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悪役に救いがない物語に居心地が悪くなってしまった。

 先日、『輪るピングドラム』を観ました。
 以下、本作の終盤の内容に触れる記述がございますので、未見の方はご注意ください。


 こちらの感想ではわりと肯定寄りというか、感動した部分について素直に書いています。と同時に、観終わった後のちょっとしたモヤモヤが拭いきれず、とはいえ文章に落とし込めなかったそれをnoteには書き切れず、その夜スペースでお話をしたところ、ようやく整理がつきそうになったので書きます。それは「選ばれなかった人たちは、救われないの?」という疑問です。

 『輪るピングドラム』には「この世界は選ばれるか選ばれないか」「選ばれないことは、死ぬこと」という台詞があります。少しアニメの内容に触れると、本作には親に愛されなかった子ども、捨てられてしまった子どもが登場し、本来の庇護者である両親や社会から見向きもされず居場所を失うことを「透明になる」という言葉で表現しています。そして、透明にならないためには他者から愛を受け取ること、貰った愛を分け与えることを尊重する結末を見せます。そんな折、主人公たちの敵として配置されたとあるキャラクターも、かつては「透明だった」ことが示唆されつつ、愛を受け取ることが出来なかったそのキャラクターは孤独に閉じ込められたまま、物語は終幕を迎えます。

 確かにね、大罪人なんですよ彼。多数の死者を出し、今も後遺症に苦しむ人がいるほどのとある現実の事件と同じことをやっていて、どうしようもない悪なんです。ただ、彼もまた「透明」にされてしまった人で、その上誰からも愛されなかった可哀そうな人、だったかもしれない可能性を見せられると、切ないんです。善悪二元論で割り切れない敵がいるからこそ、物語に深みが増す。その代わり、掬い上げられない人が浮かび上がってしまう。

 ただ、この問題を語る際の前提条件として、ヒーローやヒロインだって万能の神ではない、があります。彼らも人間である以上、あまねく全ての者を救うことは不可能。9.11同時多発テロが起きた際、NYの親愛なる隣人スパイダーマンもテロに巻き込まれたすべての人を救うことができず、崩落するビルをただ眺めていることしか出来なかった、というシーンがコミックで展開されたそうです。超能力を持つアメコミヒーローですら、伸ばしても手が届かないことだってある。『ピングドラム』なら、荻野目桃果はまだ幼い少女であり、己を犠牲にするにも限界があります。だからこそ、目に映る全ての人の運命を救済することは、神様でもいない限り不可能で、(我々の生きる現実世界がそうであるように)そんなものは存在しないのだと、受け入れるしかないのです。

 ヒーローは神様なんかじゃなくて、血の通った人間である。ちょうど直近で見返していた『仮面ライダーオーズ』にも繋がりますね。火野映司もまた尊重されるべき個人であり、人を救いたいという当人の欲望を理解しながらも、彼を取り巻く周囲の人々(と私個人)の「自分自身を救うことも優先してほしい」という願いもまた、叶ってほしい。そんなことを思いつつ、『ピングドラム』を観ては救われなかった側、手を差し伸べられなかった(選ばれなかった)かつての子どもに想いを馳せ、残酷な現実を呪う。この相反する気持ちは、どうやったら消化できるのでしょうか。

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