恩返しができなくても大丈夫【音声と文章】
山田ゆり
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今回は、恩返しができなくても大丈夫
ということをお伝えいたします。
6分27秒の音声です。
音声と文章どちらでもお好きな方をどうぞ。
**文章はここからです***
おはようございます。山田ゆりです。
今回は、恩返しができなくても大丈夫
ということをお伝えいたします。
私には2歳違いの弟がいました。
28歳の時、3か月間の闘病の末に
逝ってしまったのは、これまでの音声で
何度も申し上げて参りましたので
皆さんはご存知だと思います。
臨終を医師から告げられた時
すぐに「検体」の話が医師からありました。
検体という言葉は何となく知っていたが
いざ、当事者になると混乱してすぐに答えを出すことができませんでした。
すぐそばに尊敬できる親戚の方がいらっしゃったのでどうしたら良いかと尋ねました。
その男性は親戚のまとめ役の方で
いつも的確な判断をされる、私が尊敬をしている方です。
これから弟さんと同じ病気になられた患者さんの一助になって欲しい、だから、
弟さんの体を若い医師の方々の勉強の題材として提供してもいいと思ったら検体すればいい。
でも、これは、強制するものではないし
検体しなかったからと言って
非人情だということは全く無いんだよ。
検体はしてもしなくても、どちらでもいい。
どちらを選んでも正解だから。
このような内容の話をされました。
どちらかをはっきり言ってくだされば
決断しやすいのですが、しかし、やはりこれは私たち家族の問題です。
決めるのは他人ではなく私たち。
しかも、今、決めなければいけない。
両親は一足先に家に帰っていました。
弟の体にメスを入れる。
目の前で、弟に電気ショックを与えて
それでも蘇生せず、心電図の波が真っ直ぐになったのを私は見ました。
しかし、私は臨終を告げられたが、
「もしかして、まだ生きているのではないか」
どうしてもその思いはぬぐいされませんでした。
本当は生きているのに、無残にも体にメスを入れられる。そんなかわいそうな事はできない。
しかし。
もしも、弟の躰を医療に提供したら
今後、弟と同じ病気になられた方々のためになるかもしれない。
すぐは無理でも、もしかしたら10年後、20年後には、弟の病気は不治の病と言われなくなるかもしれない。
その一助になったら弟は喜ぶのではないか。
わずか数分の間に、たくさんの思いが頭の中でグルグル回っていた。
そして、私は検体を選んだ。
すぐに弟は別室に運ばれた。
どの位待ったか覚えていない。
弟が戻ってきた。
どんな姿になっているのだろう。
私は弟の姿をまともに見れるだろうか。
ミミズを見ただけで騒ぐ私だ。
首に掛けていたタオルを両手でギュッと握りながら、
タオルが自分の心だと思いながら
弟の顔を見た。
なんて綺麗な顔なんだろう。
臨終前の、ハアハアと苦しんでいた時の弟の顔は、薬の副作用で腫れあがっていた。
しかし、今、目の前に横たわっている弟は、
あの元気なころの顔と同じで
鼻筋がすっとして、頬っぺたはスッとしていて、いつもの弟だった。
顔は全く弟そのものだった。
涙が溢れ出た。
弟への懺悔なのか、
きれいな顔で戻って来て良かったという安堵なのか。
医師によると、内蔵だけ摘出したとのことでした。
あれから30年位の月日が経ち
弟と同じ病名で亡くなる方は
残念ながら続いています。
医療技術は進歩していると信じたい。
弟のからだを提供することで
病気の解明などにはすぐにはお役に立てなかったと思います。
では、弟の検体は無駄だったのでしょうか。
ずっと心の奥底にこの疑問が残っていました。
違います。
その時の医師たちにはすぐにお役に立てなかったかもしれませんが、
その医師たちは別の誰かからの協力により
きっと助けられている、助けられるようになっている。
Chicacoさんのnote に巡り会い
この考えを知りました。
Chicacoさん、ありがとう。
30年近くの苦悩から解放されました。
これは私たちの生活の中でも同じことが言えます。
お世話になった方に直接恩返しができなくても、
その方は、別の誰かに助けられるようになっている。
だから、恩返しができなかったと悔やむことはない。
今回は、恩返しができなくても大丈夫
ということをお伝えいたしました。
本日も最後までお聴きくださり
ありがとうございました。
ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日にしましょう。
