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怪獣映画とネットリンチの鮮やかな融合『地獄が呼んでいる』は、絶対にウルトラマンに観てほしくない。

 現在、『シン・ウルトラマン』が絶賛公開中である。

 栄光の初代『ウルトラマン』を現代日本を舞台にリブートした本作は、作り手から原典への溢れんばかりの愛と解釈を可能な限り注ぎ込んだ結果、「なぜウルトラマンが地球を、人間を守るために闘ってくれるのか」を浮き彫りにした、深い感動を与えてくれるエンターテインメント大作である。

 ウルトラマンは地球から見れば宇宙人であり、宇宙や銀河といった途方もない規模を認識できる彼らにとって、地球とそこに住む人類は全体から俯瞰すれば塵のような、取るに足らないほどに矮小な存在だ。欠けたところで宇宙には何ら影響を及ぼさないし、むしろ地球環境を汚し続ける人類種が進歩の結果として外星への進出を果たすとすれば、今のうちに刈り取るのが「宇宙のため」とも言える。それでも、そんな愚かな種族を愛し、私たちが生きる世界のために闘ってくれる誰かがいるのだとすれば、私はそのことが誇らしい。創作物で自分を慰めるのも虚しい話だが、ウルトラマンが愛してくれるのなら、それに見合う人間でいたいと、そういう気持ちも芽生えてくるのである。

 で、ここからは「絶対にウルトラマンに見てほしくない人間の暗部」がてんこ盛りのNetflixオリジナル作品のお話をします。『イカゲーム』を破り配信からわずか三日で全世界視聴回数ランキング1位の記録を塗り替えた韓国ドラマ『地獄が呼んでいる』のことを。

 韓国の首都ソウルの平和な日常は、ある日突然崩れ去った。突如現れた三体の巨人によって男性が無残に殺され、死体を焼かれるという事件が発生したのだ。その超常的な殺人の前に警察も対応を迷っている中、その巨人による殺人を神の裁きであると主張する新興宗教「新真理会」が台頭。議長のチョン・ジンス(ユ・アイン)の教えが人々の支持を受け新真理会の勢力が拡大していき、同時に「矢じり」と呼ばれる過激的な信者の集団たちが行き過ぎた暴力行為を働くようになっていく。混沌極める中、ひとりの平凡な母親が「宣告」を受けたことで、事態はさらに大きくなっていく。

 本作はマ・ドンソクの名を日本でも広めた快作『新感染 ファイナル・エクスプレス』のヨン・サンホ監督最新作。『新感染』は列車という限定的なシチュエーションでのゾンビパニックものでありながら、同時に社会風刺と極限状態に置かれた人間の愚かさがスパイスとして織り込まれ、ジャンルのお約束だけに終わらない奥深さが印象に残る作品であった。氏の社会派な一面、作家性がより濃厚に表れた『我は神なり』『ソウル・ステーション/パンデミック』の二作は、思い出すだけで気が沈む厭な展開が目白押しで、まさしくこの世の「地獄」を切り取るに相応しい作家と言えよう。

 そんなヨン監督が手掛ける最新作『地獄が呼んでいる』は、『新感染』に連なるエンタメ性とメッセージ性が両立した「面白い」作品である。ただし、その過激性は『新感染』を置き去りにするかの如くエクストリームの域へと達しており、なんと驚くことに本作のエンタメ性とは「怪獣映画」のそれなのである

 もし、アナタにゴア描写に耐性があって、怪獣映画が好きならば、騙されたと思って1話の冒頭、タイトルが出るまでの一連のシーンだけでも観てほしい。実はこの冒頭、怪獣映画として完璧なのである。

 誰もが談笑を楽しむ晴れ間のカフェで、ただ一人怯える男性。やがて「宣告」の時間になるも、その瞬間は何も起こらない。緊張が緩和した瞬間、「ズン……」というゴジラの足音にも似たような音が響き、空撮で首都ソウルの街並みが映る。なんの異常もない、しかし何かが“起こっている”という予感。一体何が始まるのか?再び緊張が高まった瞬間、黒い三体の巨人がカフェのガラスを突き破って侵入し、男性を痛めつけていく。カフェは巨人によって荒らされ、それでも男性は引きずり回され道路に投げ出される。男性は周囲の人々に見せつけられるように蹂躙され、吹き飛ばされ、潰され、引き裂かれる。男性の血が車の窓ガラスを染め、街は悲鳴とパニックに埋め尽くされる。残虐の限りを尽くされ虫の息になったところで、男性は巨人に囲まれ、地獄の業火に焼かれる。「宣告」を受けた者はあらゆる苦痛を受け死に、人々は恐怖に震えるしかなかった。

 これら一連のシーンは、日常が突然脅かされる恐怖、緊張と緩和を用いた観客の心理の誘導、巨人の圧倒的な強さとコミュニケート不可能を思わせる不気味さが相まって、とにかく怪獣映画としての「美味しい」部分が詰まっている。見せ方がとてもスマートかつ的確で、個人的には『GODZILLA(2014)』におけるゴジラ初咆哮のシーンに匹敵するエクスタシーを得られた。巨人、という意味では実写版『進撃の巨人(2015)』が直近では挙げられるけれど、食人のみを目的とする彼らとは異なり「殺人を周囲に見せつける」など明らかに知性と目的を感じさせながら、対象をあらゆる手段を用いて痛めつけ、その上で生きたまま燃やすという壮絶なる死を与え去っていく“彼ら”のおぞましさは、ほぼ猟奇殺人鬼のそれであり、しかもそれが災害のような理不尽さとして襲ってくる。もうどうしようもなく恐ろしくて、悲惨すぎてむしろ笑ってしまうほどに鮮烈だ。

