

・「三河物語」『日本思想大系26 三河物語・葉隠』(岩波書店、1974年)


【主要参考文献】

・岩澤愿彦「岡崎殿異聞」(『日本歴史』四〇四号初出、柴裕之編『論集戦国大名と国衆20 織田氏一門』 岩田書院、2016年)

・奥野高廣「岡崎殿-徳川信康室織田氏-」(『古文書研究』十三号初出、 柴裕之編『論集戦国大名と国衆20 織田氏一門』 岩田書院、2016年)

・黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院 政略結婚からみる戦国大名』(中世から近世へ 平凡社、2017年)

・黒田基樹『今川のおんな家長 寿桂尼』(中世から近世へ 平凡社、2021年)

・黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社新書、2022年)

・平山優『武田氏滅亡』(KADOKAWA、2017年)

・本多隆成「松平信康事件について」(『静岡県地域史研究』第七号、2017年9月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?