現代向けリメイクの最適解としての『宇宙戦艦ヤマト2199(TV版)』
この知らせを受けて以降、集中的に『宇宙戦艦ヤマト』を観ている。1974年の最初のTVシリーズを経て、名作と名高い『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』へ。祖国を救うべく未知の航海に挑む者たちの挑戦は、戦争を直接経験してもいない自分にも深く刺さり、余暇時間のほとんどをヤマトに費やしている。このTVシリーズの感想としては、すでに多くのクルーから語り尽くされている本作について、『エヴァ』から遡って触れたからこその視点ということで、こちらの文章を掲載いただいている。
さて、常道ならここから『2』へと進むべきなのはわかっている。わかっているのだが、先のお知らせには気になる一言が添えられていた。
であるのなら、原典となる1974年の第一作(以下、旧版と呼称)から続くシリーズと、それを受けて次の世代が紡ぐ現行のリメイクシリーズの両方を観ることで、来る庵野版(仮称)に至る道が開けるかもしれない。その想いに誘われ、旧版の記憶が新しいうちにと、『2199』の鑑賞へと進路を向けることにした。そこに広がるのは、偉大なる原典に向き合い、その魅力と衝撃を受け継ぎつつ物語にさらなる厚みを加えよう、という真摯な試みだったのではないだろうか。
考えてみれば、「ヤマトをリメイクしてくれ」とオファーを受けたとして、その重圧はどれほどのものなのだろう。TVアニメの革命児にして、日本の少年少女に「SF」の概念や考え方の基礎を叩き込んだであろう『ヤマト』の偉大さは、こうしてサブスクリプションサービスを介して旧版を観た平成生まれの自分であっても、なんとなく想像がついてしまう。旧版の持つ爆発的な面白さと勇壮な劇伴、愛すべきキャラクターたちと名台詞の数々は、しかしどうしようもなく1974年という時代、かつての大戦に敗れ生き延びた人々の記憶や経験と結びついていないとは、素人目にも考えづらい。
その挑戦に志願したのは、出渕裕氏。こちらの浅学ゆえ、『パトレイバー』のデザイナーの方という認識しかなかったものの、こちらも視聴を薦められている『ラーゼフォン』の原作・監督を務められており、ヤマトにも並々ならぬ想いをお持ちということらしい。
『2199』を観始めた当初、当時の技術で再浮上した『ヤマト』に対して、旧版の荒々しさが欠けている、と感じた。CGなんて想像もつかない時代の、手書きとセル画による味わいは、圧巻だったのである。そして、古代や島といったおなじみの面々も、喧嘩っぽくて感情的になりやすい旧版と比べて、落ち着きのある青年といった面持ちである。軍人としてはこちらの方が正しいけれども、これが古代くんなのか!?という驚きを隠せなかった。
ところが、その驚きは話数を重ねるごとに納得へと変化していく。思えば旧版の古代は沖田艦長の病魔の進行に従って艦長代理を拝命するわけだが、事あるごとに島に突っかかる精神的な幼さや、そもそもの年齢の若さが気になっていた。主人公だから、という理由以外、彼が艦をまとめるに相応しいと理屈が、どうしても欠けているように思えたのだ。
それに対し『2199』の古代は、兄の死を受け止め冷静であろうとしつつも時に怒りや焦りに飲まれそうになる、等身大の青年へと微調整されている。副長は真田が務め、ガミラス人への怒りを露わにする旧版の捕虜の回(第13話『急げヤマト!!地球は病んでいる!!』)などの感情の揺らぎは、航空隊の女性パイロット・山本玲(旧版では男性であった)が引き継ぐ。このような改変は、古代進がヤマトの中心人物として相応しい存在に見えるよう誘導し、同じく兄を失った山本玲やそれを見守る加藤三郎といった、パイロットたちの物語を膨らませることに成功している。
