第1340回 東北に残る技術への憧憬
1、お誘いありがとうございます
今回は久しぶりに講演会にオンラインで参加したので、その報告。
東北学院大学アジア流域文化研究所 公開講演会
「倭城の築城と近世城郭への影響」
2022年11月12日(土)13:30~16:30
幹事役の竹井先生からご案内をいただいたのです。
2、石垣と瓦
中井均氏は中近世城郭研究の第一人者で、
竹井先生もなんと中学生の頃に彦根城を見学しに行った帰り道、
彦根駅前の本屋さんで中井氏の著書を買った、という思い出話から始まりました。
オンライン参加も50名ほど申し込みがあったとのこと。
それだけ注目されているのですね。
本題の「倭城」とは文禄・慶長の役、豊臣秀吉の号令で朝鮮半島に攻め込んで行った際に築かれた日本式のお城のことです。
ある意味日韓関係の負の遺産的な性格から、古くは「歴史のあだ花」という扱いだったようですが
戦国時代から近世城郭への過渡期にあたり、
城郭変遷を解き明かす上での貴重な歴史遺産、と中井氏は強調します。
主たる話題は「縄張り」という城郭の平面構造と「滴水瓦」という遺物について。
まず倭城を拠点的な城から支城に位置付けられる小さな城まで5種に分類して、それぞれ実例を写真を提示しながら紹介します。
個人的には全く未知の世界なので驚きの連続です。
日本式の城郭がいかに純軍事的な技術として発展していったのかがよくわかる内容でした。
朝鮮の儒学者で、日本の藤原惺窩にも影響を与えたという、姜沆という人物も倭城を高く評価していたようです。
そして倭城造りで技術を磨いた各地の大名たちが地元に戻ってそれぞれ「登り石垣」「仕切り石垣」という構造を採用している例が多いこともよくわかりました。
一方の滴水瓦も、朝鮮出兵経験者たちが自分の城に採用していた、というストーリーが語られます。
滴水瓦には角度が日本の瓦と違い、雨が効率的に流れるようになっているのですが、熊本城では江戸時代後半にはその利点は失われ、見た目だけになっていく、という流れがが語られますが、
我らが伊達の領内で使われている滴水瓦は最初から見た目を少し寄せているだけなの…
瓦工人も東北までは来てくれずに、見よう見まねで作ったのかな。
そう言えば鎌倉時代の瓦も南都系って奈良の法隆寺の再建瓦と紋様だけ似ていたけど、おんなじ構造になっているのかも。
3、反骨精神こそみちのく
伊達政宗が朝鮮から出した手紙の中に、
「俺らの築城技術も上方のやつらに負けてないぜ!(超意訳)」
とあった、との話題も出ていましたが、逆に強がりに聞こえてしまうのよね。
京都から遠く、文化に対する憧れがより強いからこそ、花開く、
それは東北の地政学的な宿命なのかな、と思ったのでした。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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