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『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』神をも貫く拳は人の力となりて。

 かれこれもう50話近く、毎週放送なら一年分のシンフォギアを浴びてきたことになる。お気に入りの楽曲も増え、通勤退勤時のお供に彼女たちの絶唱を聴き、諸々を済ませて次の話を再生する。そんなルーティンも残すはあとわずか一期分、13話分だけになってしまった。

 そんなしみじみと振り返るこれまでの歩みを踏まえると、今回の第四期『AXZ』とは何だったのか。未だ言葉に悩むところなのだけれど、シンフォギアシリーズの中では最も「温度が低い」という所感が、自分なりの印象として残るのだ。

 『シンフォギア』のお約束と言っても過言ではない「ライブ」が今回初めて行われなかった1話から幕を開ける本作、その雰囲気はいつもより重く、いつもの突き抜けるような痛快さはない。南米の小国バルベルデでは扮装が相次ぎ、国連はS.O.N.G.による介入を決議し、響たちが任務に赴く。これも人命救助ではあるものの、政府軍の命を奪わないよう無力化することを重視した戦闘に、晴れやかさは微塵も感じられない。

 そこで出会うのが、今回対立することになる三人の錬金術師。前作『GX』のキャロルの背後組織であり、古来より暗躍する秘密結社でもある「パヴァリア光明結社」に所属する、サンジェルマン/プレラーティ/カリオストロは、人々の命を生贄としてとある儀式の実行を画策していた。彼女たちの目的とは何か、響たちとは相容れぬ正義の形とは何か。波乱の幕開けであることは間違いないものの、アバンとなる1話〜2話を観た際の率直な感想としては「シンフォギアにしては大人しすぎないか?」というものだった。

 「歌いながら闘う」というコンセプトを十二分に知らしめた一期、正義の敵は悪ではなく別の正義であるという土台の元にパワーアップしたアクションで楽しませてくれた二期、そして前半6話がほぼ毎回クライマックスと言わんばかりに燃えの過積載であった三期と、これまでのシリーズは基本的に前作を越えようという足し算思考で作られていた。ライブしかり楽曲しかりアクションしかり、あらゆる要素を過去作よりも盛り、バージョンアップさせてお届けする。ライバルは過去の自分とでも思っているのか、その過剰なサービス精神とテンポ感は、すでにシンフォギア「らしさ」として脳に染み付いていた。

 そのため、同じ快楽を求め『AXZ』を観ると、どうしても物足りなく感じてしまう。調味料ドバドバでアドレナリン過多ないつもの味は、残念ながら今回の丼からは味わえないのだ。他のアニメならこんなこと思わないだろうが、全13話にて明快なクライマックスが始まるのが11話終盤なのだけれど、シンフォギア基準であれば「遅い」のである。

 いつもと比べてダークな雰囲気が漂う第四期、冒頭からその名前が頻出する『コマンドー』のファンにはおなじみバルベルデ国の惨劇は、雪音クリスのドラマに影響を与えていた。

 音楽家であった両親を爆弾で失い、その頃から自分の面倒を見てくれたソーニャ・ヴィレーナと再会することになったが、国連軍が放ったアルカ・ノイズによって弟のステファン・ヴィレーナが襲われ、身体の炭化を阻止するためにクリスは彼の脚を撃つことになった。咄嗟で最善の判断だったとはいえ、サッカーが好きな少年から片足を奪い、身体と心に痛みを与えてしまったこともまた事実。クリスはこのことに悩み、時に正解のない決断を下さねばならない不条理さに苦しめられることになる。

 戦争によって罪のない人々の生活や命が脅かされること。それ自体はこの現実においても今なお海の外で起こっている事実であり、そのことに向き合い背負い込んでしまうのは、これまでのクリスを観ていれば納得の行くところだろう。ただ作劇的には、クリスが自分の過去の過ちに悩むという展開は、かなり既視感のあるものにファンであれば映ったのではないだろうか。

 『G』では一期にてソロモンの杖を起動したことが回り回って響の命を脅かす重大な事態を招いたことに責任を感じ、一時は敵に寝返る素振りを見せながらも独りで闘い、翼という頼れる先輩に信頼を託すことで舞い戻るという場面が描かれた。その後もようやく手にした居場所を奪われる恐怖を抱えつつも、なぜか『GX』では切歌や調の前では頼れる先輩でいなければという意識が先行してしまうという、『G』での学びを忘れたか?と思わされる描写に違和感を感じたこともあった。何はともあれ、雪音クリスという少女はぶっきらぼうな口調とは裏腹に責任感が強く、同時に過去にトラウマを多く抱えた不安定な10代の女の子として描かれてきた。

 そこで今回のステファンの件が胸のしこりとなる展開なのだが、この問題が冒頭で提示されて以降は鳴りを潜め、解消するのは8話。ステファンは義足のリハビリを一生懸命頑張っており、クリスや姉に悲惨な過去は変えられないものの、未来は自分の努力で変えることが出来ると説く。それ自体は前向きなものではあるのだけれど、戦意喪失していたクリスがステファンの言葉で前線復帰する、といった盛り上がりもなく、ヴィレーナ姉弟はこれで表舞台から退散。序盤に提示されていたこの世界の不条理さ、みたいなものは深く描かれることもないまま、クリスと姉弟のドラマは「消化」されていったに過ぎないのである。

