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THE BOOM ブラジルツアー 1996

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1996-05-09 サルヴァドール

ブラジルは遠い。苦行のような30時間がようやく過ぎ、飛行機はサルヴァドール空港に到着した。無事に、ではもちろんない。だれもが言うことだが(その後も何度も聞かされた)、トラブルなしなんてブラジルではありえない。僕らの場合は「楽器」が問題だった。成田空港で僕らの便と一緒に積まれた楽器が、乗り換えのサンパウロ空港で税関を通らなかったのだ。楽器がなくてはライヴができないが、空港で待つガッツは残っていなかった。目的地サルヴァドールまで、あとわずか数時間のフライト。僕らはスタッフをひとり残し、予定通りの便でサルヴァドールにたどり着いた。よれよれだけど、胸はってブラジルの大地を踏みしめた。そして楽器は、次の便でも届かなかった。

空港からホテルまで、目に映る風景はワイルドだった。ろくに舗装されてない道をバスは往く。上半身裸の男達が歩いている。建築を途中で放棄したんだか、崩壊寸前なんだか、とにかくまともじゃない建物が多い。この街でライヴができるのだろうか? それでも壁に貼ってあるポスターに「THE BOOM」の文字を発見したときは正直ホッとした。間違った場所に到着したような気分になってたからだ(しかも楽器なしで)。

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東京から地球の裏側ブラジルのバイーア州サルヴァドールまで飛んで、着いた夜にライヴ。「フェスティン・バイーア」というイベントの前夜祭だ。時差ぼけになるヒマもない。リハーサルの予定は、楽器が届かないので1時間刻みにずれていく。夕方5時には、リハーサル中止、出演順を変えてもらい、真夜中12時にスタートということに決定した(楽器は夜9時に到着した)。MIYAは空いた時間を利用して、ブラジルの新聞と雑誌の取材を受けている。インタビュアーのポルトガル語をMIYAの友人であるエイトールさん(リオ在住の音楽コーディネーター)が英語に訳し、MIYAが英語で答える。ブラジルにひかれたきっかけ(高校生の頃ボサノヴァを聴いて)、バイーアのミュージシャンで好きな人は(チンバラーダ、カエターノ・ヴェローゾ……)、バイーア音楽の特徴は(強靱な胃袋を持っていて、どんな音楽でも飲み込んでしまう)などなど。

「日本の産業と同じように、あなたたちの音楽も他の国からアイデアを盗み、それを自分で発展させ、輸出するだけではないか」という質問に対しての、MIYAの切り返しが鋭かった。なんと答えたかは、13日にリオで発売される新聞を注目してください。

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コンサート会場は下町の中心、ペロウリーニョ広場。路地の奥からズンズンと響いてくる音をたよりに会場を探し出した。無料コンサートということで、地元の人たちが多く集まっている。バイーアの人気パーカッション軍団オロドゥンが強力なリズムを叩きだし、2番手のラッソがレゲエのリズムで会場を揺らす。バイーアはレゲエが盛んなのだ。レゲエとサンバが融合したような“サンバヘギ”と呼ばれる音楽(強靱な胃袋!)が流行っている。THE BOOMの「Call my name」はこの“サンバヘギ”のリズムだ。

会場はすごくピースな雰囲気。バイーア式の握手とやらを繰り返しているうちに、友だちがどんどんできる。THE BOOMの登場時間は午前1時半。記念すべき南米一発目は「子供らに花束を」だった。孝至くんのギターに注目が集まる。というより僕もひきつけられているんだ。なんだろう、この興奮は。2曲目「HUMAN RUSH」で、MIYAのあおりに反応する観客を目にしたら自然と涙が出てきてしまった。「TOKYO LOVE」では歓声があがった。歌詞を「サルヴァドールの夜にも」としてくれたらもっとよかったのに。次の曲では三線がステージにあげられた。「島唄」が海を越えたのだ。

たった30分間のあっという間のライヴは、MIYAのポルトガル語による感謝の言葉で締めくくられた。もっともっと聴いていたい。観客だってこんなに興奮しているのに。

「あいつらは何者だ?」「なんであれだけで終わったんだ?」僕は次々に答えた。「これが日本のバンド、THE BOOMだ。アマニャン(明日)また来てくれよ」。

 明日はまたサルヴァドールでライヴなのだ。


★追記(帰国後の付け加え)

ブラジルからインターネットでデータを送るのはもちろん今回が初めてのこと。僕とツアー制作スタッフの藤井くんは、出発直前に事務所のインターネットスタッフ河原崎さんから数時間の講習を受けた。ブラジルに持参したのは藤井くんのPower Book 5300cs。日記と、デジカメ(CASIO QV-10)で撮った写真データ、DATで録ったサウンド・データを、日本で待ち受けている河原崎さんのパソコンにインターネットを通して毎日送る。河原崎さんがホームページ用にデータを書き換えて、THE BOOMのホームページに掲載する、という仕組みだ。これでインターネットの利用者なら世界中どこに住んでいようと、ツアーのレポートを毎日得られる。すごい! だがこの論理的には何の問題もない企画も、ブラジルの電話状態など未知な部分が多く、会報などでの告知が事前にできなかった。そんな不安要素ばかりだったからこそ、初めてのレポートが届いたこの日、日本側の感激も大きかったらしい。ブラジルから日本への一方通行だけではない。日本からのスタッフはもちろん、ファンからの感想もすぐに、これまたインターネットを通じてブラジルへ届けられた。例えばこんな応援メールが翌日届いていた。

「日本でメールを受け取って、たった一枚の写真なのに、どんなライヴだったか、わかったような気がしました。涙でました。レポートを読んで、あの写真を見て、私もなんだかブラジルに一緒にいるような気がしました。ぜんぜん離れている気がしない。本当に大変だったと思いますが、日本でメールを受け取れた時の感動をみんなに伝えたい! 日本でいまかいまかとマックの前で(マクドじゃないよ)待っているので、がんばってください! あ、それからMIYAさんのインタビューの答えが早く知りたいよ~」(日本の事務所スタッフ・N)

「THE BOOMの皆さん、こんにちは! 私は今、皆さんの立っている大地のずっと下にいるのです。本当ならこの私の足元の土を掘っていってでもブラジルに行きたい~! しかし、それは無理なのでせめて私のパワーを送ります。ありったけのパワーです。どうぞ皆さんで有効に使ってください。そしてTHE BOOMの皆さんがブラジルから持ってかえったものをまた私たちに分けてください」(Kirikaさん)

1996-05-10 サルヴァドール

日本からの応援メールを読んでこちらも感動しました。プリントアウトして読んでいます。ここで、この日記の筆者である「僕」の説明をしましょう。ブラジル・ツアーに僕は写真集の編集者として同行しています。THE BOOMにとって大きな夢であるブラジル・ツアー。これを記録して、ここまで来ることができなかったファンのみんなにも僕らの旅を共有してほしい、そんな思いで作っています。写真はラスタマンの仁礼博、テキストは長谷川博一。7月後半には発売になるのでお楽しみに。

