久野古墳群(小田原市)
箱根や小田原に行ったら、ついでに古墳へGO!
いつも半径20km圏内の近所の古墳を巡っていますが、今回はその3倍も離れた小田原市にやって来ました。
というのも、体組成の30%が温泉、残りの水分30%は発泡酒の夫氏が、温泉成分を補充するため箱根に行きたいと言うので、古墳散策を条件に同行することにしたからです。
岡山の造山古墳以降、なんとなく古墳に理解を示すようになった夫氏。やはり、初心者は王道より入るべし。
久野古墳群の場所
足柄平野を流れる酒匂川右岸の緩やかな久野丘陵に、現存している古墳は直線的に並んでいます。
ここは、伊豆箱根鉄道・大雄山線の五百羅漢駅から徒歩で巡ることも可能で、小田原市のウォーキングコースにも指定されています。
【ご参考】小田原の観光ウォーキングコース・久野遺跡巡りコース
今回は車で小田原フラワーガーデン方面から行ったので、そのルート順にご紹介。
久野15号墳
フラワーガーデンから続く道を左折して、畑や農園が並ぶ道へ。無人の野菜販売所が目印です。(お野菜すごく美味だった)
そこから、すこし進んだ所に何やら標識が…
よし、奥へ入って行こう!
周囲は私有地の農園のようだが
右手に案内板が、そして…
バァーーン!!
ふむふむ、丘陵の先端にある大円墳を1号とし、そこから西に向かって15番目だったから15号墳なのか。
古墳時代後期築造の舟形古墳(?)。聞いたことがない…舟形石棺か、舟形石室または石郭のことか?英文はBoat-shaped ancient tombだが。
石室は復元。天井石は分かりやすいように部分的に覆っているのか、あるいは発掘した当時の状態だったのか?
底は草だらけだが、入り口よりも一段低くなっているようだ。
石室内からは須恵器横瓶、甕、直刀、鉄鐔が出土したようで、小田原市郷土文化館には須恵器横瓶のほか、長頸瓶、広口壺、鉄鏃、刀子、丸玉、小玉が保存されている。
久野4号墳
そこから200m先に、また標識が出てきた。
またまた、私有地らしき場所に入ると、
すぐに、こんもりとした膨らみが…
2本の木が角のよう…せんとくんの頭?
脇から少し登ってみると…
む、む、む…石積みがある。
正面に回り込んでみると
古墳時代後期(6~7世紀)の墳径20m・高さ3.5mの2段式円墳。
ここが羨道にあたるのかな?
鉄扉の間からのぞいてみると、
細長い石室がっ、
幅1.5m、奥行き7mの玄室には、2体以上の人骨と、様々な装飾品や鉄器が副葬されていた。
上は平らな板石
手前右側は大きな石
左側も同じく
底には、部分部分に石が埋め込んである。
横穴式石室は南西に向かって開口し、長さ約7m、幅約1.5m。羨道の長さは約1m。久野川の河原石や根府川石が使用された。
床面には、奥壁から入口に向かって約2.5m、幅約1m、厚さ3cm程の板状の石が敷かれており、遺物の出土状況やその位置から、棺座ないし祭壇と考えらる。また、この石の下には、隙間を木炭で目張りした河原石が一面に敷かれていた。
側壁には、大小さまざまな自然石がそのまま築きあげられ、奥壁は扁平な一枚石、天井は8枚の板状の石材で築かれていた。
下図は、発掘時の実測図。
3段目まではきれいに並んでいるけど、そこから上がアバウトなお仕事。大き目な石が足らなくなったので、前と後ろだけ骨格となる石積みを作って、真ん中は小石で埋めたように見える。
でも、城の石垣はランダムに並べた野面積みの方が強いと言うから、石室でもそうなのかな。よく見ると、逆アーチのようにも見える。
こちらの石室も復元されたものです。
久野2号墳
4号墳からしばらく進むと、左手に看板が出てきた。(写真は振り返ったところ)
2号墳は現存しているらしいが、私有地内の奥まった所にあるため見ることができないようだ。1号墳に次ぐ大きさで副葬品も豪華なことから、有力者の墓とみられている。
この奥にあるのかもしれない。
久野諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡
さらに進むと、開けた場所に出てくる。
看板によると、ここは
縄文遺跡らしい。
縄文海進時には、ここもウォーターフロント物件。
久野諏訪の原丘陵には、他にもたくさんの古代集落遺跡があったそうだ。
久野坂下窪遺跡第Ⅲ地点古墳
縄文遺跡から先は急に道が細くなり、「先に進めるの?」という感じ。注意深く進むと、しばらくして再び道幅が広くなった。
道が二手に分かれ、ナビによると直進が久野1号墳への道。
その分岐地点に、小さな盛り上がりを発見。
木陰にたたずむのは、古墳…?
