見出し画像

あの怪異は私だったかもしれない。『劇場版モノノ怪 唐傘』

 TVシリーズに一切触れないまま、『劇場版モノノ怪 唐傘』を観た。友人からの薦めと、『ガッチャマンクラウズ』のオタクなので中村健治監督のお名前につり球釣られた形で観にいった。そしてどうなったかといえば、ずっとこの作品のことを考えている。

 豪華絢爛。幻想的。全編がさながら絵巻のようであり、万華鏡のようであり。本作の映像をどう表現すれば良いか、私の貧弱な語彙では本質を捉えなれない。ファーストカット、眼の前の銀幕に「和紙」の質感が現れた瞬間の驚きで、一瞬にしてこの映画に心奪われてしまった。それから約90分、映像・音楽・演出・演技の全てに圧倒され、脳が処理できないままに「二章に続く」を食らって、フラフラになりながらスクリーンを退場していた。

 本作の情報量の多さを前にして、どのような切り口で感想を残していこうか。鑑賞中の思考を思い出そうとしてようやく取り出せたのが、「社会人映画としての質感がすごい」という、何ともふんわりしたお気持ちだった。

 男子禁制の大奥に、アサとカメ、二人の若き女性が新人の女中としてやってきた。アサは要領も良く、大奥での仕事をすぐに覚え、順応していく。一方、カメは覚えが悪く、決して仕事が出来るとは言い難い。アサは面倒見が良く、絆を感じているカメを見捨てようとはしないが、カメはどうしても大奥についていけなくなっていく。

 中村監督は、意図して本作を「大奥を舞台としたお仕事モノ」として設計している。大奥と聞くと、女性が男性に仕える、権力者の血筋を守るための機関という印象が強く、確かにその側面もあるが、そうした“夜伽”のお相手を務めるのはいわゆるトップ層の女性で、新人たちや位の低い女中たちは大勢の朝餉あさげを用意したり、イベントの食事を手配する、といった業務がメインとなるらしい。

新:私がノベライズの依頼をいただいた時も、“お仕事もの”だと言われたのを覚えています。大奥という女性社会を描きつつ、それが現代の人々が抱える問題の縮図になっている。そこが面白いですよね。

中村:今、新さんが言ったように、今回の劇場版では大奥を学校や企業といった組織のカリカチュアとして描いているんです。人が集まるとルールができて、そこに乗れる人と乗れない人が出てくる。個人の夢と組織の目標ってそんなにきれいに重ならないし、その中で評価される人と評価されない人が出てしまう。それは、当時の人たちも今の僕らも同じですよね。女性だから云々というより、「人間が集まればこういうことになるよね」というシンプルかつ普遍性の高い話になりました。

新:組織の中で生きていくには、どういった立ち居振る舞いをしなければならないのか。登場人物たちの思惑や苦悩が見どころだと思います。

『劇場版モノノ怪 唐傘』中村健治監督・ノベライズ作家 新八角 映画公開記念対談

 綺麗な着物を着て、男性に見初められる。そんな華やかな世界に目を輝かせていたカメにとって、実際の大奥はどう映っただろうか。カメには、大奥とは職場である、という認識が欠けていた。頑張っても覚えられない、追いつかない。私は、彼女を観ていて息が詰まる思いがした。

 「仕事ができない」ということは、戦力になれない、ということだ。それはすなわち、職場という狭い世界では価値を失ってしまう(と当人は感じてしまう)。それゆえに焦り、不手際を先輩に責められてもただただ頭を下げることしかできない。あれは、かつての私の姿だ。

 と同時に、どんくさいカメに対して、怒りのようなものを感じている自分も自覚していた。カメを観ていると「なんでメモ取らないの?」と、つい口から出そうになってしまう。自分だって仕事ができない人間なのに、よりできない人を切り捨てようとしていた、あの思考回路が恐ろしい。カメの不出来に重ねて、彼女らの若さや美しさに嫉妬し、ありもしない罵詈雑言を重ねる麦谷が、自分の中に住んでいないと、どうして言えようか。

 カメは確かに、大奥に相応しくなかったかもしれない。だけれど、それはあくまで大奥という狭い世界だけの評価でしかない。事実、カメの人当たりの良さや明るさは、アサにとって大事なものであった。アサが本当に捨ててはならないもの、井戸に落としてはならなかったのは、手前の持ち物ではなく、彼女自身だったのだ。それを失うと、アサは乾いてしまう。

