『ヤマトよ永遠に』女性たちの愛で救われる男たち。
TVシリーズ、2時間スペシャルを経て、ヤマトが銀幕に帰ってきた。元はTVアニメなのに、劇場版となるとついに!感が出るのは、やはり『さらば』のゴージャスさに魅了されてしまったからだろうか。
さて本作、その期待に応えるように、作画や音楽はとても気合の入ったものになっている。
序盤では、謎の異星人に侵略される地球の様子を、重苦しい劇伴と無数の兵士や無機質な侵略兵器で表現している。多脚戦車などは物々しく、白兵戦によってジワジワと領土を侵されていく怖さが、映像から伝わってくる。ヤマトが発進して以降は、『スターウォーズ』の影響を受けたであろうドッグファイトのスケール感や、過去作よりもややポップでテンポの早い楽曲がとても格好良く、耳にも残りやすい。『さらば』『2』の白色彗星帝国のように、敵陣のテーマ曲が作品の顔になっているところは、素晴らしい。
戦闘だけに留まらず、未知の銀河を描く色調やスクリーン映えする遠景のカット、ロマンスを巡るドラマの際の人間の動きの描写、とくに女性のしなやかさの表現にはハッとさせられる。変わらず「愛」がテーマである以上、それを担うヒロインのアニメーションには、自ずと力が入ってしまうのだろう。ドラマの湿っぽさ、女性キャラクターの妙な色っぽさは、本作の対象年齢をちょっぴり上に引き上げる、背伸びしたい少年少女に刺さったのではないだろうか。
とはいえ、こちらの関心事としては、前作にあたる『新たなる旅立ち』との連続性、何と闘い勝利するのか、ということ。
前作に登場した「暗黒星団帝国」は、他の帝国や国家との戦争を控え鉱物を採取するべくガミラスに立ち寄った、言ってしまえば何の因縁もない出会いから始まり、しかし結果からすればスターシャという超重要キャラを失うほどの大戦火を広げ、この落とし前をどうつけてくれるのかと、腕まくりして『永遠に』を再生した次第である。デスラーやズォーダーのような首領の存在さえ見えない、目的さえよくわからない敵を相手にして、本当にドラマが盛り上がるのかと、期待半分不安半分の鑑賞と相成った。
結論からすれば、かの帝国は物凄い技術は持っているが、そもそもヤマトに喧嘩を売るべきではなかった、という他ない。外傷を負わせず、脳細胞のみを破壊するという侵略に最も適した「重核子爆弾」を有し、さらには自分たちの星を地球そっくりに改装するだけの途方もない技術を持ちながら、でも波動エネルギーにはめっぽう弱いという、そもそも地球やイスカンダル、ガミラスとは相性の悪い性質を持つ種族だったのだ。だからこそ地球の偽装という奇策に出たのだろうが、その技術力で波動砲を封じる努力をした方が勝率は上がったのではないだろうか……。ヤマトのMAD動画作ってる暇があったら、ドリルミサイルくらいコピーせんかい!!
そして地球侵略の理由も、自分たちの文明が機械化を推し進め、頭部を除く身体のサイボーグ化が進んだ結果、今度は生身の身体が恋しくなって……という手前勝手の極地みたいなモチベーションでやってくるので、被害を被った側としてはたまったものではない。移住先の惑星を探していたガミラス、ただ暴力と支配を目的としていたガトランティスと比べても、過去イチで同情の余地がないため、波動砲の恐ろしさや殺し合うことの愚かしさを感じなくていい点においては、イカルスで改造されたヤマトの新兵装に心置きなく喝采を贈る言い訳にはなるだろう。
しかしそれでも忘れがたい余韻を残すのが、敵国のメインキャラクターのアルフォン少尉の存在感である。地球占領軍の技術部情報将校という重要な役職でありながら、古代を一心に想う雪のひたむきさに心奪われ、重核子爆弾の秘密を打ち明けてしまう、軍人としてはあるまじき背信行為に及ぶアルフォン。すでに身体を機械に変えても、他者を愛し、自分のものにしたいという人間味は残されている。このテーマを深堀りすれば、『攻殻機動隊』における“ゴースト”の先駆けになった、そんな惜しさを感じてしまうのだ。ちなみに、アルフォン少尉の声は野沢那智氏が担当しており、つまり雪はアラン・ドロンの声で迫られたわけで、それはもう、大変なことである。
そんなアルフォンが死に際に望んだこととは、雪の膝の上で眠り、看取られること。人の温もりを追い求めた種族の最期として、これ以上なく血の通ったものになっているし、それを受け止める雪のちょっとアダルティックなアニメーションには、少しドキドキしてしまった。もう一度言うが、彼はアラン・ドロンの声で喋る美男子なのだ。古代の恋のライバルとしては、過去作の誰よりも強敵と言えよう。
一方で、古代進の心を惑わすヒロインというのが、まさかのサーシャというのは驚いた。イスカンダル人は成長は早い(でも老化は止まる)というご都合主義設定には目を瞑るとしても、叔父である進に家族としての情愛を超えた何かを抱いているようなニュアンスには、少し恐怖を覚えた。あくまで半分イスカンダル人ゆえの恋愛観として飲み込むことも出来るが、成長とは身体だけのそれであるが故に心はまだ幼いはずのサーシャを、古代とのロマンスに配置する制作陣のセンスは、自分は受け入れがたい。
その上さらに、サーシャはヤマトと地球を守るため敵の本星に残り、突破口を開く役目を果たすのだが、敵の銃弾に倒れ、ヤマトは波動砲で帝国を討ち滅ぼす。ラスト、身体は死に絶えても精神体(霊体?)となったサーシャは母スターシャの元へ帰り、進の決断を肯定するのである。前作『新たなる旅立ち』のスターシャもその傾向があったが、『ヤマト』の神秘的な女性は個人の感情よりも使命や役割に縛られている印象があり、ヤマトに手を降って別れを告げろと娘を諭すスターシャママには、人の心は感じられない。
イスカンダルで平和に暮らしていた親子を『新たなる旅立ち』と二作かけて戦場に引っ張り出し、そして殺していったわけで、引き続き居心地は悪いのだ。とくに女性陣はヤマト(男性)を守るための自己犠牲を当てはめられることが続き、当時の価値観であれば「感動」でも、令和の今では「冷蔵庫の女」として見えてしまう展開が続き、この点はリメイクシリーズでどう調理されるのか、期待が募る。
古代と森雪が離れ離れになり、お互いの生死すらわからない状況で相手を信じるという、目の前で触れて、見て確かめることもままならない「愛」を描く、そんな気概に満ちた一作である。だが同時に、幼いサーシャでさえも二人の恋を盛り上げる舞台装置でしかないという事実に、(それが作劇の常道だとしても)なんだかな、という気持ちに苛まれている。
「人間はいつになったら、血を流さずに幸せになれるんでしょうね……」と古代は言うのだが、『ヤマト』が作られる限り地球は敵国から攻められ、登場人物たちが殺されてゆく定めに、彼ら自身が翻弄されてしまっている。そして悲しいことに、ヤマトが海の底で眠れる日がまだ遠いことを、先日読んだ本で私は知ってしまっている。愛がこの宇宙を満たす日はまだまだ遠いと、『ヤマト』を楽しんでいる自分を棚上げにして、そう嘆く夜であった。