短編集「虹」 水野英子

9月に少女まんが館へ行って読んだ漫画の感想です!

🌷短編集「虹」 水野英子

水野英子の漫画を読んでみたかったので読みました!

書誌情報:水野英子「虹」(1979、サンコミックス、朝日ソノラマ)
収録作品:「ママに青い花を」、「川のむこうの家」、「虹」、「青燈幻想」


水野英子=「星のたてごと」というイメージがあったので、こんな大人っぽい絵でこんな退廃的な話も描いていたのか……と衝撃を受けました。
単行本カバーの折返しのところの編集部担当者が作った感じの紹介コピーがかなり熱い文面だったのでご紹介↓↓

心の壁にまとわりつく、悪魔的美しさへの憧れと戦き(おののき)が、大胆なドラマ構成の中で、絢爛と花開く。血の濁り、退廃の澱んだ世界を切り開き、天空鮮やかに浮かぶ虹の幻影!“愛”の多面性を鮮烈に描いた名作集!
カバーそで

読み始める前に読んだときには「??」でしたが、読み終えるとなるほどたしかに。。と納得でした。


「ママに青い花を」

原稿原本から印刷できなかったのか、なぜか漫画の部分がページより一回り小さかったです。

舞台はアメリカ中西部みたいなところ。

主人公の青年はハイティーン~二十歳くらいの年頃で、幼いころに家を出て行った母に会いに出発するところから物語が始まります。
いちおう母の居場所は分かっていて、都市部の街に向けて長距離ヒッチハイク旅をしていきます。

ちなみに父はおらず、もともと祖父と母と三人で農場暮らしをしていました。

母について覚えていることをモノローグで語る青年。
母は自分と同じブルーグレーの目をしていて、そして長いプラチナブロンドの髪でした。
祖父は母が出て行ったあと、母の写真を燃やしてしまいます。
そのため青年は母の姿をはっきり覚えていないのです。

12ページには髪と目だけが白抜きで、肌も顔も黒く塗られたママの姿が描かれています。
これが青年の心の中に浮かぶ、母の姿なのです。

肌が、鼻の形や口元がどうだったか、どんな頬をしていたか覚えていない…ということをこのような形で絵で表現することができるのか…!と衝撃を受けたコマでした。
『なにが どのようだったか』を絵で示すだけじゃなくて『なにが どう失われていたか』を絵で表すこともできるんだな…!「絵で表現する」とはまさにこういうことなんだ…!漫画ってこういうこともできるんだ…!…と感激しました。

この冒頭の彼の語りをふんふん聞いているうちは、顔もよく覚えていない母を慕って会いに行くんだなーと、まあ「母」だから当然会いたいんだろうな、となんとなく勝手に納得し読んでいました。

しかし途中、「抱きたいのはプラチナブロンドの女だけだ」という言葉が語られ、おや?と思います。

きっと記憶の中の母が美しいから、母のように美しい女性という意味でプラチナブロンドの女性を理想として追い求めているんだろうな。。とまたなんとなく納得して続きを読むと、、

なんと、彼は母のいる目的地にたどり着くと、街のお店で娼婦として働いていた母のお客さんとなってしまうのです…!え…!

彼はお金を気前よく払い、母と長い時間一緒に過ごしてたような気がします。

ここでも衝撃の構図の絵がありました。
仰向けになった母の脚の間から上半身に向けてカメラを映すような構図のコマです。
そして母の下腹、ちょうど子宮のあたりが黒く丸く描かれ、その子宮の室内のなかに息子である彼が小さく入り込んでいる…という絵でした。
これは女性の身体を持つ表現者だからこそこういう視点の絵を生みだせたんじゃないかな…と思います。
性的・美的なデフォルメも感じられない、なまなましい生きた身体という感じがしました。

母と性行為をしたことで自分が生まれ出た根源へと戻っていく…という感覚を一枚の絵で表現した圧倒される場面でした。

たしか青年は自分の身分を明かさないまま行為に及び、そのまま母の前から去っていたと思います。
立ち去るときに母への誕生日プレゼントの花を置いていっていたのでそれをみて母が驚く、、というラストだったと思います。

