『if(!Straylight)』出会わなかった“もしも”なんて、ありえない。
ドーモ、伝書鳩Pです。毎日暑いよね。
ストレイライトは、「纏う」ことがキーワードになっている。あさひを除く冬優子と愛依は、アイドルとしてのキャラクターを意図的に背負うことでステージに上がることができ、言葉を選ばずに言うのなら「騙す」ことに強きを置いたユニットである。衣装に仮面のモチーフがある通り、彼女たちはアイドルのアバターを纏うことでようやく、ストレイライトになる。その葛藤と苦悩の物語は、『The Straylight』で一旦の区切りを迎えたように思える。素の自分もアイドルの自分も、等しく本物で、私である。それが、ストレイライトとして闘う彼女たちの覚悟であることを、繰り返し描いてきた。
では今回の『if(!Straylight)』は何がお題目になるのかと言うと、実のところ本作においてストレイライトには大きな変化も挫折も、起こってはいない。『Straylight.run()』や『WorldEnd:BreakDown』ではストレイライトが敗北を迎えたり、芸能の悪しき側面に足を取られる展開があって、そこから這い上がる物語だった。ところが、今のストレイライトは“最強”なので、もはや敗北からドラマは作れないということなのだろう。「素の自分に近いキャラクターを演じる」という(我々のようなファンが)露悪的な展開への期待と心配を抱かせるあらすじに対し、彼女たちは各々の方法でそれに向き合い、しっかりと結果を出している。その程度では揺るがないし、迷わないくらいには、ストレイライトは積み重ねてきた。
その代わりに、今作で大きく感情を揺さぶられることになるのが名も無き一人の女優、モモ役の彼女である。オーディションにて大役を掴み、一生懸命に舞台に挑戦する。が、実力も経験も及ぶことがなかった彼女は、周りからの評価も得られぬままケガによって役を降板し、憧れを全て失ってしまうのである。ストレイライトの、とくに冬優子のファンであるという彼女にとって、自分の至らなさを憧れの張本人の前で晒してしまったという絶望。それがどれほどのものかと察するだけで、心が痛む。
冬優子に憧れを抱く少女、ということで直近の冬優子のSSR【multi-angle】に登場した「ゆゆちゃん」を思い出したプロデューサー各位も多いと思う。ゆゆちゃんは冬優子の可愛らしさに憧れる、一人の純粋なアイドルファンだった。ところが、今回のモモ役の彼女は女優であり、冬優子を「憧れ」のまま置き留めただけの、ただただ至らぬだけの少女である。舞台というお仕事の場、プロフェッショナルとしての技量が求められる場所において、スタッフの期待に応えられなかったという挫折。お見舞いに訪れた冬優子の前で放った一言は、彼女が芸能界という世界で闘う覚悟が整っていなかったことを示す、諦観と無責任の言葉に過ぎなかった。
もしあの時、冬優子がインタビュー記事の載った雑誌を渡さなければ。もし彼女自身が舞台を観に来なければ。もしモモ役が冬優子でなかったら。
そうした様々な偶然が重ならなければ、彼女はもう一度女優として立ち上がれなかったかもしれない。『if(!Straylight)』、──プログラミング用語に明るくないのでネットでみた受け売りだが──、曰く「ストレイライトではなかった場合」を意味するこのタイトルは、実はこのモモ役の少女にかかっていたのかもしれない。常に完璧なパフォーマンスを求め妥協しない、いつだって最強で最高のストレイライト。それを体現する彼女たちの生の舞台を浴びることがなかったとしたら、彼女の女優人生はケガでピリオドを打っていたに違いない。挫折から立ち上がる力を鼓舞する、ストレイライトのアイドルとしての力に一人の少女が救われる物語が、『if(!Straylight)』というシナリオのメインテーマというわけだ。
その本筋を描くための枝葉として、『if(!Straylight)』は彼女たち三人の歩みをまるっと肯定する、集大成としての一面が感動を誘うのだ。
