自分に正直に生きる
バガヴァッド・ギーター本読み会21回目
毎週火曜日の8:30〜9:00に、zoomで行っています。
21回目は三章31節〜36節でした♪
本は“科学で解くバガヴァッド・ギーター スワミ・ヴィラジェシュワラ大師 著 、岡本直 訳、木村慧心 監修”を使っています。
第1回が始まったのは2023年9/14でした。
ここには私が印象的だったところを書き残しています。共感いただけたらとっても嬉しいです♪
第三章 無私の行為
1.本性に従う生き方
元の命は同じだとしても、ひとりひとり違う心と身体をもって生まれてくる。
植物も動物も、全ての生き物はその生き物としての本性のままに、自然の動きに同調し生きる。
季節が巡り、花が咲き、実がなり、巡る季節に合わせて子孫を作り死んでゆく。
それは智慧のあるものほどそうなのかもしれない…。自然と一体になって。
現代の人間は、巡る自然や本性に従うより、自分にとっての好き嫌いや、損得に動かされ、自然の摂理から離れていることが、心身の病気や苦悩の原因になっているかもしれません。
舌を喜ばせる、目を喜ばせる、耳を喜ばせる、鼻を喜ばせる、手触りを喜ばせる。
それは楽しみであり、心地良いものであり、素晴らしいと思います。
自然摂理を無視し本性を忘れ、感覚器官の満足に執着すれば、心身の苦悩となり、病気という形で現れるでしょう。
すでに現代の私達は、不自然なことがあまりにも当たり前になっているかもしれません。
私の生活を見渡してみると、夜は明るく、季節に関係なく食材があり、スマホが手放せない、刺激的で感覚器官の快楽を誘う情報の流れ。
科学の発展進化で便利で有難い恩恵を受けつつ、一方で本性や自然の摂理からみれば不自然な人間の生活。
ちょうど最近こんな本を読んだところです。
自然の中で現代人から見たら隠者のように暮らすアナスタシア。
病を癒すものは、自然の中にあり、自分が育てた作物が、自分の薬となる。
自然と離れて暮らしている自分には、なかなかすぐに真似できないですが、人間も自然の営みの中で暮らすことが自然なのかもと思いました。
続編もあるようなので、読んでみようと思います。
2.後悔も想定内か
私もアルジュナと同じことを思いました。
自分が持っている本性の通りに生きることで、誰かを傷つけたり、苦しめたりすることも自然なことなのか?
そして、あとから後悔するというのも本性なのか?と。
自分の本性の通りに生きることは、きっと生まれる前に決めてきたことなのかもしれません。
悪役を演じる役目をこの世で仰せつかって、多くの人の気づきや魂の進化に貢献しているとするならば、
有難くその体験から学ばせていただく。
今、私はどう在りたいのか、何のために生まれてきたのか。だから、身体の声、感覚に耳を澄ませてみる。
魂の役割は気づき。それを取り巻く本性(プラクリティ)は変化するもの。
「私の」「私が」という思いも変化するもの。昨日の好きは今日の嫌い。今日の嫌いは明日は好きかもしれない。
それぞれの自我がぶつかり合うことは、終わりない苦悩。相手の本性を私の本性に合わせてね!という感覚器官の満足は、永続しない幸せや束縛へと向かう。束縛は相手だけでもなく、自分自身の首も締めてる。
私達の本質は純粋で永遠であるがゆえに、魂は悪役にもなれるし、本質が本物の悪ではないから体験を通じて「後悔」という気づきができるためかな。。。?
その深い気づきの体験は、履歴としていずれは行く、あちらの世界へ記録としてもっていけるなら、役割を演じ役目を果たせたなら全てが尊い。
3.自分に正直に生きていきたい
それが、バガヴァッド・ギーターの根底に流れている、カルマ・ヨガだと思います。正義も悪もなく、与えられている役割を全うせよ。
ビーシュマやドローナのような賢者は、老齢であり戦うことを避けることもできたが、執着から離れて役割を果たすことができた。
もし、悪役を演じたり、悲劇を演じるのも、充分に体験したからその役割や役目をもうやーめた!って役割の変更を宣言するのもよいと思います。
そのお役目から離れることが、自分の本性なのか?その役目を続けることに執着がないか?
人生は気づいた時からやり直せます。なぜなら、本質の命は永続なのだから。
それでもこの心と身体を持って生きるのは、二度とはない貴重なことなので、自分に正直に生きていきたいものです。
由紀子
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