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心の病が治ったってどう判断するかわからんって雑感と前の記事の蛇足、あるいは日記。

この記事の蛇足です。日記の様なものです。この記事よりもとても言葉遣いが乱れています。愚痴っぽいのでメンタルが荒れてる方にはあまりお勧めしません。



献血って、肉体が健康で薬を飲みすぎたりしてなければできるものだと思ってた。そういうものじゃないんだなあ。あの医者がいうことには心が健康じゃない人はダメらしい。

どうやって心の健康を判断するんだろうか。体重計みたいに計りがあるのか?どう見てもあの医者、心療内科あるいは精神科の人ではないように見えたけど。診断て言われたって、こっちはADHDも併発してる患者側じゃ、そんなこと言われてもわからんし、生きるのでいっぱいいっぱいなんだから覚えとれんわ。

ASDの二次障害(らしい)中途覚醒と起床困難の睡眠障害に悩まされて、働きたくても条件に会うところが見つけられない。生活ができていないわけじゃないけど生活に不安があるからアルバイトをしたいけど、良さそうだと思って応募したところはダメで、なら安定した仕事をと思い、就労支援の人にハローワークに手続きをしに行きたいから手伝って欲しいとお願いしても、焦らない様にって言われるばかり。自分が社会に対して何もできないことが悔しくて、せめて何か社会貢献できないかと思い、もともと少ない勇気を振り絞って献血ルームに行ったらこのザマだ。

午前中の就労支援のプログラムに遅刻したかと思ったらギリギリでプログラムは受けられて、どこに行っても見つからなかった道具がめっちゃ歩いた先の画材屋で見つけられて手に入って、ご飯が美味しいお店を見つけられて嬉しかったけど、献血失敗(さっきの記事ね)と帰りの駅で小額のお金をせびるお婆さん(寸借詐欺?)に遭遇した(お婆さんには駅員さんのところに相談してと言った)ショックでメンタル的に落ち込んだ。(駅に「構内で金品をせびる行為はおやめください」って書いてあってどんな不良だと思ったけど御老人とは思わなかった。)どん底ではないけど、しょんぼりって感じ。

「人生はプラマイゼロ」を体現した様な1日だった。

社会不適合者が就労支援の帰りに社会貢献しようと思ったのが間違いだったのだろうか。あの医者には治してから来なさいって言われたけど、心の病気は何をもって『治った』と定義するんだろう。大学で取ってた臨床系の心理学の講義で、心の病気は寛解するけど何かのきっかけで再発することは十分にありうる。身体の病気の様に完治することはないって聞いた気がするんだけども。

医者の話と臨床心理の講義内容を統合してざっくり言葉に表すならば、「もう来るな」ってことになるのだろうか?自分の考えすぎなのだろうか?愛想は本当に良くなかったな。医者の腕前は見ようがなかったし。できるだけ普通の人に見えるように頑張ってたのに。リスカとかしてるように思われたとか?消えたいと思ったことはあるけど、消えたところで問題解決はしないし、苦しいらしいし、間違えたらむしろお金かかるからやらない。リスカなんて何でそんな痛い思いをわざわざしてると思われたかわからんし、献血のための外傷確認だとしても普通腕まくりくらいはさせて確認するよな。じゃあやっぱり自分が普通に見えなかったってことなんだろうか。初めて来た施設を見回しちゃうのって普通じゃないのか。普通の人ってどんなんだっけ。普通の人になれる講座って一定の需要がありそうだよな。普通の人みたいな一定の収入のある人間になりたいな。就活がんばったのにうまくいかなかったのは何で何だろう。そんなようなことを取り止めもなく考えていると息苦しくなってくる。

生きるのって、本当に難しいなあ。



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