今回のリメイクで最も驚いたのは、ガミラス人の肌の色の違いに「設定」が設けられたことだった。旧版では、突如としてデスラーの肌の色が「青かったことになり」、そのことに対しては黙秘したまま、ガミラス人は肌が青いことを除けば我々地球人と同じ、ということだけが明示されていく。
一方このリメイクでは、旧版でも肌の色が青ではなかった(変わる前に戦死した)ガミラス人を、「ザルツ人」というガミラスが植民化した惑星出身の、二等市民として設定する。これにより、ガミラス内部にも肌の色を出自とする偏見や差別が横行し、強大な軍事力を誇るかの惑星も一枚岩ではないことが、作中何度も示される。つまりは、差別があるからガミラス人も地球人とは変わりない、という悲しい側面も浮き彫りになるのだが。
肌が青くないガミラス人といえば、その象徴を担ったのがシュルツである。ヤマト序盤の山場を彩る強敵にして、ヤマトを沈没寸前に追い込んだはいいもののそれを見届ける前に総統に報告し、浮上したヤマトを見て焦りまくる詰めの甘さは今作でもしっかり描かれているが、見逃してはならないのが今作で追加された娘の存在だ。これにより、地球を放射能で汚す悪魔の尖兵という印象の強かった旧版に比べ、彼もまた愛する家族を持ち、生まれ持った素質による謂れなき差別に耐えながらも、冥王星前線基地の司令を任されるまでに這い上がってきた、ということが伺える。
これを皮切りに、今作ではガミラス軍の高官たちが多数登場し、中盤ではデスラーが暗殺の謀略をかけられたり、ドメルもその犠牲になり妻が囚われたりといった、ガミラス側の内政模様が描かれる機会が増えてゆく。これもまた、「戦争」をより厚く描くための追加設定なのだろう。肌の異なるザルツの者たちの鬱憤、読心能力ゆえに疎まれ利用されてきたジレルの生き残りの想いなど、ガミラスを悪しき侵略宇宙人と十把一絡げに捉えることも躊躇われる追加設定の数々は、この宇宙の広大さに複雑さを添える、良きリメイクであると私は考える。
ヤマトVSガミラスを太い幹として描きつつ、枝葉となる小エピソードも、キャラクターの深堀りやSFアニメらしい想像力に満ちた、名場面だらけである。
第7話では、乗組員が地球と最後の交信をするという旧版同様のシチュエーションを用意しつつ、森雪が会話をする相手が両親から土方に変わっていて、彼女のとある秘密への種蒔きがこの時点で行われており、旧版では乗員のガス抜きとして提案された餅つき大会が「赤道祭」の名目でパーティに変更。衛生士・原田真琴のメイド服姿はやや世界観にそぐわない気もするが、つかの間の仮装を楽しむ女性乗組員の様子は、閉鎖空間で長い時を過ごす彼女たちにとってもいい気分転換になっていることを伺わせる。そして何と言っても、名曲『真っ赤なスカーフ』が、故郷を想う懐かしい歌として流れるところに、涙を誘われる。
第9話『時計仕掛けの虜囚』は、ガミラスの機械兵「ガミロイド」の鹵獲と分析から生じる、アナライザーの主役回。自身に課せられた使命と存在理由に思考を巡らせ、初めてできた「ともだち」に想いを馳せる一方、悲しい別れが待ち受けていた。そういえば、アナライザーが森雪のスカートをめくる旧版のお色気要素を、時代不相応としてオミットしているところに、とても好感が持てる。
第14話『魔女はささやく』では、ジレル人ミレーネル・リンケの能力によりヤマト乗組員たちが幻覚を見せられ、古代や雪は家族の幻と相対する。このエピソードは全編が『新世紀エヴァンゲリオン』の補完計画じみた各人の内面を抉り出す演出に、所々に『少女革命ウテナ』のエッセンスが散りばめられた、摩訶不思議で心がざわつく一遍となっている。『ヤマト』以降のクリエイティブを『ヤマト』に還元する、本リメイクの白眉に数えたいお気に入りの1話となった。