今日の仕事はその写真集用の撮影。YAMAさんと栃木さんをガイドのルイスさんが運転する車に乗せて、下町にあるメルカド(市場)に向かった。車を降りると同時に、物売りが寄ってくる。やれ、ミサンガを買えだの、ネックレスを買えだの、カセットテープを買えだの、まあ世界中どこの観光地に行っても同じことだ。YAMAさんはTシャツ(ちゃんと胸に「サルヴァドール」と書いてある)や民芸品にはまって大量に買い込んでいる。インターネット読者にも何かおみやげがあるかもね。

昼食を終えると、突然雨が降り出した。道路のくぼみにすぐ雨がたまり、ホテルに戻るために僕らが乗った車は、前の車が飛ばす水をフロントガラスいっぱいに受け止めながら走る。なんて書くと、読者はここを南米の田舎町と思うだろうけど、サルヴァドールは二百万人の人口を抱える都市。16世紀から17世紀にかけてのポルトガルの植民地時代はブラジルの首都だった町だ。文化的にも、アフリカから連れられてきた黒人(砂糖産業に従事させられていた)が独自の文化を作り出している。サルヴァドールがあるバイーア州は、ブラジルの中でも他と違う「国」と言われているらしい(この時点では他のブラジルの地を知らないので比較できない)。とにかく魅力溢れる街だ。喧伝されていた恐ろしさよりも親しみやすさの方がずっと強い。

夕方、写真集チームだけで出かけたボンフィン教会は、ホテルから車で1時間ほど離れた、街を見下ろす丘の上にある。カトリックと現地宗教カンドンブレが同居した奇妙な教会で、ミサンガ(リボン)発祥の地でもある。願をかけて手首に結んだら、自然に切れるまではずしちゃいけない。自然に切れたときにその願いはかなう、というものだ。この教会の特徴はまだある。マネキンの手足だけが吊された特別室(何と呼ぶか知らないけど)の存在だ。手足だけじゃない、臓器や頭部をかたどったプラスチックの模型も吊されている。写真も壁一面に貼られている。祈りたい場所を(例えば足の病気を治してほしいのであれば足の模型を)吊したりして神にお願いするらしい。ルイスさんの説明によると、ただの観光客も写真を貼っていってるらしいけどね(優勝祈願のサッカー選手や、またふたりで訪れたいという恋人同士とか)。

教会からの帰り道は海沿いのコースを選んだ。あまりの夕日の美しさに車を停める。コロニアル風の古い建物が並び、中からボレロを練習する女性の声が聞こえてきた。岬の先端には小さなテーブルが並べられたオープン・カフェがあり、若いカップルは堤防の上でくっついたままの姿勢でじっと動かない。明日はここにMIYAを誘ってみよう。

今夜の会場は僕らのホテルに隣接する特設会場。特にトラブルもなく(スタッフに後で聞くと、この日もやまほど問題があったそうだ)予定より1時間遅れの午後8時に開演した。観客は有料ということで、正直なところ予想より少ない(始まるといつの間にか増えたけど)。

ライヴはバイーアのリズムから始まる「手紙」でスタートした。日本でもライヴで披露していない曲だ。「HUMAN RUSH」「TOKYO LOVE」とパーカッシヴなナンバーが続く。そして次の曲が、まさにバイーア・サウンドである「Call my name」だった。日本より早い新曲の披露! 両手で膝を叩き、踊り、モーガンのラップに合わせて叫ぶ、“CALL MY NAME!”。

「風になりたい」の前半はポルトガル語。観客の顔にも驚きと好奇の表情が浮かぶ。「砂の岬」の前には、ブラジルでいちばん好きな曲です、というMIYAによる紹介があった。

「いいあんべえ」「子供らに花束を」と続く。僕は踊るだけ。最後の曲は「島唄」。ブラジルまで観に来た日本のファンがカチャーシーで踊る(僕の大好きな美しい光景)。

「オブリガード!(ありがとう)」、とMIYAと孝至くんが叫び、メンバーがステージから去っていった後も、アンコールを求める声が5分間も続いていた(残念ながらアンコールは実現しなかったけど)。

会場のすぐ近くは海。会場の隣りで芝の上に寝転がり、星空を眺めながら飲んだビールがどんなにうまかったことか!


★追記(帰国後の付け加え)

写真集は、ブラジル・ツアーのドキュメントだ。ライヴはもちろん、メンバーの移動や自由時間も撮影したい。もちろんそれだけではない。なぜTHE BOOMがブラジルにひかれるのか、街の風景や人々の表情から、その答えを映し出したい。しかしだね、僕ら写真集チームにはブラジル渡航経験がなかった。もちろん事前に勉強はしていたけど、その最中にさんざん怖い話を聞かされた。要約すれば、治安が悪い、ということだ。撮影にはボディーガードが必要だと忠告された。そんなわけで僕らはサルヴァドールで一人、ガードを雇った。パウロという名のいかつい黒人だ。ところが彼は初日の途中で姿を消してしまったのだ。実際にサルヴァドールを歩けば、そんな怖いところじゃないってすぐわかったから、どうでもよかったんだけど。


1996-05-11 サルヴァドール

サルヴァドール。晴れ。と、日記風な始まりです。今日はライヴもなく、メンバー、スタッフは自由行動日。僕らは仕事だ。写真集チームは午前11時に集合。初日にライヴを行なったペロウリーニョ広場近くに車三台に分乗して移動。撮影しながらの蛇行。あ~あ、楽器屋にはまったきり出てこないんだ。待ちぼうけのルイスさんに「彼らはミュージシャンだから仕方ないよね」と言い訳すると、「ここバイーアではみんながミュージシャン。楽器に興味があるのはあたりまえだよ」と笑われてしまった。YAMAさんはTシャツをまたまた買い込んでいた! インターネット読者へのプレゼント決定! 応募待ってます。

撮影の途中で、昼食をとった。バイーア特有の魚料理を注文。食べてる最中に今日はなんとYAMAさんの誕生日であることが判明した(YAMAさんが自分で言ったんだけど)。みんなで「おめでとう」と乾杯。

夕方はMIYAとボンフィン教会へ。ちょうどミサの時間で、讃美歌を聴くことができた。丘の上に建つこの教会は参列者に緊張を強いることなく、聖なる気持ちにさせる不思議な魅力がある。あったかく、懐かしく、このままずっとここにいたい、という気分になる。