 地獄の使者、と呼ばれる三体の巨人はその後も登場し、それはもうエンタメ性豊かに人々を惨殺していく。その方法もどんどん残忍に、過激になっていくのだけれど、不謹慎ながら、どうしようもなく「面白い」のである。今回はどんな登場をするのか、どんな殺し方をするのか。本作の「怪獣映画」としての味に魅入られた私は、いつしか「矢じり」と同等の、人の死をエンタメとして消化する愚かしい存在になってしまっていた。これがヨン・サンホ監督の狙いだとしたら、こんな紹介noteを書いている時点で「敗北」なのである。こんな奴のために闘わなくていいよ、ウルトラマン。

 そして、巨人の出現は世界に新たな混乱を招いていく。「新真理会」のチョン・ジンス議長は巨人を地獄からの使者と呼び、殺された人々は「罪人」であるとして、これが神の裁きであると説く。とある中継をきっかけにその教えは全世界に広まり、宣告を受けた「罪人」は全人類にとって忌むべき存在となった。やがて「矢じり」と呼ばれる過激派集団が勢力を伸ばし、ネットを駆使して私的な制裁を行うようになる。罪を告白しろ、神の裁きを邪魔するのは罪人である、と。

 そう、本作は巨人による理不尽な暴力ではなく、人が人を一方的に裁くという卑近かつありふれた「正義の暴走」が主題なのである。矢じりは生配信やSNSを介して勢力を拡大し、宣告を受けた人々の個人情報を調べ上げ、彼らとその家族を晒し者にする。それだけに留まらず、ついには直接的な暴力を振るい、教団の教えに背く者を「正義」の美名の下に殺めていく。矢じりはもはや新真理会の教えを離れた実行部隊と化し、暴力をまき散らしていく暴徒と化したのだ。

 『地獄が呼んでいる』は、巨人という不可解な存在による恐怖が宗教の手によって神格化され、狂信者がそれを歪に解釈することで暴力の扇動と実行が始まり、人類全体が破滅に向かっていくというディストピアの夜明けが描かれていく。恐ろしいことに、陰謀論とフェイク・メッセージが数えきれないほどネットの海を漂う現代において、本作で描かれる事象はまったく他人事ではない。ネットを介することで、簡単に他者を吊し上げ「社会的に殺す」ことが容易になった時代、私たちはいとも簡単に「矢じり」になれてしまう。

 匿名性を笠に着て、他者を攻撃する無数の人々たち。その動きはコロナ禍への恐怖も相まって、さらに激化した印象を受ける。そうした世相を反映したかのような本作は、取返しのつかない暴力が正当化する陰惨さを描きながら、それがまるでフィクションでないことを叩きつけてくる。この物語を遠い海の外の出来事と思ってしまうようでは、もう“遅すぎる”のだ。私たちは一つでもボタンを掛け違えたら、すぐにでも加害者か被害者に転じてしまうことを、意識せざるを得ない。

 そうした流れの中で本作は、さらなる問いかけを用意していた。巨人による殺人が神の裁きで無かったとしたらー?という疑念から始まる4話以降の第2部(現在配信されているのは全6話)は、全く未知の現象に「意味」を付与せずにはいられない人間の弱さ、これまでとはまた別の愚かさに踏み込んでいく。これまでの前提を覆す衝撃の展開は、暴走する正義の名の下の暴力から「正義」だけを剥ぎ取ることになり、辛うじて担保されていた正当性を失ったカルト教団は意識的に倫理を踏み外していく。一方、新真理会の支配を転覆させるべく動く「ソド」と呼ばれる団体もまた、その理念達成のために信じがたい行動を取るように。もはや従来の世界における良心や人道はすでに通用せず、人の命の価値は下落してしまった。そんな世界がどんな結末を迎えるのか、どうかご自分の目で確かめてほしい。

 配信から時間が経ってしまったが、『地獄が呼んでいる』は一切古びていないどころか、今の世相を恐ろしい精度で切り取っていて普遍性を帯びており、そのショッキングさは過激化する暴力描写によってエスカレートしていく。SNSに慣れ親しんだ世代ならば、本作の描かんとする暴力の正体を読み解けるはずだ。

 と同時に、本作の怪獣映画としての醍醐味の部分を特撮ファンに知っていただきたくて、こんな記事を書いている。1954年の『ゴジラ』と1993年の『ジュラシック・パーク』の継承を感じさせるパニック描写は、完全に「わかっている」人の手つきで、それがNetflix資本によりドラマの水準を遥かに超えるクオリティで打ち出されたことに、喜びとこれを劇場で観られない悔しさを感じてしまう。

 視覚的なゴア描写、精神をえぐるような展開があり、地上波放送はおそらく不可能な過激度の本作は、やはり視聴へのハードルは高いと言わざるを得ない。しかし、もしNetflixに加入しているのなら、お願いだから1話冒頭だけでも観てほしいし、刺激的な作品を求めているのなら本作をきっかけにNetflixの扉を叩くことも「アリ」だと言ってしまいたい。それだけの価値と、「痛み」を同時に授けられる作品なんですよ。

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