沢山城址 鶴見川遺跡紀行(18)
鶴見川中流域の小机城址を訪れてから、中世城址に興味を抱くようになりました。地形を活かし、戦闘用に特化した力強い構造は、近世の城とは異なる趣きがあります。
しかし、このような城址は、今も城として残っている訳ではありません。今回訪れた沢山城は、人々が生活する場に内包されています。今回は、周辺にお住まいの方にも配慮した内容にしたいと思います。
七面山
沢谷戸自然公園の隣にある山は七面山と言います。
日蓮宗・身延山久遠寺が信仰する七面大明神が由来で、山頂には七面堂が建っています。
沢山城(三輪城)は、鶴見川に面した台地上にあり、奥に七面山が立ち、南東側は沢谷戸(さわやと)によって深く抉られた地形になっています。名称を「たくさん」城と紹介しているサイトがありますが、その出典は不明です。沢谷戸に因んで「さわやま」と読むのが一般的です。
現在、七面山を含む城址は私有地。山主は荻野氏です。
平安期877年に大和国三輪の荻野・矢沢・斉藤氏等が、この地に移住したことが起源と伝わります。この地域の土豪であったと推測されますが、江戸時代には帰農。それ以降、旧家者百姓として三輪村をまとめていました。
新編武蔵風土記稿には、七面堂は百姓(荻野)与兵衛の持で、妙福寺から下賜された七面大明神像を祀ったと記されています。
【ご参考】
沢山城(三輪城)址
実は、この場所は春と秋の2回に渡って訪れました。1回目は、よく調べなかったので場所が分からず、そのまま退散。2回目は調べてから行ったのですが、かなり徘徊しました。
最初にお断りしておきますが…
お城ガイドやGoogleマップで紹介されている沢谷戸自然公園の入口から山に入る道は、現在、途中に「立ち入り禁止」の看板が立っています。
そのことからも、城域への立ち入りを許されている通路は、地域の方々が七面堂にお参りする参道のみと思われます。山主のご厚意で、お参りさせていただける状況です。
その道は、非常に分かりにくい小さな路です。
私有地であると記した看板と柵があります。
団体での入場と犬の散歩を禁じています。
テレビ取材お断りの他、注意喚起の看板が多く立ち並びます。これだけの看板を立てなければならない状況があったのだと推察します。
奥に鳥居が見えてきました。
土橋のような細い道の先に
七面堂(八面堂とも伝わる)が祀られています。
振り返ると空堀が見えます。
今いる場所は、主郭(後述のⅡ)にあたります。
主郭の下には、広い曲輪(Ⅳ)が存在します。
沢山城の縄張
柿生文化104号に沢山城の図が掲載されています。
多摩地方によくみられる土豪屋敷の改築ではなく、高台を利用して本格的に造られた城のようです。
上図のローマ数字は曲輪(郭)を示しています。
城はⅠ郭を中心に扇形に広がり、城域の北西~東側を弧のように取り囲む鶴見川は、まさに天然の水堀です。隣接する沢谷戸はⅠ郭の背後まで深く切れ込んで、守りを固くしています。
・主城部
標高70m超のⅠ(物見櫓=天主台)と隣接するⅡが主郭(本丸)、Ⅲが副郭(二の丸)と見られ、周囲には腰曲輪が巡らされています。
この部分は、武田氏の後北条氏領侵入を機に、小机城などと共に改修されたと見られて、元々Ⅱ、Ⅲ郭の北側が一体化していたのを空堀で分割し、それぞれの郭を盛土で拡幅し(物見櫓築造も含め)、土塁で補強したようです。
・広大な曲輪群
主城部とⅣ郭の間には幅10mの堀が存在し、地下2mほどの地点に湧水があることから水堀だった可能性もあります。
Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ郭は段々となって下って、Ⅳ郭には井戸があり、焼き米が大量に出土しているとのこと。
Ⅳ、Ⅴには兵糧米の倉や家臣団の住居、Ⅵ、Ⅶには馬場や演習場など城に付随する施設があったと推測されています。
・出丸
鶴見川に面した高台の北東端は、出丸だったと考えられています。