教会から車で10分ほど離れた、昨日発見した夕日が見える岬へ。観光客ではなく、地元の恋人同士が集まる場所らしい。街灯もなく(小さな灯台はある)、まわりは最小限のあかりを灯したカフェだけ。星空の下に木製の丸テーブルと、椅子が並んでいる。潮風が吹いている。

ビールを注文したMIYAの隣のテーブルでは、ギターを手にした青年が、サンバやボサノヴァを弾いていた。青年がMIYAに話しかけ、音楽による会話が始まった。彼がコードを示す。MIYAがひとことふたこと何か言葉を返す。MIYAにギターが手渡された。

ボサノヴァ。

落ちゆく夕日の中、空に流れるMIYAの歌声は本当に夢のようだった。僕の文章なんかじゃ絶対伝えられない、聖なる時間がここにあった。

少しして、古びたフォルクスワーゲンがやってきて、僕らから数メートルの距離で停車した。夕日を眺めているのだろう。カーステレオからは、ボブ・マーリィの曲が流れている。今日は彼の命日で、ラジオは特別番組をずっと放送している。ウェイティング・イン・ヴェイン、ゲットアップ・スタンダップ……。僕らはビールを飲みながら、ラジオにあわせてずっと彼の歌を口ずさんでいた。


★追記(帰国後の付け加え)

ブラジルでは「母の日」はビッグ・イベントなのだそうだ。ショッピングセンターの前にはプレゼントを買うためなのか車の列が駐車場が空くのを待っていた。この夜テレビに出演する予定だったTHE BOOMも、母の日特番のおかげでキャンセルになってしまった。でもまあ母の日じゃあ文句は言えないや。

日記に書いたYAMAさんのTシャツ・プレゼントには、インターネットを通じて何通かの応募があった。気軽に募集したことだけど、ブラジルでそういうお気楽な応募メール(「希望サイズはMです」とか)を受け取るというのも不思議なものだ。YAMAさんへの「誕生日おめでとう」メールもたくさん届いた。

実はこの夜はまたまた激動の夜だった。MIYAが翌日のリオデジャネイロ行きの予定を変更、サンパウロに向かうと言い出したのだ。


1996-05-12 リオ・デ・ジャネイロ

神様のいたずらだった。ジョアン・ジルベルトのコンサートがサンパウロで開かれるのを知ったのは、先日のリオからサルヴァドールに向かうの飛行機の中。新聞の広告欄で公演告知を発見した。ちょうど僕らがリオにいる期間のコンサートだ。つまり同じブラジルにいながら僕らはジョアンを観ることができない。奇行で知られるジョアンのこと、コンサートはブラジルでもめったにないし、来日の可能性はまずない。とすれば、何ともやりきれないではないか。特にジョアンを敬愛するMIYAにとっては。

この日、本来のスケジュールでは僕らは正午過ぎの飛行機でサルヴァドールからリオへ移動、夜はブラジル側スタッフとミーティングの予定だった。

「ここで見逃したらずっと熱が出そうなんだ」 熱?

ジョアンへの想いあふれるMIYAは、前夜、ひとりだけスケジュールの変更を決意した。急きょフライト・チケットを予約し(コンサート・チケットは当日券に望みをかけて)、リオではなく、サンパウロに飛んだのだ。憧れのジョアンに対する、この熱意と愛情と実行力! 観ることができるといいのだけど。

ところでこんな変更やトラブル続きのツアー、今日は写真集チームにふりかかったささやかな変更を報告しよう。リオでのガイド役はリオ在住のA氏にお願いしていた。ところが今朝になって、13日夜までA氏がリオを離れていることがわかったのだ。じゃあ僕らのガイドはどうなる? どうする? ここまでくると僕らにも一種あきらめに似た感情が生まれる。トラブルの実がなる木の下で、ちいさな店を開いているようなものだ。強風でトラブルの実が落ちる。熟した実がまた落ちる。通りすがりの誰かが幹を蹴っとばす。それでも僕らは店を開け続ける。屋根もなく傘も持たずに。

僕らがリオの空港に着いたのは午後2時半。ここで大変なことが起こった。今朝から体調を崩していたスタッフのHさんが、リオの空港で動けなくなってしまったのだ。顔色は「悪い」を通りこして青白く変わり、全身の痛みを訴えている。空港内の診療所にHさんを車椅子で連れて行くことになった。医者に症状を説明して、すぐに点滴が始まった。1時間ほどで調子はかなり良くなったけれど、ずいぶん心配した。

先にホテルに着いたメンバーのうち、YAMAさんと栃木さんは、ボサノヴァの名曲「イパネマの娘」が生まれたカフェに行ったようだ。

リオは美しい。ホテルの目の前には絶妙のカーブを見せるコパカバーナ海岸。歩道にはカフェのテーブルが並べられている。ここもまた好きになりそうだ。

ところで現在、午前2時50分。サンパウロでMIYAがジョアンに会えたのかどうか、連絡はまだない。


★追記(帰国後の付け加え)

サルヴァドールでは「デンデ油」という、椰子の油を料理にたっぷりと使う。これと疲れが体調悪化の原因ではないかと医者が言っていた。点滴が終わるのを待つ間に「コンサートに来たんです」と医者に話しかけると、「オレはピンクフロイドが好きだけど、ピンクフロイドはどう思うか」と聞いてきた。ピンクフロイド? そんなことを聞かれても困るけど、とにかく医者もフレンドリーだ。読者の皆さんは日本で医者と握手したことあります?

結局リオもこのあとのサンパウロもガイドを雇うのはやめた。僕ら写真集チームは鼻がきくのだ。たぶん。


1996-05-13 リオ・デ・ジャネイロ


実はこの日記は14日(本当は15日午前)に書いています。昨夜は書く時間がなかったので。だいたい(言い訳になるけど)日記を書くのは全ての作業が終了してから。修学旅行で言うと、消灯して、さらに見回りをしてから書く日誌という感じ。特にコンサートのある夜はつらい。ブラジルのコンサートは夜遅いしね。でも、泣き言はこれくらいにして、13日の日記に戻ります。

朝11時半に孝至くんとロビーで待ち合わせ。ロビーに降りると、ちょうど早朝の便でサンパウロから移動してきたMIYAがホテルにチェックインするところだった。顔を合わせたら聞くことはもちろん決まっている。ジョアンは? MIYAの答えは「生涯最高のコンサート」というものだった。あとでもっと詳しい話を聞こう。とにかくジョアンを観ることができてよかった。

孝至くんとコパカバーナ海岸を散策。ちょっと歩いて中華レストランで昼食をとって、すぐに撮影は終了。夜のライヴに備える。

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リオのライヴ会場は、セントロ(中心地)にある、とてもアーティスティックなスペース。コンサートにはまったく意味をなさない地下室、隠れ家のような小部屋、天井から吊された巨大なオブジェ……。廃墟のようでもあり、斬新でもあり(未来世紀ブラジル!)の不思議な建物。

