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THE BOOM特設サイト「ブラジル・ツアー日記」担当者に1996年のインターネット事情を訊いてみた!

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1995年にTHE BOOMのホームページを開設し、その後、2006年まで運営・管理に関わっていたのが河原崎禎紀さん。1996年のTHE BOOMブラジル・ツアーを「中継」する『ブラジル・ツアー日記』も当時の音楽シーンでは画期的な試みでした。あれから24年後の2020年5月、そのときの苦労話をインタビューしてみました。


———1996年5月のTHE BOOMブラジルツアー。インターネットで毎日、地球の裏側から日記を送信し、それをホームページにアップしていくという企画は当時かなり画期的だったと思うのですが、ホームページ担当者として東京でどんな準備をしていたのでしょうか?


河原崎 1996年はインターネットというもの自体、黎明期でした。
改めて96年を調べたら
「日本におけるインターネットの人口普及率 3.3%」
「「Yahoo! JAPAN」日本語版がサービスを開始」
ブラウザはNetscape Navigatorが主流でInternet Explorerが猛追という時代です。
またネット自体も「オタクの遊び」、「普及するわけない」と言われていたのを覚えてます。そんな時ですから、閲覧するだけでも敷居が高いうえにこちらから発信となると前例も殆ど無く手探りでした。それは技術的な部分だけではなく、著作権的にも全くフォローされていなかったので、最も安全なソニーレコードのサーバーにデータを置くという方法を採っていました。
また、容量のあるデータの送信はネットでは厳しかったので、MOという記憶媒体にデータを収めてソニーまで持参していました。
という状況の中でリアルタイムにブラジルから中継というのはなかなか困難でした。
もちろん、金があれば、それほど、困難ではなかったと思いますが、予算があるわけでもなく(そもそも日本のバンドが海外でライブを行うこと自体が珍しかった)、草の根的に色々、模索して、ブラジルで手伝ってくれるTHE BOOMファンとコンタクトに成功。彼、トニーが用意してくれたブラジル国内で使用できるアカウントを借りて、ライブ終了後、写真、映像、テキストを用意し、ホテルからダイアルアップで接続〜メールでデータを送信、という流れでした。こう書くと簡単そうですが、ホテルからダイアルアップで繋ぐこと自体、全てポルトガル語環境の中で、相当な労力が必要だったはずです。

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———最初の日記を受信したとき、東京側の状況はどうでした?

河原崎 日本側とブラジル組で時間を決めて、東京でもスタンバイ。皆で固唾を吞みながら、待機していました。最初のメールが来て、いきなりライブの映像が送られてきたときは歓声が上がりました。今考えると数秒で、低画質でしたが、歓声が聞こえてきたときは、バンドのブラジル・ツアーに懸ける想いやスタッフの労力など、それまでの道程を考えると、なんとも形容しがたい感動的なものでした。それをすぐサーバーにアップ、記憶が曖昧ですが、多分、この部分に関しては独自のサーバーを用意して、アップしたと思います。

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———ブラジルから日記を書いて送信する側としてもWi-fiもない時代、LANが完備されたホテルなどなかったので、ホテルの部屋に着くと電話線のチェックが必須でした。ノートパソコンを持っていたのも制作チームのリーダー、藤井くんだけだったので、彼の全部の仕事が終わったあとそれを借りて夜中に日記を書いて送信。河原崎さんから日本のファンの反応をまとめてもらったメールを受信するとうれしくて翌日、メンバーやスタッフにプリントアウトして見せていました。ツアー後半、ミナス州への小旅行のときなどメールすら送れずに手書きの日記をファクスして、それを河原崎さんが打ち直してアップしてたんですよね? いまはSNSでどの国のツアーでも瞬時にテキスト、画像、映像を発信できます。四半世紀で変わりましたね。

河原崎 ツアー日記として随時、送られてくるデータ類は旅愁をくすぐる感じもありました。特にミナスに惹かれたのを覚えてます。
また、海外でライブを行うということの、貴重なケーススタディという面もあったと思います。

———1996年のブラジル・ツアーを最初にその後、THE BOOM、宮沢和史の活動はさらに多くの海外であったり、多岐に渡っていきました。インターネット担当者として、またアナログ盤を発売したときは担当としてリミックスのコーディネイトや流通に関わったり、すぐ側で見ていてどのような感想を持っていますか? 特に印象的な出来事は?

河原崎 その後、MIYAZAWAとして、よりディープな作品をリリースし、その楽曲をリミックス〜アナログでリリースしましたが、ダンスミュージックを扱うお店など、今までとは異なる方面に持って行けたのは良かったです。また、その音源がクラブのフロアで実際に流れたのに立ち会った時は感動しました。
『AFROSICK』のリミックスは結構、評判がよく、Mr.Bongoなどを通して、海外でも発売されました。実際、会社の他の作品も含め、米国マイアミで行われたMIDEMという音楽見本市に参加しましたが、言葉の壁は厚く、やはりインストで万人がのれるリミックス作品が最も興味を持ってもらえました。中でもスペインのエレクトロニカ系のレーベルのスタッフが熱心で色々、話しました。

現在はネットのおかげで海外へのアプローチは特別のものではなくなりましたが、そのプロセスとして、1996年にこんなことが行われており、それに関われたのはいい経験になりました。


[おまけ]河原崎さんによるロックフェスの貴重なテキスト・アーカイヴ。



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