 唐傘=北川は、大奥についていけなかった友を切り捨ててしまった。これで自分はお勤めに専念できると、前向きにとらえていた。だが、それによって北川は乾いてしまった。大奥で認められたい、もっと出世したい。その欲望、あるいは焦りのようなものは北川を駆り立て、誤った選択に導き、彼女は怪異と化す。北川は組織にそぐわない者を排除していくうちに、自分の心を捨ててしまった。

 薬売り曰く、怪異を断ち切るにはそのモノノ怪のかたち」「まこと」「ことわりの三つを明らかにすることが必要だという。形がモノノ怪の名前、今回であれば「唐傘」で、真は北川が怪異へと至るまでに起こった事件として、理とは何だろうか。それは、モノノ怪になってしまった人間の強い後悔や情念だと思う。

 今回薬売りが断ち切ったのは、「組織」というものに囚われすぎた、飼われる者の邪心である。俗っぽい言葉で矮小化しすぎる懸念もあるけれど、これがしっくりくる。冒頭、大奥の門を初めて叩いたアサとカメは、持ち込んだ大事なものを井戸に捨てる儀式を強制される。大事な物を捧げることで、もっとお役目に励める、みんな済ませていることだと、世話役から言われる。そんな非人道的なことがしかし、時に正当化され、弱き者は従ってしまう。私は、大事な櫛を投げ入れたカメを笑えない。むしろ、あれは私であり、この世の無数の社会人のメタファーですらあると感じる。組織に、社会に順応するため、私たちは時に何かを捨てて、取り返しがつかなくなる。

 一歩間違えれば誰もが北川のような後悔を背負ってしまう。そうさせるシステムは、残念ながらこの令和の世にも蔓延っている。私は、社会人になるために捨てたものを思い返す。具体的な物ではなくとも、誰かと会う機会や、参加するはずだった催事など、ありとあらゆるものを「社会人だから」「仕事だから」を言い訳にして、ないがしろにしてきた。私は今のところ怪異ではない。だが、北川に近い存在かもしれない。「俺はこんなに頑張っているのに」という気持ちが、心の中にないわけではないからだ。それがいずれ他者を攻撃しない確証など、どこにもない。

 薬売りは唐傘を斬り、北川の心は成仏した。しかしそれでも、大奥はまだ在り続ける。子産みのため、権力者の血筋を維持するために、女性を抑圧する残酷な仕組みは、未だ解体されていない。

 ただそれでも、アサとカメの結末は、一筋の希望となり得る。カメは暇をもらい、大奥を去ることになった。当初抱いていた大奥への憧れを捨て、田舎に帰るという意味では、不幸かもしれない。だが、彼女の顔は晴れ晴れとしており、アサは彼女が井戸に投げ入れた櫛を大切そうに身に着けている。

 二人は別れはしたが、一方が相手を「捨てた」のではない。カメが憧れた大奥の世界ではアサが自分のやりたい職として筆を取り続け、これからも表舞台で輝いていくことだろう(男性に見初められる=幸せではない、自立した生き方でもある)。カメは大奥では叶わなかった、自分らしく生きられる世界を探していくはずだ。その前途が良きことだらけである保証はないけれど、二人の心に乾きはなく、北川の人形が笑顔で見つめている。

 他者を見て僻む、嫉妬する、怒るのではなく、その者の幸せを祈ることができたら、私たちの心は乾くことはなくなる。むしろ、満たされていく。そんな道徳の教科書に載っていそうな文言を、我々は忙しさにかまけて忘れてしまう。出来ない人がいれば苛立ち、自分が出来ない人間だと悟られることを怖れ、焦り、過ちを繰り返す。薬売りが斬ったのは、現代社会を生きながら日々消耗している、働く人々の疲れ切った心に潜む悪意、だったのかもしれない。

 さて、一切の予習をせずに丸腰でぶっ飛ばされた『劇場版モノノ怪』だが、嬉しいことにこのとんでもないアニメは、なんと全3部作。あと2作も劇場で浴びれるというのだ。

 エンドロールで流れる、数え切れないほどのクラウドファンディング参加者の想いには及ばないが、自分も思わず「二章」の存在を知らされた瞬間、突然ウェズリー・スナイプスが出てきた時と同じくらいの大きな声が出た。マジでいいんスか?あと2作も、モノノ怪を……??

 次回は来年3月。また一つ、死ねない理由が増えた。

この記事が参加している募集

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。