共演のシェブ・ハレドの会場入りが遅れたということで(なんと4時間も!)、サウンドチェックまで間があるメンバーを会場近くで撮影する。MIYAだけは前夜ほとんど寝ていないために、ホテルで自分の出番ギリギリまで仮眠中だ。

会場のまわりは典型的な(ヤバめの)ダウンタウン。撮影にはガードをつけてもらう。

リハーサルの最中に旧友とのうれしい再会があった。さて誰でしょう。答えは、昨年東京で共演したシモーネ・モレーノとペペウ・ゴメス。THE BOOMのためにかけつけてくれたのだ。僕が最初に「砂の岬」を聴いたのも、東京で観たシモーネのコンサートだった。アンコールにアカペラで歌われたあの曲には震えがきたものだ。メンバーたちと抱き合って再会を祝福する。「Call my name」と「風になりたい」への参加がすぐに決まった。

ライヴは10時にスタート。「手紙」のイントロから会場は揺れだし、2曲目の「HUMAN RUSH」ですでに驚きの声があがり、口笛が響いた。ペペウとシモーネが登場した2曲は、まさに友情の成果だ。ペペウと孝至くんの強力なコンビネーション! シモーネが日本語で歌う「風になりたい」は美しかったなあ。うまく言えないけれど、シモーネの歌によって、僕にとっての「ブラジル」だったこの曲に、「日本」を感じたのだ。それは純然たるブラジルの名曲カヴァーである「砂の岬」に、「日本」を感じるのと同じく、う~ん、やっぱりうまく説明できないから今度機会があるときまでに考えておきます。

最後の曲、「島唄」では、これまでで最大級の歓声が沸き起こった。それに応えて全メンバーがステージ前方で挨拶をして退場。僕は泣いたね。いつものことだけれど。

アンコールに登場したTHE BOOMは「Fer east samba」を演奏した。MIYAは「SEE YOU IN THE FUTURE」と言っていたぞ。THE BOOMはまだブラジルに戻ってくるつもりだ。


★追記(帰国後の付け加え)

ブラジル人の観客に、日本語で「MORE(もっと)」ってなんて言うんだ?、と訊かれた。「アンコール」と答えると、彼らはステージに向かってすぐさまその言葉を叫びはじめた。

ライヴが終わったあとの楽屋は、たいへんな混雑状態だった。地元のテレビ局がインタビューを撮らせてくれと交渉している。興奮して押し寄せたお客さんがメンバーにサインをせがむ。

『ラティーナ』誌が主催するブラジル・ツアー参加者のほとんどはこのリオ公演のあと帰国。参加者たちから寄せ書きをもらったのでその中のひとつをここで紹介しよう。

「私もずっと憧れていたブラジル。ライヴでのTHE BOOMのするどく真剣なまなざしを、この人たちの一生懸命な姿を忘れてはいけない、目に焼きつけておかなければいけないと、私も必死でした。ブラジルの人たちにTHE BOOMの思いは伝わったでしょうか? 私には届きました!」(民子さん)


1996-05-14 リオ・デ・ジャネイロ

「13日のリオの新聞」の件。つまり5月9日の日記に書いたインタビューのことだけど、昨日のロビーで見つけた新聞の記事がそれらしい。

MIYAの答えは、「産業と同じだったら、僕らはこうしてブラジルまでやってきたりはしない」というものだった。ブラジル音楽を「盗む」だけだったら情報の発達した現在、日本にいながら充分できてしまう。THE BOOMと「産業」との決定的な違いは、敬意があるかどうかだ。MIYAの答えにはそれが的確に表れていると思う。

さて、今日はMIYAと栃木さんがTHE BOOMを代表してリオのラジオ局をまわった。朝の8時15分に集合して(ライヴの翌日のこの早起きはつらい)、夕方6時半まで、9局か10局に出演。僕とカメラの仁礼さんは、午前中彼らに同行した。カメラに興味があるMIYAは、ワゴンでの移動中、仁礼さんのカメラを借り、ファインダーを覗いたりしている。

ブラジルのラジオ局では、まず「砂の岬」がプレイされる。ブラジル・ソニーが作ったプロモーション用CDも「砂の岬」だった。なごやかな雰囲気の中で質問が始まる。「ブラジルの印象は?」「日本で人気のあるブラジル人ミュージシャンは?」……日本でもよくある外タレへのインタビューといったところだ。

「ところで君たちは、いったいどうして『砂の岬』をカヴァーしようと思ったのかね」

「初めてこの曲を聴いたとき、僕にはアジアの旋律のように聴こえたんです」とMIYAが答える。

午後、写真集チームは、リオのシンボル、コルコバードのキリスト像を撮影に行った。メンバー4人は、サンパウロで明朝開かれる予定の共同記者会見に備えて、夜遅い便でサンパウロに飛び立った。日本にいるときよりも忙しいかもしれない。僕も眠い。今日の日記は短いけれど、これで終わり。

★追記(帰国後の付け加え)

リオは奇岩(としか言いようがない)がボコボコと街の中にも海の中からも顔を出している。ビルの裏にも岩があったり変な光景だ。おまけにその奇岩が観光名所だったりする。

僕らは一日に何度もホテルの隣にあるオープンエアのカフェで過ごした。リオの物価は大して安くはない。東京の8割ぐらいの見当だ。英語はあまり通じない。僕らがまず覚えたポルトガル語は、「セルベージャ(ビール)」と「ショッピ(生ビール)」。YAMAさんから教わったのは「マイズーン(おかわり)」。YAMAさんはウェイターに向かって何度もこの言葉を使っていた。

MIYAはこの日、ガット・ギターを買った。取材の合間に楽器屋に入り、試しに弾いてみたところ、そのギターに「呼ばれた」んだそうだ。


1996-05-15 リオ・デ・ジャネイロ→サンパウロ

応援メールどうもありがとう。本当に毎日楽しみにしています。帰国したらお礼のメールをみんなに送ります。Kirikaさん、珠青さん、めぐぞうさん、サナさん、Gregさん、tsukazakiさん、まいこ・かなこさん、あやみさん、後藤さん、神藤さん、なほ子さん、香世子さん、美緒菜さん、晶子さん、雅子さん、その他毎日読んでくれているみなさんありがとう!