 バルベルデの紛争もまた人と人との不和が引き起こしたものであるなど、敵の動機といった別の縦軸と接続することもなく、提示と回収がとくに何ら全体に作用しないこの一連のドラマは、一体何を描くために用意されたのだろうか。過去の罪と向き合わされ、ずっと悩んでばかりのクリスが、さすがに可哀想に思えてくる。

 このバルベルデの一件と、もう一つ本作が煮えきらない印象を抱かせたのが、響たちと相対するサンジェルマンたちの置きどころと、その正義について。彼女たちは数多の人の命を生贄とし、神の力をその身に宿すことで月遺跡を掌握し、「バラルの呪詛」を解除することを目的としていることが語られる。かつてのフィーネが願い、至ろうとした領域への到達。それこそが彼女たちの信ずる正義であり、犠牲を伴うやり方に響はNOを突きつける、という構図が物語前半の基礎である。

 この動機については、今期のみならずシリーズ全体の問題点として以前から気になってはいたのだけれど、そもそも「バラルの呪詛」を解除したらどうなるのかが、具体的に提示されていないのである。人類の相互理解を阻む呪いのシステムとして作用しているとされるこの呪いだが、それを解除すれば先史文明の言語が人々に舞い戻るのか、あるいはニュータイプのように他者の考えていることが齟齬なく読み取れるようになるのか。何にせよ、バラルの呪詛がもたらした影響とその深刻さ、解除することのメリットが視聴者に提示されないため、サンジェルマンたちの野望に肩入れすることも出来ず、感情移入できない目的のために数万人の命をすでに犠牲としている「正義」を、響たちのそれと横並びにして語ることは不可能である。

 響がいつも苦悩する、同じ正義なのに手を取り合えないというシチュエーション。その慟哭に感情移入するには、サンジェルマンたちの理想にも視聴者が肩入れできるだけの説明が必要だったのではないか。サンジェルマンはかつて奴隷として扱われ、母を誰も救ってくれることはなかったという過去を持つ人物だが、それはバラルの呪詛そのものというよりは「他者を支配する人間」への憎悪として描かれており、絶妙にボタンをかけ違えたようなモヤモヤは真の敵が現れるまで晴れることはなかった。

 ここまで挙げてきた「雪音クリスのトラウマ」と「サンジェルマンたちの正義」という縦軸は、折り重なること無く別個に点在し、各々が全く別の所で解消を迎えるという、物語全体のまとまりを欠いた第四期。その風呂敷を畳むべく本性を表す、真の黒幕であるパヴァリア光明結社の統制局長アダム・ヴァイスハウプトが、これまでの欠点を補って今期ならではの魅力を打ち出したこともまた事実。

 初登場から全裸でCV:三木眞一郎という、まるでどこかのアニメを思わせる座組で現れ、圧倒的な力で装者たちを退却せしめる。その後もサンジェルマンたちを統括する役割を果たしながらも彼は彼なりの野望で動いており、そもそもバラルの呪詛の解除などやる気がなかったというとてつもない梯子外しをしてくるのは、むしろ痛快ですらあった。話し言葉が全て倒置法という耳に残りやすさ、恋愛脳な思考回路の自動人形ティキを使い潰す外道ぶりなど、勧善懲悪に振り切れる宿敵は実はシリーズの中でも貴重な存在。容赦なく拳を振るえる相手がいることで、大人しかった本作のギアも少しずつ回りが加速していく。

 自身が神になることを望んだアダムだが、実は彼も自動人形の一人。人に造られし存在でありながら「完全であるから」という理由で廃棄されそうなところを逃げ延びたという過去があり、完全な自分が不完全な人間を支配することが当たり前という歪んだ思想を抱いてしまう。そんな彼が、神の力を得られず、響の持つ神殺しの力を前に野望が叶わないと知るや、美しい容姿を捨て悪魔の如き姿へと変貌するのは、被造物ならではの悲哀を思わせる。感情を昂らせた本性が醜き悪魔とは、一体何を投影して彼は造られたのだろうか。

 それに対し、ただの人間である響たちは、自分たちが不完全であることを肯定する。そして、不完全であるからこそ互いが相手を想い、補い合うことでその隙間を埋めていく。サンジェルマンが遺した力を攻撃として放出するアダムだが、響はそれを受け止め、仲間たちがその背中を支える。S2CAの応用にして、装者たちが身体を張り、エルフナインの機転が後押しする。そうして生まれた新たな力=リビルドギアは、他者との相互理解のため産まれた文化であるところの「歌」と「錬金術」の融合という新たな奇跡にして、たとえ相容れない正義とも手を繋ぐことを諦めなかった響の到達点であり、人間という群体の生き物の底力。一人の完璧な神ではなく、愚者の集まりこそが勝利する物語として、『AXZ』は人間讃歌を謳うのだ

 綻びの多い、決して「完璧」とは言い難い本作ではあったが、終わりよければ全てよしと言わんばかりの熱量に押し切られてしまった。神を否定するという結末は、今後控えているであろうカストディアンとの闘いを予感させるものであり、神という圧倒的な存在に対してその被造物である矮小な人間が団結と絆の力で勝利するというのは、最終章となる五期のメインテーマとなる予感がするからだ。

 残すところあと13話。これまで積み重ねてきた拳は、神を歌でぶん殴るのだろうか。それとも、その手を開いて、神とでも手を繋ぐのだろうか。泣いても笑ってもあと一作。その果てを見届けるしかあるまい。

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