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小野路城址 鶴見川遺跡紀行(24)

歴史が詰まったタイムカプセル「小野路」

前回からの続きです。

今回は、すごくチートして車で来ました。
(投稿日は7月ですが、散策したのは冬場です)


野津田公園

地形を利用した自然豊かな公園で、バラ園や湿生植物園、各種グラウンドやコートのほかに、FC町田ゼルビアのホームグラウンド・町田GIONスタジアムも有しています。

公園の駐車場に車を止めるだけが目的で、ここに来たのではありませんよ。


村野常右衛門生家(移築)

前回、前々回の記事でもちょこちょこ取り上げていた、多摩地域の自由民権活動家・村野常右衛門。彼の生家(移築)が駐車場のそばにあります。

そういえば、町田市立自由民権資料館は、彼が若者の育成のために建てた文武の道場「凌霜館(りょうそうかん)」の跡地に建っていたのでした。

安政6年(1859年)、常右衛門はこの家に生まれる。江戸時代末の創建時の茅葺きから大正13年に当時では珍しい鉄板葺きに大改築したものを、往時の姿で移築・復元。当時の家財道具なども展示、明治期の生活の様子を見ることができる。(町田市の指定有形文化財。村野家から寄贈を受け移築)

広い建屋
2階も見学可能

波乱の政党政治家 村野常右衛門

多摩郡野津田村生まれ。地主・村野常右衛門(4代目)の長男。
1881年、石坂昌孝らと政治結社「融貫社」を結成。自由民権運動に加わる。
1882年、自由党入党。
1883年、野津田村に凌霜館を設立、青年民権家の育成に取り組む。
1885年、大井憲太郎の朝鮮革命計画に加わるが、計画が発覚し(大阪事件)逃亡後、横浜警察署に自首。
1887年、和歌山監獄に収監され、1888年に刑期を終えて出所。
1889年、鶴川村会議員に選出。同年神奈川県会議員補欠選挙に当選
1898年、衆議院議員総選挙に憲政党から出馬し当選。以後、連続8回の当選。政党政治家として立憲政友会の要職を歴任。
1922年、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任。

横浜倉庫専務取締役、横浜鉄道監査役、自由通信社社長などを歴任、実業家としての顔も持つ。

大阪事件に関与して服役後、すぐに県議会議員になったのか…現代の感覚では理解し難いかも。

自由党の流れをくむ憲政党は伊藤博文と手を組み、伊藤を総裁とする立憲政友会を結成。村野は政友会の幹事長や総務委員など党の要職を務めました。

犬養毅からの弔意文が展示されていた
立憲政友会の幹事長となり、原敬内務大臣の右腕として活躍


さて、本日のメインイベントへ。
公園の展望広場から、交差点「野津田高校入口」に出てきました。


小野路城址

小野路を訪れようと考えたきっかけは、やはり中世城址。

まちださんぽ 小野路

この図の下部中央の白い小道から、城址を目指して進みます。

ちょうど乗越八幡跡あたり
図師小野路歴史環境保全地区
丘を登って下って
また登る…
すると、広い平坦地の出た。
その奥には二段の基壇のような場所がっ!
ここが小野路城!
小さなお社が…

スサノオとその本地仏・牛頭天王を祀っている八雲神社。都内では多摩地域に集中している。でも、なぜか大口真神のお札も祀っている。

(この日は地元の方々が枝打ちや下草刈りの作業をされていたので、写真を遠慮しました)


小野路城の歴史

小山田氏が平安末期の承安年間(1171-74)に小山田城の支城として築城。
室町時代に扇谷上杉氏の領域となり、1476年(文明8年)に長尾景春の乱が起きると、小野路城は小山田城と共に扇谷・山内軍の拠点となる。翌年、小山田城は長尾勢に攻め落とされ、小野路城も落城したと考えられている。


小野路城の構造

周辺地形
地形を見てみると、標高が135mほどの小山から放射状に尾根が伸び、そこから更に支尾根が分岐。

東には万松寺谷戸、北にも深い谷があり、標高差60mを一気に攻め上がらなければならない地形。

東西の断面図

尾根道は細くて、大挙して攻めると伏兵にやられそう。逃げ道も四方八方に広がっているので、大将を討ち取るのも難しそう。

構造
歴史環境保全地区とあって保存状態が良い城址だそうです。

尾根筋を平滑して城郭としたもの。主郭は地図上では短辺約23m長辺約35mの台形状。山城しかも支城にしては、結構広いと感じました。

案内板では、本丸ともう一つの郭があったと想定しています。また、地図上に「曲輪?」と記した場所は、広く平らなので第3郭かなとも思いました。

案内板より

でも平安末期の城が、こんな立派な構造をしていたのかな…?