さっき、ブラジルからのインターネット送信に協力してもらっているToniに会うことができました。THE BOOMのホームページを開設以来、世界各地のファンと知り合うようになりました。Toniはサンパウロに住むブラジル人の青年で、これまで電子メールの交換はしていたけど会ったことも電話で話したこともなかった。その彼に、今夜サンパウロでようやく会えたのです。

今はブラジルにいながらも、全世界のこの日記の読者と「繋がっている」という感覚を持つようになりました。全世界というのはウソじゃない。前述のToniはブラジルで英語版(この日記もインターネットでは日本語版のほかに英訳版もあるのだ)を読んでるし、カナダやノルウェーに住むTHE BOOMのファンからの応援メールだってちゃんとブラジルに届いている。東京で“ネットサーフィン”してるときにはそんな感覚なんて全然なかったんだけどね。

今日は一日メンバーと別行動だったので、メンバーに関する話題はなしです。いちおうどんなスケジュールだったかというと、午前9時にラジオのインタビュー、10時に新聞社の共同記者会見、午後からラジオに出演です。サンパウロは日系人が多いということもあって、とても歓迎されたようです。新聞には毎日THE BOOMの記事が載っています。どの新聞に載っているのか、フォローできないぐらいです。明日のコンサートはきっと大盛況でしょう。

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さて、僕が今日何をしたかを報告します。午前中はイパネマ海岸や、リオ最大のショッピングモールを撮影しました。ショッピングモールの中にあるレコード店ではTHE BOOMのポスターがちゃんと貼られ、CDも特設コーナーに並べられていました。

午後2時過ぎの便で、サポートメンバーやスタッフと一緒にリオからサンパウロに移動。南米最大の都市サンパウロは観光地という雰囲気はなく、東京をもっと混沌と、猥雑にしたような感じで、空港からホテルに向かう途中ですでに気に入ってしまいました(結局ブラジルに来てからどの街も気に入ってる)。

「今、ラッシュアワーだから道は渋滞ですよ。地下鉄も混んでる時間ですね」。ホテル・クラークのこんな言葉もまたうれしい。写真集チームは渋滞をものともせず、日本食にありつくためにリベルダージ地区(東洋人街)に向かいました。僕は移民に興味があるのでサンパウロのリベルダージに来ることをすごく楽しみにしていたのです。それに日本食も。まあ、明日もまた行くだろうから、どんな街だったかは次の機会に報告します。リベルダージで知り合った日系人もTHE BOOMのことを知っていたよ。

今日はメンバーネタなしですみません。


★追記(帰国後の付け加え)

この夜に食べたものを列記します。焼き魚(さんま)定食、おひたし、冷や奴、納豆、まぐろの山かけ、ご飯と味噌汁をおかわりするとき以外、僕らはほとんど無言でした。生き返りました!


1996-05-16 サンパウロ

奇跡的な夜だった。ジョビンが降りてきたのかもしれない。

トム・ジョビンの名を冠した会場(MIYAが数日前にジョアン・ジルベルトを観たのもここだ)でのコンサート。会場には日系人の若者を中心に多くの人が集まってくれた。最初の音が出た瞬間から、沸騰したかのような興奮状態。メンバーも観客のパワーに相乗してボルテージが上がっていった。

リオに続いてシモーネ・モレーノとペペウ・ゴメスがコンサートの中盤に登場。ふたりだけのコーナーもあり、ペペウのガット・ギター伴奏によるサンバと、バイーアを歌ったチンバラーダの持ち歌の二曲が演奏された。シモーネの表現力も神懸かり的だった。シモーネが話す。日本で生まれた友情をブラジルで再確認できてうれしい、ということらしい。隣りにいた、日本領事館で働いているY君が訳してくれた。Y君は「島唄」が大好きだというブラジル人のガールフレンドと抱き合っている。ブラジル人って愛情の表現がすっごくストレートなんだ。

「島唄」の浸透ぶりは想像以上だ。想像以上、というよりブラジルで「島唄」を待ち望んでいる人がこんなにいるなんてまったく予想していなかった。コンサートが始まってすぐに、客席からたどたどしい大声が飛んだ。「『島唄』をお願いしまっすっ」という日本語でのリクエストだった(あとでメンバーに確認したら、ばっちりステージ上まで聞こえていたそうだ)。

「砂の岬」でMIYAが三線を持った瞬間に、客席が「島唄だ、島唄だ」とざわついた(Y君たちも間違えていた)。そんな状態だったから、僕らはあのイントロで頂点に達してしまった。「島唄」とわかったときの、会場の大興奮といったら! 僕は、もちろんそれまでも感動で泣きっぱなしだったんだけど、このときの涙はもうぬぐう気にもならないほど大量だったし、気持ちいいものだった。

信じられる? 地球の裏側で指笛が吹かれ、カチャーシーが始まり、大合唱がおこるなんて。沖縄宜野湾でのコンサートよりも大きな(つまり最大の、という意味だ)歓喜の声を僕らはあげた。あの瞬間、僕らは南米で最高に幸せなキャラバンとなった。

特別な夜のアンコールは「ブランカ」。海を越えていった人たちに贈る、THE BOOMからのラブソング。この歌詞がまたこの街では響くんだ。

そして、ブラジル最後の曲は「そばにいたい」。サンパウロを満たし、アマゾンを渡り、アンデスを越えていくような力強く、美しいMIYAの歌声。僕はここにいたことを感謝した。またサンパウロでコンサートを開きます。MIYAがステージで何度も言ってたことだからたぶん実現されるでしょう。近いうちに。

本当はこの夜の模様をもっと描写したかった。でも今はもう午前4時45分。あとは眠れさえしたら世界一幸せになれる。だから、この日のほかの出来事は簡単に記します。

写真集チームは午前中からリベルダージで撮影。レコード店でTHE BOOMのポスターを発見し、撮影してるところに偶然MIYAが通りかかったので、一緒にリベルダージを歩きました。いくつかの新聞(日系紙とポルトガル語紙)に、THE BOOMの記事が載っていました。デジカメで撮ったので送ります。そして夜はライヴ。おやすみ。


★追記(帰国後の付け加え)

興奮と感動で忘れていた疲れも、最後の段落を書いてるときには、抗えないほどになっていた。変換キーを押すたびに、目の前に眠気を誘う白いガスが出現し、優しく僕を包んでいった……。なんてことをこの日の日記を読み直して思い出した。特に最後に突然出てくる「おやすみ」というのがひどいね。

もっと記憶を蘇らせます。リベルダージ地区には地下鉄で行った。(1)新しい、(2)きれい、(3)わかりやすい。ポルトガル語がからきしダメでもサンパウロの地下鉄は問題ない。リベルダージのマクドナルドには日本語の看板が出ている。本屋には、数年前の雑誌も最近の『ノンノ』なんかと一緒に並んでいる。果物やのり巻きが並ぶ露店の奥の棚には、おばちゃんが聴くんだろうか、演歌のカセットが数本、小さなラジカセの横に置いてある。そんな、角を曲がるたびに現れる「日本」に僕は心揺さぶられる。この街で出会うすべての人に話を聞いてみたい!

