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実はあまり知られていない語学留学の弊害

日本にはなぜか、英語を話せるとかっこいいという多くの人が共通して持っている認識がある。近頃の「英語は必須」ブームによって、ますます英語を話せるようになりたい!語学留学したい!という人は増えているのではないだろうか。一見華やかに見える語学留学だが、今回はあまり語られないその弊害について触れたいと思う。

5年前の私も英語を話せたらかっこいい(キラっ)と思っていた一人だった。大学卒業後、晴れてカナダに留学し、10ヶ月の留学を経てニューヨーカーに通じる英語を身につけた。そこまではある意味計画通りだったわけだが、英語を話せるようになるという大義名分を果たし悠々と日本に帰国したとき、初めて自分が失ったものに気づいた。某マンガの名言『人は何かの犠牲なしに何も得ることは出来ない。何かを得るためには同等の代価が必要になる』は本当にその通りだな、と実感した。

一言に「弊害」と言ってもその程度は様々で、ここでは私が経験した帰国後の弊害を、深刻さの軽いものから順番に紹介していきたいと思う。ちなみに、もっとも深刻だと思った6は留学後に在籍した日本の理系大学院での出来事で、その環境が特殊であったがため起ったことかもしれない。(全ての人に当てはまるわけではないと思う)

1. 日本語(単語)がすぐに出てこない
日本語―英語だけでなく、複数の言語を喋る人あるある。ある意味自分も彼らの一員になれた感を味わえるのであながち悪い気分ではない。

2. 怒りっぽくなった
英語は自分の感情を思い切り表現する言語である。正の感情もそうだが、負の感情もしばしば倍増される。英語を話すようになって以前よりも「怒」スイッチが入りやすくなった。ただ個人的には、以前の自分が感情面でフラットな人間であったので、今いろいろな感情を感じて表現できるようになったことが嬉しい。

3. カラオケが下手になった
日本語では口の先の部分で発声するのに対し、英語は喉の奥を大きく使い発声する。留学中に英語の発声を猛特訓した結果、日本語を発声するときの喉の使い方がわからなくなった。自分にしかダメージはないが、カラオケでJ-popを歌うのが好きだった私にとって地味につらい代償だった。

4. 日本語を聞き取りづらくなった
英語の大きな声量に慣れ、日本語の小さな声量が聞きづらくなる・今自分が何語を聞いているかわからなくなる現象が起きた。帰国後、お寺内の焼き餅屋さんのバイトをしたが、お客さん(おじいちゃん・おばあちゃん)が話す小声の方言が聞き取れなくてかなり困った。自分の耳が悪くなったのか疑うレベル。(本当に耳が悪くなったのかもしれない)


5. 日本人恐怖症を発症
英語の感覚でついつい日本語を話すとフレンドリーすぎる人になり、変な人・危ない人認定される。また敬語を使うのが下手になり(というか尊敬語・謙譲語はいらないというスタンスになり)、敬語使いを気にする年上の人との会話が恐くなった。総じて、日本人との距離感・コミュニケーションの仕方がわからなくなり、日本人と日本語で話すことが恐くなった。(日本人と英語でやりとりするのは全く問題ない)

6. 自分のアイデンティティー(自分は何人(なにじん)である、という信条)を失いかける
日本社会に馴染めなくなった。たとえば、次のようなことに敏感になり、反発を覚えるようになった。

●年齢や学年が1年でも違うと先輩・後輩関係になってしまい、敬語の使用とともに上下関係が生まれてしまうこと。そんなことの違いでなかなか友達関係になれないことがとても残念。

●女子なんだから〜しなさい、というおじさん(教授)達からのアドバイス。飲み会の席で偉い先生にお酒を酌むよう言われたり、「女の子なんだから、(人生)あんまりふらふらせずにちゃんと将来のこと考えたら?」と言われたり。私が男だったらふらふらしてよかったのか?という疑問。

●集団内の同調圧力。人と違うことを言う・行うと仲間ではない(=敵・危険因子)と認識されてしまうこと。以前の私からは考えられないが、留学後はっきり物を言う性格になった。大学院入学後の新入生の集まりで、嫌と思ったことに対して嫌と言うと、その後その集団から無視されるようになった。大学院生にもなって何をしてるんだか。

留学生と日本人の板挟みにもあった。研究室で留学生たちと楽しくおしゃべりしているときに、英語のできない日本人が日本語で彼らの悪口を言うことがよくあった。日本語があまりわからない留学生たちがどう思っていたかは知る由もないが、私にとっては苦痛だった。また日本語がわかる故に、“日本人的な振る舞い”を求められた。自分が、日本語ができない留学生だったらよかったのに、と何度も願った。

しかし、かと言って他の国の社会・文化に馴染んでいるわけでもない。日本人でも外国人でもない、その中間にぶら下がっている感覚が常にあった。

英語留学から数年後、南米ボリビア滞在中に参加したウユニ塩湖のツアーでは、アジア人は私一人だけで他は皆ヨーロッパから来た人たちだった。共通言語は英語だったが、会話の内容に全くついて行けずとてもつらかった。「会話に入れていないんじゃないか、孤立して寂しいんじゃないか」と周りに察してほしい、声をかけてほしいと思ってしまう私は結局日本人だな、と海外にいるときは痛感するのだ。

英語留学を通して得たものは計り知れないし、それらのおかげで今の私があることは紛れもない事実である。(英語留学で得たものについてはまた別の記事に書きたいと思う)だから英語を身につけるために海外留学したい人には、ぜひ行っといで!と背中を押したい。ただ、海外の語学学校に行くと毎日のように「あなたはどう思うか?」「なぜそう思うか?」を問われる日々が待っている。その日々の中で自分の意見を持つことを身につけるのだ。一方、日本に帰ると(日本語では)周りとの対立を避け”調和”を保つため、なんとなく、ふんわり生きることを求められる。このように、英語と日本語の性格は対極であり、英語の性格を習得すると、日本語の性格を部分的に失ってしまうかもしれないことも知っておいてほしい。


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