ガミラスが一枚岩ではないように、ヤマトにも乗組員それぞれの思惑や、考えがある。本リメイクの「整合化」の一つとして、古代や森らの役割に交代要員が設けられ、それに伴い搭乗人員も増えているだろうし、艦内の治安維持を目的とした保安部が増設されている。ところが、その保安部の長を務める伊東真也という男が、曲者であった。
ヤマトがイスカンダルに訪れ、コスモリバースシステムを持ち帰り帰還する「ヤマト計画」の以前から進められていた、第二の地球を探し人類の新たな居住地を求める「イズモ計画」。その思想は潰えておらず、艦内カウンセラーを務める才女・新見薫は目ぼしい惑星を見つけた際に行動を開始、その実働部隊として伊東の息のかかった保安部が、仲間に銃を向ける。
旧版でも、イスカンダル到着後に地球への帰還を拒み、森雪をまるで子産みの道具であるかのように扱った藪助治機関士らの愚行が(最終回が間近に迫る中で)描かれたが、それをこうも拡大するとは。ヤマトに乗る者の全員が地球を救うという崇高な使命に燃える若者ばかりでなく、謀略に心血を注ぐ者もいれば、成功の保証もない長旅に心身を疲弊させ、利用される者もいる。「急げヤマトよ!」と急かされてばっかりの旧版では描ききれなかった、極限環境下を生きる人間の悲喜こもごもにスポットを当てたこれらのエピソードも、起こる事件のバラエティ化に華を添えている。
さて、本リメイクで技術の発展を思い知らされるのは、ヤマトが活躍する決戦のスペクタクルだ。旧版では止め絵とエフェクトで表現されていたヤマトの落ち着き払った姿勢だが、今作ではそこに動きが足され、「180度回頭」の命令に沿って転回し、直進するヤマトの画は、無条件で格好いい。
また、CGにより敵の大艦隊を描写することが可能となり、敵艦の合間を縫うようにして航行するヤマトは、沖田艦長の言うところの「死中に活を見出す」を体現するようであり、これが映像として表現可能になった恩恵を本作は充分に発揮している。続々と本星に集結するガミラス艦に対し、それを真っ向から突っ切るヤマトの闘いを描く第18話『昏き光を越えて』のクライマックスは、これは劇場で観たかった!と悔しさを募らせた大決戦。お決まりのテーマ曲が、盛り上がりを後押しする。
その一方で、本作は「戦争」というものに対しても慎重な扱いを見せている。このリメイク版では、地球とイスカンダルの初開戦時、先に攻撃を仕掛け戦端を開いたのが地球側であることが明かされる。その命令に従った島の父は後悔を抱え、亡くなっていった。
軍人として、上の命令に従うのは正しい行いではあるが、その命令が正しいとは限らない。事実、当時の沖田艦長は敵への攻撃命令に背き、艦隊司令長官の職を解任されている。旧版、並びに『さらば』では、他者を理解し手を取り合うこと、すなわち「愛」を巡る物語であったと受け止めているが、『2199』ではその相互理解の入口を断ったのが地球側であり、それをきっかけに滅亡の危機に瀕している、ということが示されている。ガミラスは遊星爆弾を送り込む許しがたい敵ではあるが、この世界においても善悪は単純な二元論に落とし込むことは不可能なのだ。
そして本作は、ヤマトの代名詞とも言える「波動砲」を、“波動エネルギーを兵器に転用した”ものであることを登場人物の口から何度も明言させ、その使用自体が問題であったとスターシャは語る。ヤマト乗組員は、波動砲こそが核兵器を超える、惑星すらも破壊しかねない過ぎた力であることを知り、しかしそれを使わねば生きてイスカンダルの地を踏むことは叶わなかった負い目に対して、かなり自覚的なのだ。だからこそ、波動砲のみだりな乱用を控え、敵を一掃しようと使用を具申する南部を嗜めるシーンが描かれる。