「きんたろ」という、カウンターだけの一杯飲み屋で休憩した。隣りの「サロン大塚」という床屋の主(あるじ)が顔を出していたので、話しかけてみる。彼は1966年、25歳でブラジルに渡った。「火星に行くわけじゃないし、人間、水と空気があればどこでも同じだよ」という彼の話は大いに刺激になった。人をどんどん元気にさせるスケールの大きな人だ。もっと話を聞きたい!

日記に出てくるレコード店では、ポスターの撮影中に店の女の子(すっごく可愛い日系の子)が「島唄」を流してくれた。MIYAが現れたのはその直後だから、MIYAも彼女も驚いただろうな。でもブラジルで発売されている『Samba de Extremo Oriente』ならわかるけど、「島唄」のCDも日本から輸入して置いてくれるなんてうれしい。コンサートにはこのレコード店のオーナー家族と、バイトの女の子たちも来てくれた。日系のファンたちの間では、今度は日本までTHE BOOMを観に来ようというツアー計画が持ち上がっているそうだ。こういう話って胸が熱くなる。MIYAに伝えたら喜んでいたよ。


1996-05-17 サンパウロ

インターネットで日記を送るのも今夜が最後。サポート・メンバーやスタッフとともにコンピュータも明日帰国するからだ。ちょっとさびしいけれど(その分早く眠れる!)、今後もテキストだけはファクスで日本に送り、アップしてもらうつもりです。僕がブラジルを発つのは22日。応援メールを読むのは、帰国してからの楽しみにしておきます。

昨夜書き忘れたことを少し。今年2月ブラジルからTHE BOOM宛にファンレターが届いた。ブラジリアに住むMarianaという女の子からだった。彼女が以前住んでいたドイツで知り合った日本人のボーイフレンドがTHE BOOMのファンで、彼の影響でTHE BOOMのファンになったそうだ。Marianaはサンパウロから1000キロほど離れたブラジリアからコンサートを観に来てくれた。ファンレターに記してあった電子メール・アドレスにブラジルでのコンサート・スケジュールを送ったりと、インターネットで何度かやりとりがあったのだ。楽屋でメンバーとの対面が実現した。僕も彼女と言葉を交わした。初対面なんだけど、知らない人じゃないという、何だか不思議な気持ちだった。

もうひとつ。

昨夜はホテルに戻ったあと、ホテル内にある終夜営業のレストランにみんなが集まった。あまりにも遅い時間だったし、あまりにも空腹だったので外に出られなかったのだ。食事のあと、部屋に戻るエレベーターの中でMIYAとふたりっきりになった。僕はこういうときにとても緊張してしまう。だって、さっきあんなに大きな感動を与えてくれたミュージシャンがすぐそばにいるんだよ。

僕はMIYAにライヴの感想を伝えた。話してるうちにまた熱いものがこみあげてしまった。16階に到着するまでに僕とMIYAで意見が一致した。ブラジルに来て本当によかった、という結論だ。

トラブルはいやというほど降りかかった。ただの編集者の僕でさえ胃の痛い思いを何度かしたぐらいだから、コンサート・スタッフの苦労は計り知れない。それでも昨夜のライヴですべてが報われたような気がする(サルヴァドールやリオのライヴがよくなかったわけではない)。僕はこれからもこんな至福の瞬間を一度でも多く味わいたい。地球の裏側で僕らをさせてくれた人たちももちろん含めて、僕はすべての関係者に感謝したい。そして南米最高のサンパウロのブームファンにも。

ブラジルでのコンサートがすべて終わっても、写真集の仕事はまだまだ続く。今日は壁画の撮影に行った。THE BOOMを気に入ってくれたサンパウロのグラフィック・アーティストが、渋谷パルコ横の壁画のように、メンバーを描いてくれたのだ。ヒップホップな感じの絵柄で、近くで見るとすごく巨大に感じる。

ルース駅にも行った。撮影には許可が必要というので、駅長室に挨拶に行く。「美しい駅なので日本に紹介したいんです」とお願いする。こういうのって編集者の仕事っぽいでしょ。ホームに降りると、オリエント急行でも停まっていそうな、ヨーロピアンな雰囲気だった。ロンドン滞在経験がある孝至くんによると、近くに見える時計台はビッグベンに似てるそうです。

さてまたスケジュールの変更です。明日、MIYAと写真集チームはリオに行くことになりました。カエターノ・ヴェローゾのライヴが目的です。YAMAさんはイグアスの滝見物。孝至くんと栃木さんはサンパウロです。

それではおやすみなさい。

★追記(帰国後の付け加え)

この日もまた見事なまでにはしょった日記。夜はブラジル・ツアーの打ち上げがあった(18日分の日記に記述しています)。コンサートが全て終わり、スタッフはようやくブラジルを楽しめる。メンバーも当初取材予定日だったのが、16日中にすべて終わったのでオフ。これでブラジルでの仕事はミナスでのビデオ撮影を残しているMIYA以外は全員終了した。YAMAさんはこういうとき頼もしい。ガイドブックをチェックして、すぐさまプランを立てる。写真集チームとビデオ撮影チームは、まだまだ仕事だ。

1996-05-18 リオ・デ・ジャネイロ再び

ふたたびリオ。コパカバーナの海岸が見下ろせる部屋でこの日記を書いています。今日からは日記をインターネットではなくFAXで日本に送付して(1枚10ドルもかかる!)、日本でHTMLに書き直す作業をしてもらいます。コンピュータがないので写真も今日からはなし。

書き忘れていたけれど、昨夜はサンパウロ・リベルダージの日本居酒屋でツアーの打ち上げがあった。二次会には約10名が沖縄料理屋「でいご」に行った。カメラマン仁礼さんの友人で、サンパウロ在住のK氏に案内してもらったのだけど、夜のリベルダージはかなりの危険地区らしく、K氏もつい最近、強盗にあったそうだ。

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閉店間際に押しかけた僕らを「でいご」はあたたかく迎えてくれた。残念ながらMIYAお望みの泡盛はなかったけれど、おいしいソーキそばを食べることができた。それももう三人分しか材料がないというので、みんなで分けあったんだけど。お店のおばちゃんが「島唄」や「ひゃくまんつぶの涙」「風になりたい」「TOKYO LOVE」などお店にあるカセットを次々とかけてくれた。この日記の読者もサンパウロに行ったら「でいご」に行ってください。

ホテルに帰って日記を書き上げ送信し、部屋に戻ると、ブラジルで知り合った友だちから電話があった。下のロビーから電話してるという。午前三時半。とっても眠かったけれどロビーに降りて、朝まで話し合った。ブラジルで多くの友だちができたけれど、別れもやってくる。また会おうね、とお互いに誓いあうしかないよね。

