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4時間だけ財布泥棒になっちゃった話

 ふと、スマホに保存されている電話帳を眺めてみた。小中高大の友達から仕事の関係者まで、LINEが普及してから一度も電話もメールもしたことない個人情報が順番に並んでいる。その中に一際異彩を放つ「〇〇駅前交番」の文字。こちらから電話したこともないし、かかってきたことないのに、なぜか登録だけを済ませている自分の几帳面さに苦笑すると共に、かつて警察のお世話になった体験談を思い出した。もう数年たったから時効だろうし、今回はその思い出を語ってみよう。罪状はタイトルにもある通り、「財布泥棒」である。

 仕事の異動の関係上、東京に一年半ほど住んでいたことがある。決して自分の給料では住めないだろうな閑静な住宅街にある社宅は都会へのアクセスも良く、「TVで観た名所」「憧れの映画館」を訪れるのが週末の楽しみだった。通勤のための定期を使えば会社の最寄り駅までの移動費は実質タダ、九州からやってきた田舎者からすれば、目に映る全てが煌びやかで、建物の背が高かった。

 その日は確か伸びすぎた髪を切って、地元の行きつけのお店じゃないとなんだかむず痒いな、なんて思いながらGoogleマップ片手に見知らぬ土地を歩いていた。すると、足に何かを踏みつけたような違和感があって、よく見ると黒の長財布。かなり分厚く、それなりにお札やカードが入っているらしい、高級そうな長財布を、踏んでしまった。

 20数年生きてきたけど、財布の落とし物なんて初めてで、思考がフリーズしてしまう。この時、模範的回答は「警察に届け出る」だろうし、もちろんそのつもりだったけれど、いかんせんここは未開の地、警察署がわからないのである。どうしようどうしようとオロオロする私に、話しかける声が一つ。「その財布、お兄さんの?」

 向かいに立っていたのは、すぐそばの居酒屋の店長と思わしきお兄さん。どことなく若い頃の竹野内豊を思わせるハンサムガイは、私と財布のエンカウントの一部始終を見ていたらしく、声をかけてくれた。

 「いえ、僕のではないです。ここに落ちてたみたいで」と私。「あらら」と竹野内。ちょっといい?と言われたので竹野内に財布を手渡すと、中身をチェック。「あぁ~免許証とか入ってるねぇ」と、落とし主の緊急度を教えてくれた。

 この竹野内店長(推測)の出現は、私にとっては渡りに船。この人に交番に届けてもらえれば、落とし主も私もハッピーだ。ところが、竹野内は険しい顔をして「今から仕込みあって、動けないんだよね、、、」とのこと。希望が絶望に変わりつつも、店の責任を預かる立場なら仕方あるまい。「わかりました。財布を届けるので、最寄りの警察署を教えてくれますか?」と私。実は最近引っ越してきて土地勘がないことを伝えると、「ゴメンね」と言いながら駅のすぐそばにある交番の存在を教えてくれた。駅までなら道も覚えているから、私でも問題なく届けられる。

 竹野内店長と別れる間際、「お兄さんのこと信じるから、財布のことヨロシクね」と言ってくれた。見ず知らずの男に見ず知らぬ誰かの財布を預ける。確かに、私がネコババしてしまう危険性があるし、お互い初対面だから信頼のおける関係とは言えない。それでも、竹野内は私に財布を預けた。これはただのお金が入った入れ物ではない、「信頼」そのものである。

 ズルいよ、そんなの殺し文句だ。「ハイ、必ず警察に届けますね」と言って、豊と別れた。誰かに信じてもらえる、そのことが嬉しくて、何が何でも財布を届けようと、誓ったのであった。














 で、寄り道せず交番に向かいたかったのだが、なんとこの時私は映画のチケットを予約していたのである。余裕をもって移動していたとはいえ財布を拾う云々で時間を使ってしまい、すぐに電車に乗らねば間に合わない。しかも、この映画は知人と待ち合わせをしており、しかも私が二人分の席を予約していたため、私が遅れることは許されなかった。しかし、手元には誰かさんの財布。交番に行けば落とした場所の説明だとかでかなり時間を食うだろう。そんなことになれば、映画に間に合わない。私だけが間に合わないならいいが、お友達も道連れになってしまうのはイヤだし申し訳ない。だが、映画が二時間として移動の往復に一時間と少し、3~4時間は交番に伺うことが出来ず、その間財布の落とし主は気が気ではない時間を過ごす羽目になる。落とし主の安心と、お友達との先約。どちらを取るべきか、駅で立ち尽くす私。なんでこんなことに。あの時、新しい美容院を選ばなければ―。

