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夢や希望がなくても【音声と文章】

山田ゆり
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今回は、夢や希望がなくても
ということをお伝えいたします。
9分34秒の音声です。
音声と文章どちらでもお好きな方をどうぞ。

**文章はここからです***

おはようございます。山田ゆりです。
今回は、夢や希望がなくても
ということをお伝えいたします。

幼い子どもの何気ない言葉って
面白いですね。

保育園児の娘が
「お母さんって、
大きくなったら何になりたいの?」

って聞かれた事を思い出します。
きっと、あなたも同じことを
お子様から質問されたことがあると思います。

幼い頃は時間の感覚が分かりませんので
お母さんもこれからまだ
大きくなるのだと
幼い娘は思っていたのでしょう。


昔、私は何になりたかったのか。


昔住んでいた借家のお隣には
親戚のお宅がありました。

そしてそのお宅には
私より15歳年上の女性がいらっしゃいました。

当時、その方は日本電信電話公社で
電話交換手をされていました。

当時、日本電信電話公社に勤めている人は
公務員なので、高給取りで休みもたくさんというイメージでした。

品があってお料理が上手で
私にとって憧れのお姉さんでした。


当時の事をちょっと振り返ってみましょう。

「日本専売公社」
「日本国有鉄道」
「日本電信電話公社」の三社を「三公社」と呼んでいました。

高度経済成長期は、
三公社も日本経済の発展に大きく寄与して参りましたが
高度経済成長の終焉と相なって

肥大化した公企業の簡素化が社会的に求められ
中曽根康弘内閣の時に三公社は民営化しました。

1985年に
「日本専売公社」は
「日本たばこ産業㈱(JT)」へ。

「日本電信電話公社」は
「日本電信電話㈱(NTT)」へ。

そして、1987年に「日本国有鉄道」は

「北海道旅客鉄道㈱(JR北海道)」
「東日本旅客鉄道㈱(JR東日本)」
「東海旅客鉄道㈱(JR東海)」
「西日本旅客鉄道㈱(JR西日本)」
「四国旅客鉄道㈱(JR四国)」
「九州旅客鉄道㈱(JR九州)」
「日本貨物鉄道㈱(JR貨物)」

に分割民営化されました。

当時、「増税なき財政再建」
という言葉を多く聞いた覚えがあります。


お隣のお姉さんの話に戻しましょう。

お婿さんも公務員で数人のお子様を授かり
絵にかいたような裕福な家庭でした。

それに比べて借家暮らしの我が家は
尋常小学校しか出ていない無学な両親が
共働きをしながらなんとか毎日を過ごしていました。

田植えと稲刈りの時期だけ帰ってきて
その他の期間は、県外へ出稼ぎに行っている父。

その留守を預かる母は、
わずかな田畑をやりながら
パート勤めをしていました。

中華料理店で洗い場担当や
デパートの清掃員
生産工場での工員など

いつも忙しそうでした。


そんな母は、
そのお姉さんと同じ高校へ入って
そして日本電信電話公社へ入りなさいと

私にいつも言っていました。


無学であることは不利であること
いい学校に入って
いいところに勤めれば幸せになれる

私は母からいつも聞かされていました。

中学の時私は、
遊ぶ友達がおりませんでしたので
仕方なくがり勉をしていました。


やがて私は学年で上位10名の中に
いつもいるようになり、
高校は地域で一番の学校に余裕で入れると

先生に太鼓判を押されるようになりました。


しかし、母が勧めるのは
それよりワンランク下の学校でした。

その学校に入って、電話交換手になる、
私にはその道しか見えていませんでした。

母が望む方向に進むのが
子どもとしての義務のように感じていました。

今思うと、自分でもっと考えて決めればよかったのですが
当時は、母の希望通りにすることに
何も疑問を抱いておりませんでした。


そして、私は無事に志望校に入学しました。
これで、あとは、日本電信電話公社に入ればいいだけです。


しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。

中学の時は確かにトップクラスでしたが、
高校は、同じような学力の人の集まりです。

そして、勉強の進み具合が中学とは比較できないほど早い。


さらに、
別の音声でもお話いたしましたが、
私は高校時代、

立っていられないほど
お腹が痛くなることが
毎月のようにありました。

学校には這ってでも行っていましたが
3時間目頃から放課後まで
保健室で寝ている、そんな生徒でした。

私は3年間、保健委員をし、
しかも3年生の時は保健委員長でした。

一番保健室を利用していたのは、実は
保健委員長だったと思います。


ここまで話を聞いたあなたは
もうお分かりだと思います。

授業を休んで保健室で寝てばかりの私は
あんなに大好きだった数学でさえ
ついていくのがやっとになりました。

そして、公務員になるには学力的に無理だと気付き
電話交換手になることを簡単に諦めてしまいました。

卒業後の夢もない状態になって初めて、
自分は何をしたいのかと
自問自答の毎日でした。

しかし、その答えをみつけられないうちに
3年生になってしまいました。
何になりたいか分からない。

でも、就職しなければいけない。


私は、とりあえず、
一番早く就職試験を行う会社の
試験を受けてみよう

落ちたらその後、また考えよう。
そのような、安易な考えで
初めての就職試験を受けました。

今振り返ると、
かなりテキトウだったと思います。


しかし、お試しで受けた就職試験に
合格してしまい、卒業後、
私はその会社に11年間勤めました。


特にその会社に入りたいと
思っていたわけではありませんでしたが

入ってみると先輩・同僚は
私を肯定して下さる人ばかりでした。

私は水を得た魚のように
好きな様に泳ぐことができました。



夢がない
やりたい事がない
と悩んでいましたが

とりあえず
目の前の事をやっていたら
楽しい毎日を送っていました。



夢や希望は先に決めなくても
とりあえずやってみると
案外見つかるものかもしれません。


本日は、夢や希望がなくても
ということをお伝えいたしました。

本日も最後までお聴きくださり
ありがとうございました。

ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日にしましょう。

山田ゆりでした。

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