母のいる街までの旅の途中、農家みたいな家のご家族にお世話になるくだりがあったと思うのですが、その家の女の子に馬に乗せてもらうシーンがあります。

そのとき歌ってた歌かな?詩かな?忘れちゃいましたけど、その場面の言葉が素敵だったので引用します。

やせっぽちの
馬に乗って
旅に出た
それは
だれも名まえを
呼んでくれる
ことのない
荒野だったから
自分の名さえ
わすれて
しまった
21ページ

今あらためてこの言葉を読むと、青年は母に、母自身が何者かを思い出させるために旅に出たのかなあとも思います。

名前を呼んでくれる人って生活の中では周りにたくさんいますよね。
名前を名乗れば 職場とか病院の受付とか…名前を読んでくれる関係性って簡単に生じますけど、そういう場合の名前ってたんなる機能性のためであり、記号的なものに過ぎないのではないかなと思います。
でもこの詩の中の名まえとは、その名を持つ者が何者かをきちんと知っていて呼んでくれる人、家族とか、共に暮らす人・生きる人、血縁じゃなくてもそのとき隣にいた隣る人のような存在……が自分の名前を呼んでくれることで、自分という存在を逆に相手からふたたび教えてもらえることをいうのかもしれません。

都市部で人に囲まれて暮らしていても、たった一人で生きていたら自分の名前を忘れてしまうのかもしれません。

この単行本では作品ごとに掲載年と媒体をすべて記載していたので、それも載せておきます。

1971年「女性自身」掲載の作品でした。
「女性自身」にこういう漫画が当時は掲載されていたのか!


「川のむこうの家」

これは10歳前後の少年が主人公のお話。これも外国が舞台でした。
その子は視力が落ちていく病気にかかっているのですが、川の向こうの家で洗濯物を干している女性のことがいつも気にかかっています。
じつはその川の向こうの家とは粗末な娼館なのですが、少年も村の男性がその家に出入りする様子を観察してそのことを感じ取っていきます。

ある日その小屋から出てきた男性と話し、気にかかっている女性の名前はマドレーヌだと教えてもらいます。

一方で少年の目の病気は進行していき、夜にはほとんどものが見えなくなっていきます。

マドレーヌのことを考える少年のモノローグ↓

彼女はどんな足をしているだろうか
いつか絵でみた女みたいに
すらりとのびているだろうか
肌は……やわらかだろうか
もしさわったら………
白磁のようになめらかだろうか……
45ページ

なんか、、最初の「ママに青い花を」で描かれていた感傷もですが、なんとなくイェイツの詩みたいな…情熱と哀愁の恋慕って感じがします。。イェイツ、以前一回詩集読んだだけなんで、雰囲気違ってたら申し訳ないんですけど…。こういう感傷って文学作品でよく扱われているなーと思うのですがその系統のものが即座に思い浮かばないです。

あとやっぱりすごくいいのが、セリフやモノローグが説明的なわけでは全然ないのにその言葉に至った背景をちゃんと想像させてくれるネームの素晴らしさ。。。すっごいセンスのいい外国語映画のシナリオみたいに情緒があります。

たとえば少年が医者の診察を受ける場面があるのですが、このような会話が描かれています。

「明りがどんなふうに見えるかね
夜の明りが」
「たくさんの虹がかかったみたいです
ぼうっとして……きれいです」
48ページ

だんだん視力の低下が深刻になってきた時期の診察なのですが、
少年は、明かりがぼやけてくっきり見えないことを「見えない」とは思っていないんですよね。
虹みたいな、きれいなものが「見えている」って答えているんです。

「住みなれた町だ
目をつむってても歩ける
どこに曲がり角があるか
どこの敷石がはがれているか
すっかり知っている
ぼくはひとりでも歩ける」
49ページ

視力が完全になくなっても大丈夫なように、ゆっくり準備を進めるのです。

たしか少年は視力が残っているうちに川の向こうの家のマドレーヌに会いに行っていました。
まだ見えやすい昼間のうちに。…だったと思います。

明るい時間に近くで見たマドレーヌは、たるんだ目元をしていて、老けていたんですよね。
こういうところにも女性作家が描いたからこそのリアリティがありました。
でもそんなマドレーヌを少年はしずかに見つめていたと思います。

