「そうだ、越前に行こう」―『越前国相越記』を読んでみる①

 『越前国相越記』は天正三年八月の織田信長による越前一向一揆征伐の時に、興福寺大乗院門跡である尋憲が陣中見舞いと称して越前に下向し、門跡領であった河口荘と坪江荘の回復を信長に働きかけた際の記録である。

 本史料は信長による越前一向一揆の徹底的な掃討作戦(神田千里や竹間芳明など)や後に信長から越前の支配を任される柴田勝家の領域支配(丸島和洋など)に関する研究で用いられる場合が多い。

 本稿では「『越前国相越記』を読んでみる」と題して史料全体の内容を意訳しながら、失われていた門跡領を回復するために尋憲が現場において如何に奮闘していたのかを検討してみたいと思う。


■尋憲が越前に出発するまでの河口荘・坪江荘の状況

 河口荘・坪江荘の成立および歴史的経緯については、『福井県史』通史編2 中世に概要がまとめられているため、下記URLをご参照いただきたい。

『福井県史』通史編2 中世 (fukui.lg.jp)

 両荘は応仁・文明の乱を経て越前朝倉氏の一族やその家臣たちが段銭徴収の代官を務めるようになり、それによって半済停止を求める興福寺の要求が朝倉氏によって拒否されるなど大乗院門跡による支配は形骸化しつつあった。ただ、朝倉氏は河口荘・坪江荘に対する大乗院の領主権は認めており、本役銭の納入は継続していたという。

 しかし、天正元年に朝倉氏が滅亡すると、両荘は一向一揆勢力によって押領されてしまった。そこで、大乗院門跡尋憲は時の権力者であった織田信長に働きかけることによって河口荘・坪江荘の回復を企図したのである。

十月(中略)
廿四日、(中略)
一、従京都信長へ、越前河口・坪江両庄儀付、一書幷巻数事切々被仰下之間、夜入下書沙汰之、翌日書遣之、

『多聞院日記』(大日本史料総合データベースを参照)

越前国かわくち幷つほゑ両庄の事(中略)
右此庄ハ、代々当門跡として往古より支配せしめ、法会以下厳重に申付候、此段そのかくれなき事候、しかる處に、朝倉かの一国を存知の時より公用減少せしめ候て、両庄は全くハ寺納せすといへとも、当知行の筋目ハかハる義なく候キ、所詮先規のことく、かの二ヶ所一円ニ直務申候ハてハ、大法会の義とゝのへかたく候、此たひきと仰つけられ候ハゝ、寺社ともに再興のハしめたるへく候、去年以来ハ無足たりといへとも、大衆等に対して私の力をはけまし、わきまへを致して、今日まて法会をたいてん申さす候、さりとてハ天下への忠節無比類よし、 叡慮の義候、此上にをきて越州やかて御理運たるへく候へハ、その砌にいたりて必々もとのことく返しつけられ候ハヽ、当門の面目寺門の大慶此義に過へからす候、かの両庄安堵につきてハ、しかしなから新御寄進たるへく候、然らハ御武運長久の御祈祷あひくハへて可申付候、
 天正二年
  十一月十九日     大乗院
   弾正忠殿

「大乗院文書」(大日本史料総合データベースを参照)


 そして、天正三年八月に信長は一向一揆勢力を平定するために越前国に侵攻する。この好機を逃すまいと考えた尋憲は、河口荘・坪江荘の回復を信長に直接訴えかけるために自ら越前に向かうことを決意するのである。

 ちなみに尋憲は、二条家十三代当主かつ前の関白であった二条尹房(大内義隆の招きで周防に下向、後に陶隆房の反乱に巻き込まれて死亡)の子息であり、興福寺大乗院門跡の立場にある「とても偉い人」であった。


■出発


「(表紙)
          天正三年乙亥八月日
                越前国相越記   
                                 」
 
天正三年乙亥八月日
越前国河口庄および坪江庄は、白河院および後深草院からご寄進いただいて以来、我が方の当知行は間違いないことである。このたび、織田弾正忠信長は越前国の一揆を成敗するために八月十二日に出馬、十■(原文ママ)日に至って望み通り入国したという。その両庄について所望するために、私(原文では「愚」)は越前に向かうことを決意した。