久野1号墳の陪塚と言われているが、調査はされていない。
分岐のもう一方の道を見下ろすと、緩やかに開けている丘陵地。
さて、この古墳の先には…
久野1号古墳
こちらが「百塚の王」と呼ばれた1号墳。
隣のフェンスには案内板があった。
木が茂っていて、なかなか形がはっきり分からない。
(グーグルストリートビューだとはっきりした形が見える)
何故か4号墳と15号墳への標識がある。フェンスとの間の細い道を入ってみると、辛うじて墳頂部が見えた。
歩道が狭くて、全形の引き画像が撮れない。
進んだ先の道路の裏側は、木がないので墳丘の形が分かる。
このような規模感。
墳丘の規模径39m、高さ5.9m。幅約12mの周濠が確認され、周濠を含めた規模は、径60m以上と推定。県下でも最大級の円墳。
丘陵上に展開する古墳群の内、最大の規模を持ち、「王塚」とか「百塚の王」称された。以前は、4~5基の陪塚かと思われる小円墳が存在したが、現在は、2基が残るだけで、それも陪塚かどうか不明。
内部主体は未調査。本古墳群成立の初期、6世紀前半までに築造。
しかし、振り返った先は素晴らしい眺め。酒匂川と足柄平野が一望できる。
相模地方の勢力
相模地方の古代史は全くの門外漢。だけど、日本は弥生時代いや縄文時代から既にボーダレスな社会だったから、俯瞰的に見ないといけない。
弥生後期には南関東は渡来系人の玉突き事故状態で、それ以降、この地域では多くの勢力が群雄割拠していたようだ。
律令前の古代相模国の勢力は、師長(しなが)、相武(さがむ)、鎌倉別(わけ=天領)の3つに分かれていて、互いに影響しあっていた。
*1参照
*2参照
図2から、師長の古墳は、少し遅れて造成が始まるが数が多いようだ。前方後円墳が少ないのは、ヤマトとの関係性もあるかもしれないが、もはや副葬品にこそ意義がある時期だったからかもしれない。
図1から、酒匂川右岸は高塚古墳が主体で、600~650年の間に築造されている。大磯丘陵は横穴墓が多くなることから、時代の変わり目なのかもしれない。
【ご参考】
久野諏訪ノ原丘陵の遺跡ー久野古墳群と周辺遺跡ー(小田原市教育委員会)
*1 6・7世紀にける相模地域の動態(総合研究大学院大学 柏木)
*2 相模地方の国造・在地首長と古墳(2018かながわの遺跡展 田尾)
群集する古墳(H29.神奈川県教委・横浜市歴博・箱根町教委)
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興味深かったのは、万葉集の歌の研究から師長、相武、鎌倉の人がそれぞれ足柄山、大山、鎌倉山を国神(魂)として崇めていたことが読み解かれ、国造の墓と思われる墳墓がその山々のお膝元に造成されていたということ。(*2)
以前読んだ國學院大學の小林達雄名誉教授のレジュメに「縄文人はヤマを大切にしていた。そのヤマは円錐形の立派なものでなければいけない」とあったのを思い出しました。
古代から日本の神々は山であり、そこから流れ出づる川は神様の恵みでもあり戒めでもある。昔の人は、そんな風に思っていたのではないかなぁ。
さて、今回は車でサッと回ってしまったので楽だったけど、やはり自分の足で歩いてみた方が、色々と実感できたかも知れない。(ただ、電車で来るのはちょっと大変)
あとは、やはり復元であっても石室が見られるのはインパクト大。夫氏は1号よりも4号墳に興味津々でした。
それから、近くに大きな自然公園があって家族連れも楽しめますから、歴史好きなファミリーにもおすすめです。
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。