見出し画像

第2話 "ネルコはASDである、間違えるな、不敬である"

私はいわゆる健常者ではない。しかしながら、障害者というのも未だに抵抗がある。理由は世間の無理解にある。世の中にとって身体以外の障害といったら知的障害か統合失調症のどちらかであるといっても過言ではないだろう。少なくとも私はその両方の扱いを受けたことがある。私はそのどちらでもない発達障害と呼ばれる障害を抱えている。細かくはASD(自閉スペクトラム症)である。簡単に説明すると、極限まで研ぎ澄まされた空気の読めなさ、曖昧な指示への無理解、感覚過敏(自分の周りで交わされる自分に関係のない会話が邪魔になって物事が手につかない&頭が痛くなる)だ。もう一つ、表情の乏しさも障害の顕在化だそうだが、これにはちょっとしたメリットが存在する。顔にシワが残りにくいのだ。

うんざりするほど混同されてきたのが知的障害だ。私、知能は正常なんだが?その年によって偏差値が60を超えたり割ったりする、微妙ながらも伝統のある国立の四年制大学を卒業していることからもそれは明らか。私からすれば問題なのは曖昧な要求を出すほうなのだが、相手からすれば「ネルコさんは簡単な仕事もできないんですね(=頭が悪い)」という印象になりやすいのがASDであり、私である。例えば「この資料を11時までに最優先で完成させて欲しい。他の仕事は放置でよい」と指示されれば私はきちんとこなすはず。それなのに「昼イチの会議資料だからね!」だけでは汲み取れません!ということなのだ。私は理系の人間ではないけれど、統計データがほしければ準備もできるのに。能力を活かす術を見いだせなかった連中が私のことを「無能」と見下すのだ。なんて客観視を欠いた人間たちだろうか!

私には自分の能力に対する確信があったものの、周囲から、そして会社からの評価が低いことも自覚していた。入社4年目冬ボーナスのフィードバック時に上司から「3回連続でC評価(D‐~S+までの評価)では来春からベースの給料を減らすしかない」「不真面目とは感じない」「何が問題なのかカウンセリングを受けてみないか」と伝えられて私の中で何かが折れたような、諦めがついたような気がした。社内に常駐している産業医に相談をしてからはとてもスムーズだった。私は最寄りのメンタルクリニックを受診し「ASD(自閉スペクトラム症)です」という診断を受けたのだった。

私は愛媛県松山市に住んでいる。以前は別の場所(といってもさほど離れた場所ではない)に住んでいたが"事情"があって母と一緒に2年ほど前に移住してきたのだ。

「私は障害者だったのだ」という事実を受け入れるのはそれほど難しくなかった。私にとってそれまでの人生は理不尽な苦しさを感じることが多く、他人が理不尽の原因であると考える理由がしっかりとある一方で、いつも私だけが異常者扱いされる状況との不整合が気になっていた。さすがに「障害ならしかたない」とまで楽観的になることはできなかったし、私が悪いという結論も受け入れ難かったけれど、私が孤独に悩み続けることを辞めていい理由としては十分だった。

診断を受けてからの半年間、私は自分を徹底的に抑えつけて何とか耐え忍んだ。会社の同僚達が好む非効率極まりないやり方に倣い、私への仕事は私が指定した様式の指示書への記入をお願いした。人生の中で最も口角を持ち上げて生活した半年間だった。迎えた夏のボーナスフィードバック時、私の評価はB+に上がっていた。何もかもを我慢して生活したのに、その程度の評価に留まることにはちょっとした虚脱感があったが、いいのだ。

私はその直後に退職届を提出した。私の退職金を少し上乗せするための半年間。そして私の障害者手帳申請が可能になるまでの半年間。

さて、私は自分のASDという障害を過小評価はしなかったんだよ。何か手を打たないと、あんなに苦しい思いをしてもB+評価が私の限界だと理解した。ASDという障害はとても手強い。私は他人の手を借りるのが一番だと判断した。手を借りるとなった時に問題が見つかった。私が住んでいる土地は限界集落のようなものではなかったものの、車での出勤を余儀なくされるような交通の不便さがあり、社会福祉全般についても貧弱といえることだ。

ここからの判断は容易なものではなかったけれど、その割に文章にしても味がしない地味なものだった。だから結論だけを書こう。私が自分に十分な福祉を受けるために、私と母は亡き父が残してくれた家を出て、愛媛県松山市への移住を決めた。

いいなと思ったら応援しよう!