※河口荘は康和二(1100)年に白河法皇が春日社の神前で一切経転読を始めた際に、春日社に給付財源として与えた土地である。また、坪江荘は正応元(1288)年に後深草上皇が春日社頭で行う新三十講の財源とするために寄進したという。このような由来が『越前国相越記』や上記の「大乗院文書」には記載されている(『福井県史』通史編2 中世を参照のこと)。

 二十一日
一、未刻に奈良を出立し、井出麓で宿を取った。寅刻に宿を立ち、京都の二条殿のもとへ向かったのは、私、市兵、寛舜、連宗、ススキ、春竹、与三、与二郎、三郎、次郎、馬一頭であった。
 
二十二日
一、巳刻に二条殿のもとへ到着した。家門は今日奈良に飛脚を送ったと仰っていたが、道中では会わなかった。道具などを用意する。馬の鞍や鐙を新調した。切付・肌付は中古であったが、障泥・力革は新調した。その他の道具はそれぞれ用意した。二条殿より宮内大輔を付属していただき、同行することを了承した。同じく用意する。
一、市右衛門が参上し、鍋など新調した道具を持ち寄ってきた。
 
二十三日 京都を出立
一、近江国和邇という所に到着した。海辺の端である言蔵坊城の麓に宿を取った。私、兵、寛、連、市右、宮内大輔、ススキ、与三、与次郎、三郎、次郎、与三郎、大輔中間与三郎、人夫一人、馬一頭。以上、十四人と馬一頭である。 

(1) 8/21~8/23 奈良を出立した興福寺大乗院門跡・尋憲が通行したルートの推定

二十四日 和邇を出立
一、近江海津(原文では「貝津」)の彦衛門の所に到着。今日は雨が降った。
 
二十五日 海津を出立
一、敦賀(原文では「鶴賀」))の具足屋という所に到着。大雨が激しい。六十城の麓である。

(2) 8/24~8/25 和邇を出立した興福寺大乗院門跡・尋憲が通行したルートの推定

 二十六日 敦賀を出立
一、今城を越えて、荒廃した宮後に野営して一夜を過ごした。木ノ目峠で与三郎、人夫が体調を崩したので、二条殿のもとへ帰国させた。
 
 二十七日 今城麓から出立
一、一乗谷の信長本陣に到着した。宿については(武井)夕庵の配下の者が奔走して工面してくれた。

※「村井貞勝宛印判状写」(「高橋源一郎氏持参文書」)には「廿日書状、今日廿二、至府中到来、披見候」とあることから信長は八月二十二日に府中に滞在していたことが分かる。また、池田家本『信長記』第八には二十三日に信長が一乗谷へ陣替していることが記載されている。

「八月廿三日一乗之谷へ 信長被移御陣賀州まて 稲葉伊豫 維任日向守
 羽柴筑前 別喜右近 永岡兵部太輔
打入之由任注進」

(池田家本『信長記』第八)

 二十八日 一乗谷を出立
一、豊原寺へ信長が陣替するとのことで、同道してその寺に向かった。「原田備中守(原文では「原田備中」、原田直政)の陣所を宿泊先として申し付けた」と、(信長は)一乗谷にて言った。備中守の本陣も同じ場所にあるのだろうと思い、信長の旗を目印にしてその寺に到着したが、備中守の陣所はまだ山を越えておらず、北方にあるとのことである。どうすればよいのであろうか、思いがけないことであったが、まずは本陣を目指したところ、魚住(隼人正)の陣屋が前方にあるのを発見し、かくかく申し上げたところ、「それならば拙者の陣所にお出でください」とのことであったので、そこで宿を取った。

※池田家本『信長記』第八は「八月廿八日豊原へ被寄御陣」と記載する。

※魚住隼人正は初めは斯波氏の家臣であったが、後に信長に馬廻として仕えて桶狭間合戦や摂津池田城の戦いで奮戦したことが伝わる。『越前国相越記』では尋憲の世話役として、信長や原田直政との間の仲介役を務めていたことが数多く記述されている(谷口克広『織田信長家臣人名辞典』)。

(3) 8/26~8/28 敦賀を出立し、信長本陣に到達した尋憲が通行したルートの推定


To Be Continued…


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