城の西側にある熊野神社にも土塁址が残り、街道に面しているることからも、出丸的な役割があったと考えらています。
また、城の北側の高蔵寺周辺も同様に見られています。
・切通
虎口は複数考えられ、うち一つは白坂三輪横穴群周辺の切通しと見られます。
横穴群への登り口です。
横穴墓が作りやすい地質は、切通し掘削にも適していたか。
左手にⅤ郭の東端が見えます。
【ご参考】
(閲覧するには、国会図書館の登録が必要です)
沢山城の意義
享禄の頃(1528〜30)の築城と言われ、武田氏や北からの攻撃に備えた城だったとも考えられています。
・交通の要衝と行政圏の境目
行政上は小机庄の範囲ですが、実質的に八王子城の傘下にあったようです。
俯瞰して見ると、八王子衆と小机衆の中間地点に位置。
現代の道路図を見ても、まさに交通の要衝。
津久井道、鎌倉早の道、鶴見川沿いから小机、神奈川湊などにアクセスし易かったのではないでしょうか。
・兵糧の補給基地か?
沢山城には、兵糧の補給基地としての役目があったと伝わっています。
先ほどの城郭図を見ても、広い城域が尾根伝いの道に面しているので、人や物資を集め易い場所であったと思います。
北条氏照印判状
天正10年(1582)頃に、近隣の広袴郷(町田市)に対して氏照の印判状が出されました。郷名が明記されてないため、他の郷村にも同じものが出されていたと考えられています。
【ご参考】
柿生・岡上地域の戦国時代 柿生中学校 文化講座 中西望介
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/07/Seminar-39.pdf
実際に、発掘調査でⅣの郭から大量の焼米が発掘出土したそうです。このことから、この城は八王子城落城とともに焼き払われたという説もありますが、戦が行われた伝承は残っていないとのこと。
中世末期には、戦闘用よりも行政庁的な色合いが濃かったのではないか、と指摘する郷土史家もいるようです。
城主は誰か
沢山城主が誰だったのかは、はっきりと分かりません。
複数の街道に隣接することからも重要な城と考えられ、後北条氏直轄の城と見る向きもあります。先ほどの印判状にあった大石筑前は北条氏照の重臣とされ、その部下が三輪に遣わされていたことからも、八王子城主の氏照の管理下にあったと思わられます。
荻野氏が実質の城主か?
現山主である荻野氏の江戸時代のご先祖・与兵衛は、当時、分家44家を数えるほど栄えていたようです。一族の磯吉は江戸時代の医者で、その家屋が都の重要文化財として、現在も薬師池公園に移築保存されています。
そのような状況を鑑みると、平安期から在地武士として三輪に根を下ろし、戦国期には様々な領主に仕えながらこの地を守っていたのが、荻野家であるということに間違いなさそうです。
秀吉は小田原征伐の際に、都筑郡内の9ヶ所に対し禁制を発令しています。これは国衆(在地武士)に対して、所領を安堵する代わりに参戦しない事を要求したものです。
柿生文化97号 「秀吉天下統一間近 その時麻生で起きたことは(2)」
徳川入府後、荻野家が三輪の地にそのまま帰農できたのは、それだけ地域を治めるために重要な人物だったからではないでしょうか。
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古城散策サイトなどで、沢山城域の全面公開を要望し、山主に対して苦言めいたことをのたまう輩がいるのですが…
この地域は東京都下にありながら、500年もの間、ほぼその当時の地形を残している場所です。その南側は、全て平滑化されニュータウンに変わってしまいました。
現在も昔と変わらず沢山城を守っていらっしゃるのが、山主・荻野氏なのです。
次は…
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。