出会い直し



頭の中が追いついていなかったのは、正直な油断だったのか。
それとも、準備したら落ち着いていられたのか。
ソワソワとしながら車が高速道路を走る、間に合うのかわからない中真夜中に病院へ向かった。

父さんは10月28日の午前3時に静かに息を引き取った。
前日は薬の副作用で節々が痛いと言いながら身体を動かして、苦しんでいた姿をみていただけに息を引き取ったあとのその静かな表情と、ようやく苦しみから解放されたことにとても複雑な思いを抱いていた。

寿命は近い、命は残りわずかというなかで心残りがとてもあった。いや、どれだけ急造で思い出達で埋め合わせてもきっと虚しくて心残りはあったのかもしれない。
それでも急造でもなんでもよくて、どうか自分が父さんの息子であったことを幸せであったこと、ここまで育ててくれたことに感謝していることを胸に秘めて旅立ってほしかった。伝えきれたかわからない。伝えようがないことも、もっと共に生きていたら伝えれたのかもしれない。
それがもはや叶わないという事実を受け止めることができなかった。

こうしていつかは終わりが来ること、もう散々思い知らされ打ちのめされた。身体がそれで動かない、心が閉じていく、感傷的になりすぎたくない、冬眠みたいにもう縮こまって布団にくるまっていたい。朝も夜も関係なく。
そう思っていても人が死ぬと思ったより現実は待ってはくれなくて、亡くなった2時間後には葬儀場で母親をつれて通夜葬儀の打ち合わせをしてバタバタと親戚が集まって生前の話をして。心の整理よりも、身辺整理に追われた。

葬儀がはじまると沢山の人があつまった。少年野球の父兄さん、会社の職人さん、涙を流しながら、先に逝ってしまった仲間を見送りに集まった。
来る人皆に、生前お世話になったと知らなかった父の話をきいた。

真面目で、口数が少なく、それでもいつでも助けてくれる。
力を借りたことなんて沢山あったし、なにかと笑い合った。

その時々に、父さんは父さんの人生をまっとうしたんだと感じた。土と太陽の匂いを纏わせ、悪天候でも朝も早くから仕事にいき、道具を使って仕事をしてきたその手は分厚く固かった。

そういった話を通夜で聞いていたこともあって
その夜弔辞を書いた。長い長い、初めて父親に宛てた手紙を書いた。
どうしても叶えて欲しかったことがあった。
父さんのことが一番好きだった妹の結婚式のバージンロードを共に歩いてあげてほしかった。誰よりも心配してつきっきりで看病やお見舞いをしていた妹の幸せを隣で祝ってあげてほしかった。
そういった、本音をはじめてしたためた。
読み上げた時にお別れなんだなとようやく実感が湧いてきた。棺を締め、骨になって還ってきたときよりも弔辞を読み終わった時が一番に溢れそうだった。



それからの日々は没頭の毎日だった気がする、上の空で日常がひとりになるとふと座り込んで何も考えない時間が増えていた気がする。
別にそこまでの時間を今まで重ねていたわけではないけど、いつでも会えると、もう会えないはここまで違うんだよなっと、人が亡くなるたびに突きつけられる。

そうして11月5日30歳を迎えた僕は、29歳を振り返っていた。
思いもよらないがとても多かった。あの刹那的に生きてきた20大前半の色彩が褪せて見えるほど、29歳のほうがより人間的に色濃かった。

失うことが怖くなった。自然と”みんな”の輪から足が遠のく、これからも出会った母数と同じくらい別れがあるということに耐え切れそうになかった。蹲って渦をまいて動かなくなってしまいたかったのに、誕生日はたくさんの人から祝ってもらった。嬉しくて、暖かかった。きっとこの人たちと出会っていなかったら今の自分は存在しえなかったのだろう。人生は失うことばかりではないような気がした。でもまだ全部を知れていない。それまで、失うことばかりじゃないと言語化したい。この気持ちを音楽にしたい。
何かを確信めいた、悟った自分ではいたくない。今日もまたなにも変わらない平穏な日々が駆け抜けていく、沈下していた自分の足がそれでも最近ようやく動くようになってきた気がする。でもその速度はどこまでも自然に今は身を委ねようとおもう。


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