少年の両親は息子の視力がこの先失われることがわかると、学校の先生に息子は何の科目が得意かを聞き、ヴァイオリンを習わせてくれます。
お父さんは「レストランで演奏できるくらいの腕前を身につけられたらいい。それで生きていくことができる」と考えるんですよね。裕福な家庭ではなく労働者階級の家庭なのですが、悲嘆にくれず、できる範囲で息子の選択肢を作っていくところが偉いなあと思いました。「悲嘆する裕福な家庭→家庭崩壊」か、「悲嘆してDVとネグレクトに陥る貧しい家庭→家庭崩壊」のどっちかの展開の話ばかりな気がするので、息子の今後の生業を考えるにあたって息子の得意分野調べてるところもちゃんとしてるなあとそこは安心して読めました。。

「川のむこうの家」は1975年ビックコミック掲載でした。
ビックコミック、幅広いなーと思いました。。


「虹」

こちらがこの作品集の表題作の「虹」なのですが、とんでもない話でしたよ。。
ソドムとゴモラみたいというセリフが作中にもありましたが、そういう神話的な悲劇を題材にしているんだろうなという感じでしたが、ソドムとゴモラは聖書の題材だけど…、いずれにしても自分はあんまり古典がわからないのでもう「虹」は「虹」としてそのまま読みました。

あとレダという女性キャラが登場するのですがレダってギリシャ神話にいたなーとは思いつつも引喩としてどう機能していたのか分かるほど自分に知識がありませんでした。が、レダはけっこう大変な目に遭っていてかわいそうでした…

これも外国が舞台(というか全部そうです)で、お屋敷に住む一族の話。

一族の長男がフリーセックスみたいな嗜好の持ち主でお屋敷に帰省するたびにヒッピーみたいな仲間たちと乱痴気騒ぎをするのですが、お屋敷の当主は品行方正な紳士でありつつもそんな長男にたいしてなぜか黙認を続けるんですよね。
なんかおかしいなこの一族…と思うと、実はその当主にも隠していた秘密があって…という話。
要するに自分も倒錯的な愛情を過去に経験していたから、長男に口出しできなかったのでした。

美貌の青年も登場するのですが、あの人は一族の血縁だったっけ?忘れてしまいました…

レダはこの屋敷の長男の妻なんですけど、、長男があんな感じなので気弱でおとなしく美しいレダは対抗できないんですよね。
そうだ、そして美貌の青年とレダは関係をもってしまうんだった。
レダはレダで業を背負っていて…
っていうかこの「虹」に出てくる人みんな業を背負っていた気がします。。

人間の脆弱さや罪深さを描いているんですけど、その先に救いも希望も別にないし、ただただ倒錯している…という振り切れた話でした。
最終的にみんなお屋敷を出て行ってしまうんですよね… 荒廃した土地を捨て去るかのように…

安易に救済が用意されていてもじゃあ今までの業は何だったんだという感じになってしまうので、ただただ坂を転がり落ちていくような崩落だけ描いている話でも、すごいなあ…これが人間の性なのかなあ…と思えてよかったりはしたんですけど、、
でもなんでこの物語に表現者は行き着いたんだろう…?と思ってしまいます。
そしてなぜ掲載されたのだろう…と。(1973年女性自身掲載)
たとえば70年代のヒッピー文化が自分には感覚的にわからないけど(そもそもその雰囲気をこの物語に引っ張ってきているのかすら判断つかないけど)、当時の従前の規範や常識に対して(当時の)倒錯を選んだ若者たちや大人たちの間では高揚した気分だけでなくこういう虚無感がどこかあったのかなあ…など勝手に拡大解釈をしてしまいます。。

あと、そんなふうに「虹」はおそらく下敷きにしている題材が多くて重層的であるのと、物語の描いているものが感覚的(しっかりした構造をとって進んでいく物語というよりは、フィーリングが描かれている類の物語)であるように思えるので、やっぱり2022年の目でこの作品を見ると一般読者にすんなりとは伝わりづらい作品なんじゃないかな…という印象を自分は受けてしまいます。