 そして迷った結果、私は映画の約束を優先した。「必ず届けるのだから、財布はいずれ持ち主の元に戻る」と何度も心の中で唱えながら、中央線快速に飛び乗る私。その間、トートバッグには私の物と落とし主の物で計二つの財布があり、持ち物検査をされれば私は窃盗の現行犯逮捕。そして持ち主を不安にさせてしまうことへの罪悪感。恐ろしいまでの緊張感で冷や汗が止まらぬ中、なんとか待ち合わせの時間ジャストに映画館に到着。スムーズに発券を済ませるも、劇場の売店でパンフレットを買おうとして落とし物の方の財布をうっかり取り出してしまい「アァコレジャナイ……」と挙動不審になっていた成人男性を通報しなかった劇場スタッフの温情に感謝が絶えない。

 そしていざ上映スタート……となるのだが、これがまっっっっっったくと言っていいほど映画が頭に入ってこない。映画が始まる際はみなさんおなじみ映画泥棒さんのCMが入るのだけれど、その「泥棒」の文字列にギクリと心臓が跳ね、それから二時間ずっと「俺が財布を無くしたら終わる」「誰かの財布を持ったまま映画観てる」「落とした人、見つからなくて慌ててるだろうな」「クレジットカード停止するの大変って聞いたことあるもんな」とセルフ追い込みが始まる始末。実際、どんなに脳をフル回転させても、当時何の映画を観たのか思い出せなかったのが、動揺の証明になっている。コレ最終的に損してるの私では!?善意で財布を拾っただけ(持ち去ったが)なのに!?!????!????!??!!!?

 ただただ二時間、気まずさと罪悪感に苛まれ内容が一つも頭にインプットされないまま映画は終了。一緒に鑑賞した方からは座席の予約のお礼と感想を語り合いたいからと食事に誘われるも「ちょっと急用で帰らねばならないので!!!!!!」と語気強めにお断りしてしまう。早くこの罪悪感から解放されたかった。まるで呪いの装備と化した「誰かさんの財布」を警察に預けて、心の中の重たいものを追い払いたい。ホラー映画『呪詛』Netflixにて好評配信中!!!!!!!!!!!!!!

 劇場を出て、電車に乗って、財布を見つけた地までおよそ45分。今日は電車止まってくれるな……という祈りが通じたのか、何事もなく駅に着く。が、劇場を出る際にトイレを済ませられなかったため駅で借りよう、と思いきや「清 掃 中」の非情な一言。沸き上がる汗と襲い来る腹痛。いったい私が何をしたというのだ(他人様の財布を持ち出した)、そんな責め苦を受ける責は私にはない(竹野内の信頼を一時的に裏切った)だろう。少し遠回りして近くの書店でトイレを借り、借りっぱなしは申し訳ないので買いそびれたお気に入り漫画の新刊を買い、財布を見つけて4時間後、ついに目的地の交番に辿り着いたのである。長かった。何ならちょっと感動した。これでようやく、全てから解放される。

 とはいえ、自ら交番に入るなんて初めてのことで、少し緊張してしまう。扉を開けるとお二人の警察官の方がいらしゃって、「すみません、財布を拾ったので届け出たいのですが」と申し出ると、年配の男性警察官の方が対応してくれることになった。まずは財布を手渡しして、「財布を拾った場所を教えてくれますか」と一言。あぁそうですね拾った場所……と、ここで「アッ」となってしまう。

 そう、財布を拾った場所を、説明できないのだ。この街を訪れて初めての若造に、何号線のある場所だの、ランドマークとなるお店や施設を伝えるだけの知識と語彙なんて、持ち合わせていない。「エット……駅の真向かいの商店街とは別のあっちに行く方の道で……イザカヤガアッテ……」と自信がないゆえに小声になっていく私。警官の方も「どちらですか?」と優しく聴き返してはくれるものの、どうしても上手く話せない。なので機転を利かせて、スマホを取り出しGoogleマップで位置を伝えることで、この難関を突破した。我ながら素晴らしい対応能力を披露したものの、素直に「最近引っ越してきたばかりで道がわかりません」と言えばすぐ済んだのでは……と思わずにはいられない。