山田ゆりでした。
ということをお伝えいたします。
6分27秒の音声です。
音声と文章どちらでもお好きな方をどうぞ。
**文章はここからです***
おはようございます。山田ゆりです。
今回は、恩返しができなくても大丈夫
ということをお伝えいたします。
私には2歳違いの弟がいました。
28歳の時、3か月間の闘病の末に
逝ってしまったのは、これまでの音声で
何度も申し上げて参りましたので
皆さんはご存知だと思います。
臨終を医師から告げられた時
すぐに「検体」の話が医師からありました。
検体という言葉は何となく知っていたが
いざ、当事者になると混乱してすぐに答えを出すことができませんでした。
すぐそばに尊敬できる親戚の方がいらっしゃったのでどうしたら良いかと尋ねました。
その男性は親戚のまとめ役の方で
いつも的確な判断をされる、私が尊敬をしている方です。
これから弟さんと同じ病気になられた患者さんの一助になって欲しい、だから、
弟さんの体を若い医師の方々の勉強の題材として提供してもいいと思ったら検体すればいい。
でも、これは、強制するものではないし
検体しなかったからと言って
非人情だということは全く無いんだよ。
検体はしてもしなくても、どちらでもいい。
どちらを選んでも正解だから。
このような内容の話をされました。
どちらかをはっきり言ってくだされば
決断しやすいのですが、しかし、やはりこれは私たち家族の問題です。
決めるのは他人ではなく私たち。
しかも、今、決めなければいけない。
両親は一足先に家に帰っていました。
弟の体にメスを入れる。
目の前で、弟に電気ショックを与えて
それでも蘇生せず、心電図の波が真っ直ぐになったのを私は見ました。
しかし、私は臨終を告げられたが、
「もしかして、まだ生きているのではないか」
どうしてもその思いはぬぐいされませんでした。
本当は生きているのに、無残にも体にメスを入れられる。そんなかわいそうな事はできない。
しかし。
もしも、弟の躰を医療に提供したら
今後、弟と同じ病気になられた方々のためになるかもしれない。
すぐは無理でも、もしかしたら10年後、20年後には、弟の病気は不治の病と言われなくなるかもしれない。
その一助になったら弟は喜ぶのではないか。
わずか数分の間に、たくさんの思いが頭の中でグルグル回っていた。
そして、私は検体を選んだ。
すぐに弟は別室に運ばれた。
どの位待ったか覚えていない。
弟が戻ってきた。
どんな姿になっているのだろう。
私は弟の姿をまともに見れるだろうか。
ミミズを見ただけで騒ぐ私だ。
首に掛けていたタオルを両手でギュッと握りながら、
タオルが自分の心だと思いながら
弟の顔を見た。
なんて綺麗な顔なんだろう。
臨終前の、ハアハアと苦しんでいた時の弟の顔は、薬の副作用で腫れあがっていた。
しかし、今、目の前に横たわっている弟は、
あの元気なころの顔と同じで
鼻筋がすっとして、頬っぺたはスッとしていて、いつもの弟だった。
顔は全く弟そのものだった。
涙が溢れ出た。
弟への懺悔なのか、
きれいな顔で戻って来て良かったという安堵なのか。
医師によると、内蔵だけ摘出したとのことでした。
あれから30年位の月日が経ち
弟と同じ病名で亡くなる方は
残念ながら続いています。
医療技術は進歩していると信じたい。
弟のからだを提供することで
病気の解明などにはすぐにはお役に立てなかったと思います。
では、弟の検体は無駄だったのでしょうか。
ずっと心の奥底にこの疑問が残っていました。
違います。
その時の医師たちにはすぐにお役に立てなかったかもしれませんが、
その医師たちは別の誰かからの協力により
きっと助けられている、助けられるようになっている。
Chicacoさんのnote に巡り会い
この考えを知りました。
Chicacoさん、ありがとう。
30年近くの苦悩から解放されました。
これは私たちの生活の中でも同じことが言えます。
お世話になった方に直接恩返しができなくても、
その方は、別の誰かに助けられるようになっている。
だから、恩返しができなかったと悔やむことはない。
今回は、恩返しができなくても大丈夫
ということをお伝えいたしました。
本日も最後までお聴きくださり
ありがとうございました。
ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日にしましょう。
山田ゆりでした。
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