18日に戻ります。サポート・メンバーやツアー・スタッフは帰国の途についた。YAMAさんはイグアスの滝見物に一泊二日の小旅行に出かけた。孝至くんと栃木さんはサンパウロに残っている。MIYAと僕らは正午にチェックアウトして、リオに飛んだ。サンパウロ-リオ間、30分間の旅はまさにバスの感覚だ。席だって自由席だしね。ふたたびリオに来た目的はカエターノ・ヴェローゾのライヴを観るためだ。今、こちらは午後9時。開演まであと1時間半だ。


★追記(帰国後の付け加え)

サンパウロ-リオ間、飛行機の旅を「バス感覚」と言うのは、もちろん僕らの感覚だ。現地ではバスでの移動がポピュラーらしい。

どうでもいいことだけど、この日ついに着替えがなくなった。最初はこまめに洗濯してたんだけどね。そんなわけでリオに着くなり買い物に出かけた。コンサートの開演時間が遅くて助かった。


1996-05-19 チラデンチス

5月19日といいつつ、これを書いているのは20日。ミナス・ジェライス州、チラデンチスのホテルにいます。僕らがこのブラジルで訪れた中でもっとも美しいホテルです。まあチラデンチスのことはあとにして、18日夜、カエターノのコンサートに戻ります。

僕らが手に入れたのは50real(約5千円)の席。オーケストラを従えた粋な男、カエターノが現れ、コンサートが始まりました。完璧な歌唱力、計算された演出、卓越した知性を感じさせるユーモア。素晴らしいショーでした。

THE BOOMが昨年からライヴのオープニングに使っていた「ハイチ」が聴けたのには感動したな。この曲は「手紙」に影響を与えているだろうし、同曲が収録されたカエターノ&ジルのアルバム『トロピカリア2(ドイス)』はタイトルからも『TROPICALISM-0°(トロピカリズム)』に与えた影響をうかがうことができます。興味を持ったらぜひ聴いてください。僕は会場でサイン入りTシャツまで買った。

もうひとつ記しておかなければ。“極東ツアー”のパンフレットに収録されているインタビューでMIYAが語っていた「観客の合唱」を僕らは体験しました。「シンコペーションだらけの難しい」歌を彼らは本当によく歌う。音楽を知っている。カエターノはジョアン・ジルベルトやトム・ジョビンについて語ったあと、「シェガ・ジ・サウダージ」(ボサノヴァはこの曲から始まった)を歌ったんだけど、その時の観衆の反応はすごかったなあ。みんながいかに音楽を愛しているがすごく伝わってきました。

さて、僕らはもしかしたらコンサートのあと楽屋でカエターノに会えるかもしれないと聞いていた。「会えるかも」というのはブラジルでは「ほとんど無理」ということだ(ブラジル人読者のみなさん、ごめんなさい)。しかし、僕ら写真集チームとビデオ班のなべちゃんはこれに賭けてリオまで同行したのだ。

数々のチェックを突破して、午前0時50分、僕らは楽屋の入口までたどりついた。MIYAは心なしか緊張している。「尊敬するアーティスト」としてここ数年いつも名前をあげていたカエターノが至近距離にいるのだからあたりまえだ。そして運命のときがきた。

カエターノのスタッフ(奥さん?)が僕らを招いてくれた。仁礼さんとなべちゃんがベスト・ポジションをキープした! 僕はカメラバッグを担いで楽屋の外でこの会見がうまくいくように祈るだけだ。そして約10分後、MIYAたちが戻ってきた。微笑んでいる。撮影もバッチリ! 大成功だ!

「ねえねえ、何の話をしたの?」

会場の隣りのバールで乾杯したあと聞いてみた。

「『トロピカリズム』のライナーノーツを頼んでみたよ」とMIYAが笑う。MIYAはカエターノの最新ライヴ・アルバムの日本盤にライナーノーツ(解説)を寄せている。

「それで?」

「OKしてくれたよ(笑)」

そのほかにも、MIYAが日本で「トロピカリズモ」ムーブメントを起こそうとしていること、矢野顕子さんや教授(坂本龍一)のことなど(カエターノは彼らと共演したことがある)いろいろ話ができたそうだ。ビールがうまい夜だった。

今度は19日に戻る。僕らは朝早くリオのホテルをチェックアウトして空港に向かった(まただ!)。エイトールさんと空港で落ち合い、ベロリゾンチまで飛行機で1時間。そこからさらに車で2時間かけて、美しい石畳の街オーロプレットに到着した。

ゴールドラッシュに沸く17世紀に建てられた街だ。オーロプレットには大学が多い。この日は日曜日だったけれど(曜日の感覚がなくなりつつある)学生が多く街を練り歩いている。なんだか学園祭でもあったようだ。昼食をとったあと、ふたたび車に乗り込み、4時間の移動でようやく目的地チラデンチスへ。「砂の岬」が生まれた土地だ。

★追記(帰国後の付け加え)

ブラジルにいる間、朝食には「パン・ジ・ケージョ」を食べていた、小さなチーズパンで、ブラジルのコーヒーとよくあう。このパン・ジ・ケージョもミナスで生まれたそうだ。ところでMIYA、孝至くん、YAMAさんの出身地甲府市は、ミナス・ジェライス州と姉妹都市の関係だそうだ。

カエターノが本当に解説を書いてくれても、7月1日の『トロピカリズム』発売日には、制作の行程上どうしても間に合わない。会見写真もばっちり載る写真集に書いてくれるといいんだけどなあ。


1996-05-20 チラデンチス

この日記も一日遅れ。21日に書いています。夜中に書くのはもうやめた。朝の光の中で(ちょっと肌寒い)コーヒーを飲みながら書くことにします。

20日はビデオ・クリップ撮影日でした。チラデンチスは美しくこぢんまりとした田舎町です。僕らだけでなく、ツアースタッフ全員でわっと攻めたらすぐに占拠できてしまいそうな小ささです。激動の60年代後半には、この美しい街にブラジル内外からヒッピーが集まってきたそうだ。僕らが泊まっているホテルのオーナーも、その時期にイギリスから流れてきたヒッピーだったらしい。

ここには神経を刺激するようなものは一切ない。四つ星ホテルでありながら、テレビも電話も部屋にはない。木彫りを中心とした家具は恐ろしく洗練されている。抜群に居心地がいい。日本のインテリア雑誌や女性誌がこのホテルを「発見」したら、10ページくらいの特集なんて簡単に作れそうだ。

街も静かだ。街の中心にはハンドボール・コートほどの小さな広場があり、街灯には数頭の馬がつながれている。石畳の路にはところどころに馬や牛のフンが落ちていて、芳香を発している(これが本当にいい匂いなんだ!)。

僕らは「砂の岬」の故郷を訪ねに来た。ミナスは作者のミルトン・ナシメントの故郷でもある。ビデオ・クリップの撮影というのももちろん「砂の岬」用だ。僕はこの曲が大好きだ。気がつくといつも口笛で吹いている。僕が吹いていないときは仁礼さんが吹いている。