あさひはG.R.A.D.でのプロデューサーの言葉に真摯に向き合い、自分のやりたいことを優先するのではなく「自分に求められているもの」を自分なりに考え、それに応えようともがく姿が描かれた。「ありがとうございました!」が言えるだけでもグッとくるし、師匠の再登場には思わず涙腺が緩む。ストレイライトの中で唯一「纏う」必要のないあさひのみ「もしも」の磁場に飲まれないだけあって、あさひの生得的な強さは今回も健在。演出家をも唸らせる表現力を見せつけ冬優子の闘争心を煽るところも、ストレイらしさ全開で嬉しくなってしまう。
愛依は弟と触れ合う時間が取れないことに悩みつつも、そのことが仕事のクオリティに影響することなく、ギャルアイドル・アオを演じ切った。もちろん、学校での素で体当たりするのではなく、脚本を読み解いた上でしっかりギャルの女の子を“演じる”ための一人練習のシーンが良い。かつてのキンキラチャンネルの一件を経て、「ウチ」と「私」の使い分けにも自覚的になった愛依サマに、もはや敵はいなかった。スタッフの陰口?を聴いても動揺せず、パフォーマンスで叩き伏せるあたり彼女も立派なストレイメンバーだ。
冬優子は、ほとんど主役といっていいほどに強さを見せつけてくれた。嬉しい。「ストレイライトではなかった場合」にもっとも揺さぶられやすい立ち位置にありながら、素の自分に近いデフォルトネーム・モモを原作アニメをちゃんと履修して完成度を高める努力をする辺りがオタクとして正しいし嬉しい。モモ役の女優が言うところの「もし私がふゆちゃんだったら」に対し、冬優子なりの戦略や闘うための哲学をしっかりと描くことで、モモ役の女優=持たざる者にとっての無責任な憧れの対象がその実、誰よりも努力し汗を流していることが読み手に印象付けられる。
思い返せば、ストレイライトの三人は皆スカウトによってアイドルになっており、それはすなわち「もしシャニPに出会わなかったら」の可能性が常に存在していることを意味する。ストレイライトの繋がりがなければ、三人は出会うことすらなかった。ストレイライトがなければ、前述の通り一人の女優が夢を諦めなければならなくなったかもしれないし、あさひは学校における孤独とは別の居場所を見つけられず、冬優子もキラキラしたものに憧れを抱くだけの少女として、愛依は最高の友達でライバルになる二人に出会うこともないまま、交わらずに人生を終えていた。
様々な偶然があって、今がある。振り返れば、人生は選ばなかった過去たちの集合体でもあって、何か一つでも掛け違えれば全く別の人生が待っていたことだろう。その可能性を幻視して、「ストレイライトではなかった場合」の人生に彼女たちが憧れを抱く物語になっていたら、W.I.N.G.からLP、これまでのイベントシナリオやライブを含めた奇跡を否定することに繋がってしまう。今作が発表された際、ストレイライトと「if」という言葉の嫌な意味での親和性に、思わずひるんでしまったことを、素直に告白したい。
だからこそ、私は今、シャニPに無限の感謝を贈り続けている。ストレイライトの三人のこれまでを肯定する、無邪気で青臭くて力強いこの一言が、この物語において絶対的に正しい。正しすぎて、アイドルにならなかった彼女たちの可能性に一瞬でも思考を巡らせた自分の弱さに、スカッとカウンターを決めてくれた。ストレイライトとして闘う覚悟を決めた三人に寄り添う共犯者が、同じだけの強さを持ち合わせていないはずがないだろう。こんなに頼もしくて、格好いい台詞は滅多に出会えない。
ストレイライトは、いつだって最高だ。そして、そんな彼女たちが誰かの背中を押す瞬間に立ち会えたことで、この物語はアイドル賛歌として幕を閉じる。格好良くて、眩しいストレイライト。いつだって私は、その光に魅入られてしまうのだ。ここでスクショを貼るなんて野暮なことはしないけど、「やっぱストレイライトが大好きなんだよな」、である。
で、余談なんですけど、あさひの同級生女子の「水着姿を見られることへの抵抗感」「中学生男子にとってはみんなで映画観に行くのが一大イベント」のあの感じの質感だしてくるの、ちょっとシャニマス怖かったです。
あとここ。いい加減にしてほしい。和泉弟の情緒をなんだと思ってるの??
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