 まずは取得した場所を伝えた。もういいだろ、帰してくれと言いたいところだが、警察官の手元の帳票には確認事項がビッシリだ。これもお仕事なのだから、お巡りさんは大変な仕事なんだなァと、しみじみ思い、出してくれたお茶を啜る。その後も次々と質問は続いていき、それに回答していく私。「財布を拾ったのはいつですか?」「今日の13時頃です」「13時頃………」











「えっと、じゃあ財布を拾ってから4時間後に、ウチに持ってきたってこと?」

















 二度目の「アッ」が出た。そう、拾った場所を説明しきった安心感で、4時間もの間財布を持ち出したことを、すっかり失念していたのである。ヤバい。目の前の警察官の頭の中では私は「財布を拾って一旦は持ち去ったものの、罪悪感に耐えきれず最終的に出頭してきた小悪党」になってしまってはいないだろうか。またしても吹き出す汗、回らない呂律。

 「財布を拾ったのは13時ですよね?それから財布は持ったままだった」「ハイ」「その間、財布には触ってない?」「ハイ」「中からお金を抜き取ったりはしてない?」「ハイ。中の免許証も見ていません」「なるほど」














「財布を開いてないのになんで免許証入ってるの知ってるの??」















 もう誰か俺を殺してくれよ。たぶん金田一少年にトリックを暴かれている最中の犯人の気持ちってコレなんだろうな。この、会話の端々から矛盾を暴かれていく感覚。恥ずかしいしこの世から消えていなくなりたい感じ。

 免許証の存在は、竹野内が中身をチェックした際に触れていたため、財布に入っていたことは知っている。だけれど、それを私は見ていない。だが、その事情を知らない警察官にとって私は「財布を拾ったものの中身を抜き取る度胸もなかった小心者」にクラスダウンしていただろう。財布を拾った場所を説明できず、証言から矛盾を暴かれて、私の容疑者ゲージはMAXになっていた

 故郷を離れまだ一か月弱。財布泥棒で現行犯逮捕されたなんて知ったら、九州の祖父母は悲しむだろう。仕事を失い、身一つで実家に戻る屈辱は、いかほどのものだろう。なんだか泣きたくなったけど、ここで泣いたらいよいよ「自供」になってしまうので、グッとこらえる。

 ここでようやく、全てを打ち明けることにした(隠すつもりもなかったけど)。財布を拾って、その時出会った竹野内(仮名)が中身を確認した際に免許証の存在を知ったこと、すぐに届けたかったけどどうしても外せない用事があってそれを優先したこと、その用事が終わりこの交番に駆け付けたこと。それら全てを「うんうん」と相槌を打ちながら聞いてくださった警察官と私の図は、人情派の刑事ドラマのワンシーンのようだった。

 全ての事情を知った警察官の方は「わかりました―――」と一言。極めて冷静に、落ち着いて対処してくれたおかげで、私も取り乱さずに済んだ。ただ、私の名前と住所と電話番号のみならず勤め先の名前と電話番号まで聞かれたのは形式上の質問だったのか容疑が晴れていないのか、未だに判別はつかない。かくして、事情聴取は終わりを迎えたのである。

 交番を訪れて30分経過していた。これまでの人生の中でも、もっとも長く感じられた30分だった。去り際、交番を後にする直前に応対してくれた警察官の方が「お兄さんも忙しいとは思うけれど、今度から拾ったらすぐ持ってきてね。落とした人、困ってるだろうから」と声をかけてくれた。そんなことわかっとるわい!!!!!!!!と思いながらも「ハイ!!」と綺麗なお辞儀をして帰った私は、どうやらギリギリ「落とし物を届けた善良な市民」として見逃されたようである。

 かくして、警察のお世話になったものの前科は付かなかったという、とても珍しい体験をさせてもらった。手錠って冷たいのかなとか、刑務所のご飯って美味しいのかな、などと考えていたあの30分間の緊迫感は、映画やアニメなどから得られるそれとは段違いの、「もう勘弁してください」と言ってしまうほどのアレだった。

 ところで、冒頭に記した電話帳の件は、財布の持ち主が見つかったりやっぱり逮捕されることになった時のために、ネットで交番の電話番号を知らべてスマホに登録しておいたものだった。小心者にも程があるというか、悪事は似合わないなと、苦笑してしまう。

 それはそれとして、登録したはいいものの電話はかかってきていないので、財布が持ち主の元に戻ったかは定かではないし、なぜか後ろめたくて竹野内の居酒屋にお客として行かなかったことが、今となってはめちゃくちゃ気がかりなのである。

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