だからこそ70年代ってこんなに文化的に豊かだったんだ(いいところも悪いところもあると思いますが)なあと思いました。
「虹」を読んで、このように一読して飲み込めないような作品がふつうに雑誌掲載されていた時代があったんだ、と感じたと同時に、
大衆が「わかる」もの、「味わえる」ものにしかお金って払ってもらえない(出資も購買も)という最近の市場価値の尺度を気がつかないうちに自分も自分の中に持っていたからこそそう感じてしまうんだな、、とも気づきました。

みんなが良いっていうものは結局多くの人が「わかる」ものであって、その「わかり方」とかアイデアのパターンは以前よりもかなり多様になったのかもしれないけど、無目的性とか混沌とかを受け入れていく受け皿は貧しくなっていってるのかもしれないなと思います。
最近だと媒体に作品を発表できなくても自費出版やネットで作品を公開することが容易になっているので、個性が強かったり伝わりにくい作品って個人や同人媒体で発表すればよくなったという背景もここに関わっているとは思います。

そんな考察は大げさかもしれないけど、いろいろと考えるきっかけになりました。

↑ですでに記載しましたが、1973年「女性自身」掲載でした。
自分の知っている「女性自身」じゃないような気がします。


「青燈幻想」

これはSFでした。

これも読み進めていかないと、どういう世界観なのか分からないんですよね…そこがおもしろいんですがね!😆
「虹」といい、読者への信頼が半端ないなあ!と思います。

なんか、王宮で暮らす母と息子の話だったかなあ…
息子って王様だったっけ?薬の調合する人だったっけ?

たしか王様が危篤で、寿命をのばす薬を偉い人たちから依頼されて調合している人がいて、でもその薬を作るのに時間がかかっていて間に合うか分からない…みたいなところから話が始まった気がします。

途中、武勲をたてた優秀そうな将軍が帰国してくるのですが、その人と息子(結局息子がどんなポジションだったか思い出せない)は知り合いなので会話したりするんです。でもお互いに性質が違うのも感じていて…

でも薬の調合の甲斐なく王様は亡くなってしまうんですよね。
そのときに忠実な部下である将軍は、とても悲しむんです。そして驚いたことにそのとき身体が粉々に砕け散って消えてしまうんです。

最後まで読むとなんとなくわかるんですけど、この架空の王国はどうやら『愛する人を失った絶望で心が砕け散って死んでしまう世界』のようなんです。。。

この世界で生きていくには…それは絶望しないこと、なのです。

絶望しないって良いことのようだけど、それっていいのかなあ?とも思わさせられますよね。。
どんなに大切な人を失ってもけっして傷つかないことで自分の命は続いていく…
大切な人を失っても傷つかない心って、それは人間の心として、あるべき形なのだろうか。

作中のセリフです↓

生きてることって
いいわ……
198ページ

傷つかない、絶望しない、を強さとするのは極端だけれども
でも絶望した人がそのまま砕けて消えてしまうようすも、それを見させられるとそれでいいのだろうか、と思わさせられる。
絶望してしまうあまり自分を崩壊させてしまってはいけない、ということも示唆しているんですよね。

でも実際、どんな絶望の淵でも希望の芽ってあってそれは「その時」には見えないものかもしれないけど、いつか双葉がでて花を咲かせるよ…っていう話を作るのは簡単かもしれないけど、
こういうふうに絶望に対しても希望に対しても何とも言えない気持ちになる、「これっていいことなんだろうか」と心に疑問を届けてくれる示唆的な物語になっているのがなんだかすごく大人な漫画だなぁ…と思いました。

あれ?これってもしかして少女漫画じゃないのかな?!
っていうか少女漫画誌に掲載してない作品だし!
まあでもいっか、おもしろかったです!
人物設定、全然思い出せなかったけど……

「青燈幻想」は1979年「マンガ少年」掲載でした。。


水野英子ワールド、、すごかったです…
感想書くのもとても大変だった。。(あんまり推敲していませんが、読んで思ったことを言葉にするまでが大変でした)
「星のたてごと」もあらすじを読むとなんか深い、おもしろそうな話ですよね。こういう物語をもっている作家だったんですね…水野英子は…。


やっと9月に読んだ漫画の感想をぜんぶ書き終わりました!

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