実は、先に小山田城址の方を見学したのですが、小山田城の方が中世初期によく見られる居館型の城なんですよね。

後に扇谷上杉氏が使用した伝承もあり、室町後期にアップグレードしたのかもしれません。また「多摩丘陵の古城址」(田中祥彦・有峰書店新社)によると、後北条氏が昔の廃城をリサイクルして、三輪の沢山城と同じように物流や統治に使用していた可能性も示唆しています。

それもそのはず、小野路という場所は、地政学的に大変重要な場所であったのです。(それについては次回の記事で)

だとすると、小野路城がこのような立派なお城だとしても不思議はありません。

(香川元太郎氏は絵本作家でプロのイラストレーターです。画像の転載はおやめください)


小野井戸

主郭のすぐ北側に小さな井戸があります。

冬場でしたが、枯れていませんでした

なぜか小町井戸という。

その昔一人の仙人、虚空より飛び来たり、 山の峰に霊水を湧出せしめ、その辺に住居す。時の人さらに知らず。ある時、里人彼の仙人を見て恐れて近づくことを得ず。彼の仙、里人を呼び近づいて語っていわく。この水はこれ人間最上の薬王水なり。一切の病は、この霊水を呑むときに諸病ことごとく癒えずということなし。七々四九日まで飲みて癒得ざるは、これ即ち定業の病なりと。知るべし外病は癩病諸瘡眼耳病などはあるいは洗い、あるいは呑み信心堅固なる時は病苦ことごとく除きて心身安楽を得べしと速やかに語り給う。(中略)
その後小野小町、悪病を請け、朝下を退き京近き霊仏霊社に詣りて祈れども病苦 印なきゆえ、この山の霊仏仙水の徳を聞きて東国に下り、この山に三七日篭れども病苦さらに印しなきゆえ夜明けなば立ち出でむと思いて薬師如来に暇乞うの歌あり。
 南無薬師諸病悉除ノ願立テ身ヨリ仏ノ名コソ惜シケレ
と詠み、少し真眠たまうとき夢幻の如くにて薬師如来の返歌あり。
 時雨ハ只一時ノ者ゾカシ小町ガミノカサソコニヌキ置ケ
小町、夢醒めて後我が身を見給えば悪瘡少し癒湯。
小町いよいよ心身堅固にして誓願を立て千日篭居し仙水を呑みあるいは洗い給えば悪瘡ことごとく平癒す。 その後この山の麓に山賤と伴い三人子息を儲け給う。それよりこのかた又里となり小野小町村と号す。 いつの頃からか小野路村という。

下記リンク先より抜粋

小野という地名に引っ掛けて小町井戸…?
しかも、山賤(木こり、猟師)と夫婦になり、子が3人…?
まあ、小野小町に関する史跡は津々浦々にあるようで、湧水や井戸だけでもザッと数えて10ヶ所はあった。

小町井戸から東南に100m離れた崖下にも「滝つぼ」という湧水があり、それと併せて城の水源としていたそうです。(案内板に〇に井と書かれた場所)


天然の迷路

城の周辺を歩くと同じような分かれ道が何ヶ所も。案内標識がないと迷子になりそうです。

しかも、どこに降りても似たような谷戸。標識無しでは、とても目的地に辿り着けそうもありません。

このような場所で、初見の兵を引き連れて戦うのは危険極まりない。細い尾根道に誘導して左右から挟撃したり、谷戸のどん詰まりに誘導して三方からめった打ちにしたりなど…様々なトラップを仕掛けられそう。

そのような堅城を落せたのなら、きっと土地に詳しい者が手引きをしていたのではないだろうか。例えば、修験者たちとか。

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記事には関係ないけれど…実は鶴見川遺跡紀行で、2回ほどリング・ワンダリング(狐に化かされ道迷い)経験があります。

いずれも「すり鉢」地形の周縁部で、連続クランクや五叉路に出くわして方向感覚を喪失。すり鉢の外へ出たはずが、すり鉢の底に戻ってしまい、「あれ?さっき通った道路工事現場だ!」と狐につままれた状態になりました。交通誘導のおじさんもビックリして二度見!

「何で、Google map使わないの」って?
それはじゃな…自分の感覚を信じて、自由に歩いてみるのが楽しいんじゃ!

いえいえ、
見知らぬ土地で何不自由なく活動できるのは、全て地図様のお陰です。
ありがたや、ありがたや。


次回は、小野路宿と近藤勇の駆け巡った道です。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。