見出し画像

母と兄弟 そして訣別

私にも当然、両親が居る、兄弟も居る。
幼少期には両親、兄弟から虐められていた。
食事はキッチンでは無く玄関先の廊下で1人で食べ、お代わり等 頂ける訳でも無い。
食べ終わった食器は自分で洗って片付ける。
おやつは、兄弟達が食べてるのを見せられる。
何かあると直ぐに竹尺や棒で叩かれた。
真冬に水を掛けられた事もあった。
背中やお腹に今も少しアザとして残ってる。
私が両親、兄弟に向ける感情は
只々、怖い人達であった。
ずっと下を向いて生活してた。

見兼ねたお祖父様が、私を引き取ってくれて
ようやく安全な生活を得て
真っ直ぐ前を向く事が出来た。

小学生を卒業する頃
お祖父様と両親の話合いがあり
また 親元に帰された。
ビクビクしながら
中学生、高校生の途中までは
両親と兄弟と共に生活した。
体罰こそ減ったけど
毎日、無視される日々が続き
高校途中から 家を出て 1人で暮らし始めた。
黙って東京の大学を受け入学出来たので
東京での1人暮らしが、始まった。
アルバイトと勉強で毎日が消費されて行った。
凄く忙しくて 眠る時間を作るのが
大変だったけど
怯えなくて良い毎日が嬉しくて楽しかった。
必死になって貯めた渡航費用を持って
大学を中退して英国に渡った。

今更、なぜこんな話を?
疑問を抱く方も居られるかもしれない。

2023年05月30日、
日本の英国領事館より一本の電話が鳴った。
一人暮らしの母がお風呂で倒れて
病院に運ばれた旨を伝えて来た。
父と兄はとっくに亡くなって
日本には、母と弟しかいない。
弟は関東で結婚し、妻と子供2人と
家庭を持って生活している。
領事館からは、日本に行くかどうかの判断を委ねられたが、即答で断ると理由を聞かれた
が、理由の回答等、出来る訳が無かったので1日待って貰った。

私の中で親に対する何かしらの感情が
残ってる事に気付かされた。
頭を撫でて貰った事や手を繋いだり
抱きしめて貰った事等、一度も無いのに。
ましてや何処かに遊びに連れて行って貰ったり、同じテーブルで食事をした事も無かった。

英国に行く時も何も言わずに日本を出た。
私には もう、お祖父様、お祖母様が亡くなった時点で日本に帰れる家など無くなってた。

領事館との電話を切ってから
書斎を出てピアノを置いてる部屋で
脱力感に襲われ、
ピアノのそばの床に座っていたら
涙が 勝手に
声も出ずに涙だけがどんどん溢れて
服を濡らして行った。
どう言った感情なのか、自分自身でも
わからなかった。

陽ちゃんと執事さんが
私の名を呼びながら屋敷内を
走り回る音が聞こえていたけど
私は、返事も出来ずに座ったまま
ただ涙だけを流していた。
陽ちゃんが私を見つけ、駆け寄り
何も言わずに抱きしめてくれた。
凄く温かくて優しい匂いに包まれ
嬉しくて、嬉しくて、涙がもっと溢れて
止まらなくなった。

少し私が落ち着くと
陽ちゃんが 私に聞いてくれた。
戸惑いながらしどろもどろに話をすると
陽ちゃんも私の為に一緒に泣いてくれた。
その夜は2人で泣いた。

翌日、陽ちゃんが
陽ちゃんの御両親に話をしてくれた。
日本に行くかどうかは
私の意思を尊重する形となり
領事館に
“goodbye to my parents and siblings, so I won't be going to Japan.”
領事館から
「We prioritize your feelings. And we will take responsibility for communicating this.」
お伝えすると返事を頂いた。
少し、ホッとした自分が そこに居た。

とっくに決別したと思っていたのに
自分の行動にびっくりしている。
なんで涙が?、泣いたのか わからなかった。
私の中に何人の私が居るのだろ。

今の私は?
本当にこれが私なんだろうか?

後日、陽ちゃんが 謝って来た。
彼女なりに言うか、言うまいか
凄く悩んだらしい。
私が 居なくなって探している時に執事さんと
もしかして また、ドラッグに手を出して無いよねって話してたらしい。
そんな陽ちゃんに 心配してくれて有難う。
約束したし、全部、廃棄したから大丈夫だよ
って言って にっこり笑って陽ちゃんを見た。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?