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誰もが道の途上

バガヴァッドギーター 本読み会27回目

第1回が始まったのは2023年9/14でした。

毎週火曜日の8:30〜9:00に、zoomで行っています。

科学で解くバガヴァッドギーター

本はこちらを使っています。「科学で解くバガヴァッド・ギーター スワミ・ヴィラジェシュワラ大師 著 、岡本直 訳、木村慧心 監修」


今回は第四章9〜12節です。


ここには私が印象的だったところを書き残しています。共感いただけたらとっても嬉しいです♪


第四章 智慧による行為からの解放

1.怒りと執着に効く薬

10節
貪愛(ラーガ)と恐れ(バヤ)と怒り(クロダ)との思いを克服し、常に我に専念し帰依することで、多くの者たちが智慧(ジナーナ)と苦行(タパス)の火によって浄化され、我の境地に到達している

科学で解くバガヴァッド・ギーター

でたー、また出たわ!笑
貪愛(情欲と執着)と怒りについてです。

感覚器官の満足は、好きを欲しがり、嫌いを避けたがること、普通の人間の生きるモチベーションになってること。

それに執着があると、これが破滅に…怖

しいと思い、手に入らないことで怒りに変わる。怒りから妄想がふくらみ、妄想の中で記憶は混乱し、記憶が曖昧になるから、冷静な判断力が喪失し、人は破滅する…怖

これは私が考えたわけではなくて、
バガヴァッドギーターの二章62節と63節に書かれています。


と、いうわけで執着と怒りがわきあがったら、ヨガ的には病気にかかっていて、

その薬は智慧と自分の役割に集中し、目の前のことを淡々と行うこと。

苦行はしなくていいです〜苦笑
苦行に酔う、苦行に満足を感じてる人は飛び込むだろうね?

2.人のカルマに手を出さない

同情とか憐れみは通常の場合、美徳とされているが、これらの思いも執着の一種であって、ヨーガ行者にとっては弱点となるものである

科学で解くバガヴァッド・ギーター

ここにはハッとさせられました。



相手のエピソードを聞いて、相手立場に立ってみて想像し、そうだなぁと理解をしめす、共感。

同情や憐れみは相手の苦しみや悲しみを救ってあげたい、という自分の気持ち。それは、仏様のような慈悲を感じますがねー。

相手はそれを乗り越えて行けない弱い人、私がそれを引き受けなければという自己犠牲や、

良い悪いと判断する自己中心的思いが、もしかして隠れているかもしれません。


自分が相手の力を信頼して、そしてそのことによって、その人の魂が成長していく、その人にとってカルマを解消するチャンス。

相手の課題を肩代わりしても、良いことはないです。共依存的になったり、代わりにカルマを背負うと、他人のせいにされたり、結局は痛い思いをすると思います。なぜなら、新たなカルマを作っているのだから。

人によっては、同情や憐れみが執着というのは、冷たく聞こえたかもしれません。

静かに寄り添って相手を信頼して見守る、助けを求められたら冷静に対応する。それは自分の心がニュートラルで強くないとできません。本物の慈愛かな。

3.誰もが道の途上

11節
誰がいかなるやり方で我を礼拝しようとも、我はそれに応じてその者たちを受け入れ祝福するであろう。その者たちはどこにあっても、我に至る道をたどるからである

科学で解くバガヴァッド・ギーター


私はたまたまヨガというものに出会って、たまたまそれが深まりました。


それは私の人生にとっては恵みです。


自分の人生とはなんなのだろうと、自分に問い、何か答えを探していた30代。ヨガに出会って、身体が癒され、自分の心も疲れていたことに気づきました。


ヨガ哲学との出会いは、目から鱗でした。本当の私とはなんなのだろう?という思い、真の幸せや真実をみたいという探求の始まりです。

私にとってヨガは単なる健康法ではなかったのです。なので、探求の道は最初は新たな世界を知ったような思いで楽しい修行でした。(修行って…笑)


苦労して手に入れるほうが良い、という幻想があったかも。

集中して聖典を学びヨガの瞑想した時期もあり、それによって開かれる思いと、自己探求しているうちに苦しくもなりました。

「永遠普遍のあなた(絶対者ブラーフマン)がなぜ輪廻させるのだろうか?!」と、なぜ?どうして?という怒りと葛藤の思いが湧き上がってきたのです。

その途上で統合に出会い、ヨガ哲学の本当の意味がよくわかりました。


それはまるで山の頂上から、山全体を見渡すような感覚で、全体の中にある自分を見るような意識となりました。


ヨガ的な修行が、絶対者ブラーフマンに向けて、一歩一歩と歩みを進めて到達を求めて修行するような感じ、今生では到達し得ないと疑いの気持ちを抱えながら…。


統合はいきなり自分がすでに到達している意識であるとしたら、分離を起こしている自分(怒りや悲しみや葛藤)を癒して解放するような感じ。もともとが到達している意識であることが前提。


私は個でありながら全体である。


それまでの私のとらえていたヨガは、理智を鍛えてエゴを肥大化し、全体から分離していたんですよね。


それがわかった時に、オセロの黒が白へと変わっていくかのように、ヨガに対するとらえかたも変わり、別の角度をつけて向き合っていけるようになりました。

それは苦行ではなく、ギフトであり喜びです。


私にとっては、やはりヨガが根底にあります。それをベースにして紐解きます。


これは良いとかこれは悪いなんてない。
私はいろんな山の登り方があっていいと思います!目標は頂上に辿り着くこと。
手段はいっぱいでもありと私は思います♪

そして、わたしならお花を眺めたり休憩もしながら楽しく登りたい。

誰もがの途上なのだから。
そう思えば、自分も許せるし、誰をも許せてしまいます。仲間として。

人は自分の持つ壺からしか水を飲むことができないように、自分に真にふさわしいものしか手に入れることはできない。

科学で解くバガヴァッド・ギーター


そうだと思います。
自分の目の前にある全てが、今の自分に相応しい。


4.私は才能があり豊かである

現代ではたくさんのヨーガ行者たちがいろいろな名前をつけて能力開発のヨーガを解いているが、ヨーガの目的を超能力の獲得と間違えてはならない。真面目なヨーガ修行者は、決してこのような誘惑の餌食にされるように用心しなければならない。

科学で解くバガヴァッド・ギーター


スピリチュアルという言葉が、何か人とは違う特別なものという意識、またお金を集めることが豊かと錯覚し、その欲望を刺激する。


私は能力と才能があり豊かである、と、信じていない人は、気をつけましょう。


外側の勉強に熱心な人。資格取得も外側のこと。それにチャレンジすることで、あなたはどうなりたいですか?


私の場合は、やってみて違うな、とわかったら引き返すのもアリかと思ってます。


由紀子

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