第401回 即答できなかったことはすぐに調べる

1、子どもからの素朴な疑問が一番こわい

梅雨入り前の東北は新緑が眩しくて

汗ばむ陽気の中に爽やかな風が心地よい、

そんな1日でした。

今日は地元の小学生を案内して校外学習の講師となりました。

そこでふと出た児童からの質問

伊達政宗には子どもは何人いたんですか?

その場はなんとかしのぎましたが

ちゃんとインプットされていなかったのは反省。

2、政宗は子沢山?

Wikiレベルの情報で恐縮ですが

伊達政宗には少なくとも10男4女がいたとされています。

少なくとも、ということは隠し子とか…

今回はそこには深入りしません。

公式見解として知られている情報のみを書き出すと

 長男 秀宗 宇和島藩初代藩主
 次男 忠宗 仙台藩二代藩主
 三男 宗清 吉岡伊達家 35歳で死去 
 四男 宗泰 岩出山伊達家 
 五男 宗綱 岩ケ崎伊達家 16歳で早世
 六男 宗信 兄宗綱の死後岩ケ崎伊達家を継ぐ。24歳で無継断絶
 七男 宗高 村田伊達家 20歳で無継断絶 
 八男 竹松丸 早世
 九男 宗実 亘理伊達家 
 十男 宗勝 一関藩主 伊達騒動で改易、断絶
 

こうしてみるとわが子に継承できたのは長男秀宗と次男忠宗、四男宗泰、九男宗実という限られた数になってしまいますね。

やはり前近代の生存率、しかも戦国の世が終わってもこの数ですからね。

血を絶やさないためには相当な人数が必要だったのでしょう。

続いて女子。おそらく早世した娘は記録に残されていないかと思われますが

 長女 五郎八姫 松平忠輝室 改易後離縁 仙台で68歳まで生きる。 
 次女 牟宇姫  石川宗敬室 3男2女を授かり、76歳の長寿を全うする。
 三女 岑姫   伊達宗実室(涌谷伊達家)子をなさず20歳で死去。
 四女 千菊姫  京極高国室 4男2女をもうけるも、30歳で病没。

一門の有力者に嫁ぐ場合と、他の大名家へ嫁ぐ場合とふた通りあったようですね。

3、縁戚関係を整理してみる

そして前から気になっていたのですが、

いわゆる伊達騒動で頼られる縁戚は具体的にどのような血縁なのかということ。

併せて黒田家に伝来していた松島図屏風が縁戚関係を通じて伊達から送られたのではないかという話題がありましたね。

どうつながっているかを理解するために自作の系図を作ってみました。

作り慣れていないのでおかしな所とかご指摘ください。

まずは二代藩主の忠宗の正室は姫路城を築いた池田輝政の娘。

三代藩主綱宗とは従兄弟にあたる光政が伊達騒動に関わったと言うことになります。

綱宗の義理の兄弟にあたるのが立花忠茂。

この二人が伊達騒動の際に縁戚大名として顔を出します。

伊達騒動に限らず、江戸時代は問題を起こした大名が

預けられたり、改易された城を接収する役割を担ったりする

大名同士の関係はずっと気になっていたので

自作でもある程度整理できるとスッキリしますね。

さらに立花忠茂の娘、呂久姫が福岡の黒田家に嫁いで

所持していたのが松島図屏風。

黒田家とは伊達政宗の叔父にあたる留守政景から

三代数えた伊達宗景の代に縁戚になっています。

このあたりが屏風が贈られたことと関わっているのではないか

とされています。

4、系図を書く面白さ

いかがだったでしょうか。

伊達家は政宗の曽祖父にあたる稙宗が

近隣大名と縁戚になりすぎて逆に大混乱を起こしたということは知られていますが

江戸時代は平和な時代と言いながらもお家騒動があったり、無継断絶があったりと

それはそれで生き残りに苦慮していたという側面もありました。

なんか複雑な縁戚関係も読んだだけでわかった気にならないで図に整理してみるのも面白いかもしれませんね。

ちなみに松島町には供養塔を納める洞窟があるのですが、

政宗の三男宗清、四男宗泰、七男宗高の3名の供養塔だけあるんですよ。

この三名だけに共通する点も思い浮かびませんし、何かあるんですかね。

実は政宗の子全ての供養塔がもともとあったが、長年の風雨で刻んだ文字がすり減り、

たまたま3名分残っただけという可能性もあるかもしれませんね。

ちなみに系図を作るのに便利なアプリとかもご存知の方がいらっしゃったらご教授ください。



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