地球の汚染が放射能(放射性物質)由来のものではないと改変した上で、旧版が警鐘した大量破壊兵器の恐ろしさ、武力が理解を断絶させる悲しみを描く。その一方で、旧版ではガミラス星を崩壊させてしまった波動砲が、今作ではガミラス星とその人々を守るために使用され、犠牲を最小限に留めたことが印象的である。波動エンジンとは、イスカンダルのサーシャが命を賭して地球に届けた、平和の象徴である。それを兵器に転用した過ちを認め、ユリーシャの言葉を借りるのなら“言葉ではなく行動で”示すために、ヤマトは波動砲を放つ。
旧作の遊星爆弾や波動砲は大量殺戮兵器、すなわち核や原水爆がモチーフであったことだろう。それから数十年が過ぎ、我々は今や原子力を扱い、生活を支える電気を生成している。我々はすでに、唯一の被爆国という立場から、憲法さえ捻じ曲げれば核兵器を持つこともあり得ない話ではない時代に生きている。だからこそ、波動砲はその存在が悪ではなく、使い道と運用こそが善悪を決める、という着地が設けられたのではないだろうか。
終盤、波動砲の使用を盾にコスモリバースシステムの譲渡を一度は断るスターシャの真意が、古代守への「愛」ゆえのものであったことは、『宇宙戦艦ヤマト』の核がこの言葉に置き換え可能であることを、本作の作り手が重々承知していることの何よりの証明であろう。人の意思を乗せる方舟であるヤマトは、古代守が故郷へ帰るたった一つの手段でもある。だが、スターシャは守の「心」とも呼べるそれを、明け渡したくはなかったのだろう。宇宙の救済という使命と、一個人の感情とで引き裂かれる彼女は、古代進との触れ合いの中で折り合いを付け、自らの身体に宿る新しい命を紡いでいく決心をするのだ。
一方で、デスラーの報われぬ想いもまた、「愛」であった。全てはスターシャを想っての宇宙の和平と統合を目指していたはずの彼は、しかしそれが届かないと悟ったのか、森雪を偽りの姫として担ぎ上げ、強引にイスカンダルとの統合を推し進める。愛に溺れ、愛に引き裂かれた彼は、もはや軍人でも総統の器でもなかった。民を犠牲にすることも厭わず、ヤマトの撃破に固執し敗れていく様は、どうしようもなく哀れであった。
そうした闘いの果て、古代守は弟への「愛」ゆえに森雪を蘇生させ、古代進と森雪はお互いの気持ちを確かめ合う。加藤三郎と原田真琴は添い遂げ、その身体に新しい命を宿す。その中で一人、沖田十三は死を迎え、ヤマト=コスモリバースシステムと一体となる。若き世代の帰還を導き、地球の新しい命の芽吹きを見守るのは、ヤマトの長として地球人類の期待を背負い戦い抜いた、この男が相応しい。ヤマトに敬礼するということは、沖田十三に敬礼する、ということなのだ。
『宇宙戦艦ヤマト』を原典とするとき、そこにどんな色を加えるだろうか。出渕監督以下、全てのスタッフが、幾度となく考えを巡らせただろう。
旧版の矛盾や説明不足に「設定」を付与し
核や放射能の扱いには現代の「価値観」で変更を加え
「愛」をより深く描くべく、敵味方問わずドラマを生み出した。
旧版の象徴的な、当時世代の「思い出」に深く刺さるシーンを現代技術でリメイクし、様々な改変も『ヤマト』サーガの広大な宇宙を広げ、あるいはテーマをより深く描くための呼び水として慎重に付け加える。リスペクトとオリジナリティがここまで調和したリメイクは、そうそうお目にかかれない。出渕監督の言う“変な自信”は、確実に実を結んでいたのだ。
そして、肝心の庵野版(仮称)には、出渕氏の参加も併せて発表されている。今の私にとって、それは何よりの品質保証なのである。