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言葉とドラムのはなし

この間、ふと思い出したんだ。
音楽を始めた時のことを。
ずっと夢中になっていて忘れていたんだけど、
ちゃんとしたきっかけがあったということを。

わたしは、音楽に救われた人間。
そんな人たくさんいると思うのだけれども、
あの時のわたしの世界には、たしかに音楽しかなかった。

そこは、まっくらな世界だった。
怒号も、罵倒も、すべて超えた先の世界。
夜に流れるラジオと、そこで流れる音楽だけが、
この世とわたしを繋いでくれた。

貪るように音を聴いて、聴いて、
ある日、あの文章に出会った。
ブックオフで見つけた、野田洋次郎へのインタビュー。
『アルトコロニーの定理』を完成させたばかりの洋次郎は、
インタビューの途中で言葉をつまらせて、涙を流していた。

それはとてつもない衝撃だった。
ただの平面の文字なのに、そこから伝わってくる
大きな大きな洋次郎の気持ちが、
彼の泣き声が、温度が、
私をいっぱいにして、涙が出た。

それからしばらくして、私は音楽を「書く」ようになった。
私は音をきれいに鳴らすことはできないけれど、
言葉でなら、なにか返せるものがあるかもしれない。
そう思ったら、いっぱい言葉が浮かんできた。
歩いている時にぽとん、ぽとんと落ちてくる言葉を
夢中で繋いで、文章にした。

形になった言葉たちは、
私の一番近くにいた人がいつも読んでくれた。
ロッキンオンジャパンの読者コーナーにも載せてもらった。
それも2回も。
編集部の人から電話がかかってきて、
初めての原稿料をいただいた。
当時私はまだ高校生だったけれど、
とてつもなく大人になった気分になった。

将来は、音楽ライターになろう、と思った。
私を救ってくれた音楽を、
多くの人に知ってもらえるような音楽ライターに。

でも、そのためにはもっと音楽のことを知らなくちゃいけない。
だから、軽音を始めることにした。

軽音は、とても楽しかった。
私が知った気になっていた音楽は、
もっともっと広いものであると、
もっと色んな音が世界にはあると、
教えてくれた。

でも、書けなくなった。
私よりも圧倒的に聴こえる人を目の前にして
私の言葉は無力。
私が書く意味なんてなんにもない。
そう思った。

そう考えると言葉も落ちてこなくなった。
もうあの時みたいな、生きた文章は書けないんだ、
そう気づいて、悲しくなった。

そうしてだんだん文章は書かなくなってしまった。
たまに綴った文章も、どこか心が入っていない気がして、
途中でやめたりなんかして。

反対に、軽音にはどんどんのめりこんでいった。
できていたことができなくなるのは辛いけれど、
できていなかったことができるようになるのは嬉しい。
無理やり叩いていたフレーズが体に馴染んでいく感覚が
たまらなく快感で、夢中で練習した。

でも、どれだけやっても、ドラムが自分にはまらない感覚があった。
どれだけシンバルを叩いても、スネアを叩いても、
自分のものにはならない、どこか浮いているような感覚が。

自分にとってのドラムがなんなのか、
ドラムで何がしたいのか、
それがずっと分からなくて、
ドラマーの会でやっと手がかりを見つけた。

同じフレーズを叩いていても、叩く人によって違う曲になること。
スティックの角度や、シンバルの位置で、全然違う音が鳴ること。
曲への想いはスティックに乗って伝わるということ。

それから、いったんこれでいいやと思っていたところを
全部見直すことにした。
スネアの高さ、シンバルの位置、角度、椅子の高さ。
これは今もまだまだ模索中で、
自分のライブ動画を元にちょこっとずつ変えている。

あとは、コピーの仕方。
これまでは「叩いてみた」動画を見ながら叩いていたけれど、
それはあくまでも参考程度にすることにした。
一旦歌詞をすべてノートに手書きして、
それを見ながら音を聴く。
歌詞を書き写すだけでいっぱい時間を食うし、
ものすごく手間なんだけれど、
言葉をなぞっていくと、拍だけでは表せない
息だとか、想いが感じられるような気がして、
不思議と叩きたい音もはっきりわかるようになった。

やっぱり私は「言葉」だったんだ、と思った。

文章を書きたくて始めた音楽は、
ぐるっと回って「言葉」に戻ってきた。
ものすごく遠回りをしたけれど、
やっぱりここだったんだね、と。

昔の私と今の私。
私はあんなにまっすぐな文章はもう書けないし、
彼女も音楽をここまで立体的に聴くことはきっとできない。
もう重なることはないとどこかで思っていたのだけれど、
「言葉」を通じてまた会うことができた気がして、
なんだかすごく嬉しくなった。

言葉を拾うようになって初めて、
「楽しい」だけではない何かがやっと生まれた。
やっとドラムに心が乗ってきた。

けれど、ライブの動画を見返すと、
まだまだ納得できるような音は鳴っていない。
技術の面でも、音色の面でも。
だから次は、「自分の叩きたい音」と「自分の叩いている音」のギャップを埋めていくところから始めようと思う。


私よりもドラムが上手な人なんて
この世の中にたくさんいるし、
この先何年ドラムを続けても、
めちゃくちゃ巧いドラマーにはならないのだろうとどこか思っている。

でもいつか、歌うようにドラムが叩けたら。

それはきっとすごく幸せだろうなことだろう、と強く思う。

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