僕らはまずチラデンチスの駅へ向かった。隣り町のサンジョアン・デル・レイまで、週末だけ観光用の汽車が走っている。20日は月曜だったので駅は無人だった。ホームでの撮影が終わると、田園の中を走る線路、町を見下ろす丘、サンジョアン・デル・レイの教会横の路上など撮影場所を移動していく。丘の上ではMIYAが実際にギターを弾き、歌った。太陽も完璧だった。僕らは終始ピースな雰囲気だった。

ブラジルは広い。いくつもの顔を持っている。ここはサルヴァドールともリオ・デ・ジャネイロともサンパウロとも違う。どれも素敵な街だけど、もっともリラックスできるのはチラデンチスだ。

MIYA以外のメンバー3人はもうサンパウロから帰国したはずだ。MIYAは21日、アメリカへ向かう。だから、この夜がMIYAにとってブラジル最後の晩餐となる。僕らは広場に面した気取らないレストランで、さっぱりしたワインとたっぷりした料理をとった。食事中の話題は「好きなマンガ」だった。小林まことの『一、二の三四郎』と狩撫麻礼の『ボーダー』。チラデンチスはおろかブラジルともまるで接点のないマンガだ。

ホテルに戻ったあとも、リラックスした空気が僕らを満たしていた。星空の下、パティオ(中庭)に寝転がっている僕らに、MIYAがギターを弾き、ボサノヴァを歌ってくれた。世界一優雅なコンサート。

「何のためにブラジルまで来たのか、僕にはわかったよ」と僕がMIYAに声をかける。「至福の瞬間を一度でも多く味わうために、ってことでしょ」僕はさらに続ける。「でも至福の瞬間を味わったことのない人には、こういう答えって理解できないんだよね」

「そうだよね」とMIYAが笑った。

こんなふうにチラデンチスの夜は更けていった。


★追記(帰国後の付け加え)

中庭での「コンサート」が終わりサロンに戻ったあとも、MIYAはギターを弾き続けた。僕らは暖炉に薪をくべ、ビールを飲む。チラデンチスの夜はいささか涼しすぎる。それにブラジルの5月は秋だからね。このホテルのソファはいちど腰を下ろすと動きたくなくなってしまう。会話にはあまり加わらずに、気持ちよさそうにギターを弾くMIYAは、まさにサロンの伴奏者だった。


1996-05-21 リオ・デ・ジャネイロ

またまたリオに戻ってきた。リオはツーリスティックな街で(コパカバーナにいるからだろうけど)生活感はあまりない。

チラデンチスを正午に出た。僕らが泊まったホテル「Solar da Ponte」は近くを通ることがあったら、ぜひ訪れてください。いいホテルです。

チラデンチスから車で約6時間、田園の中をひたすら走る。山をいくつも越え、リオの空港に到着。もう何度目だよ、この空港は。

MIYAはこれから約20時間のアメリカへの旅だ。僕ら残党は明日の便で東京へ戻る。この日記も、出国手続きに向かうMIYAの背を見送った時点でおしまいだ。感謝を込めてMIYAと握手を交わしたが(考えてみればMIYAと知り合って9年だけど握手をしたのは初めてだ)、それ以外にはとりわけ感動的なエンディングも、意外などんでん返しもなし。今日はトラブルもなかった。コパカバーナの波の音もいつもと同じだ。

それでも最後の夜なので、まとめて感謝を述べたい。

まずはサンパウロまでの間、僕が日記を書くのを夜遅くまでつきあってくれた藤井君と清水さん。彼らの忍耐がなければこの日記は毎日送れなかった。ブラジルからのインターネット送信に尽力してくれたToni。彼はサンパウロのコンサートにも遊びに来てくれた。数々のトラブルを乗り越えTHE BOOMの夢を実現した力強いツアー・スタッフ。献身的な働きをみせた(本当にごくろうさま)マネージャーたち。ビジネスよりも大事なことがあることをいつも教えてくれるプロデューサー。荒れ狂う波(!)に立ち向かった『ラティーナ』の本田さんと斎藤さん。美しいミナスに連れて行ってくれたエイトールさん。気は優しくて腕は確か、楽しいサポート・メンバーたち。親身になって応援してくれたマスコミの人たち。一緒に楽しんでくれたお客さんたち(サンパウロでの「島唄」での歓声を僕は忘れない)。

写真集チームは最強のチームワークだった(写真集お楽しみに)。ビデオチームは笑顔を絶やさないプロフェッショナルだった(こちらも9月には発売されるようです)。南半球ブラジルまで観に来てくれたBOOMERたちと、北半球日本で僕らを支えてくれたスタッフ(特に毎日ホームページを更新してくれた河原崎さんに)と、インターネットで応援してくれたこの日記の読者にもありがとう。成功を祈ってくれていた全世界のブームファンにも感謝をしたい。そして、いつも新しい世界を見せてくれるTHE BOOMのメンバーに拍手を。彼らと一緒のキャラバンに乗っていることを、僕は誇りに思うよ。

どうもありがとう。


★追記(帰国後の付け加え)

22日は出発時刻まで初めての自由時間。この前訪れたレコード店に顔を出した。『極東サンバ』がなくなっている。50枚仕入れたのがすべて売り切れてしまったそうだ。追加注文してるんだって!

エイトールさんが昼食に招待してくれた。ブラジルの人は水曜と土曜にしか食べないというフェイジョアーダ(豚の内臓と黒豆を煮込んだ料理)をご馳走になる。

すっかり馴染みとなったカフェで最後のコーヒーを飲む。さよならブラジル。夜10時30分発のヴァリグ航空で最後のそして長時間のフライト。東京までの間、MIYAに教わった秘法「死んだふり」でやり過ごした。びゅ~ん。

5月24日午後2時30分、全員無事に帰国。

今度は写真集の編集です!


1996-05-22 (おまけ)「砂の岬」ビデオクリップ撮影記

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「砂の岬」という歌の故郷、ミナス・ジェライス州を訪れる、という宮沢和史の希望は、サンパウロでのコンサートが終わった後の数日間を利用して実現した。

ブラジルには僕ら写真集チームのほかに、ビデオチーム12名も参加している。「砂の岬」の撮影のために、ビデオチーム本隊は前日にサンパウロから現地入り。MIYAと写真集チームからなるリオ出発組には、ドキュメントビデオ担当の渡辺君が同行した。

ブラジルではTHE BOOMメンバーが動くところ、常にフォトグラファー仁礼博さんとビデオカメラマン渡辺君の姿があった。長期間のツアーにはチームワークが必要だけど、仁礼さんが兄貴的な包容力で慕われ、渡辺君が笑いを誘うキャラクターで親しまれるという具合に、2人はメンバーやツアースタッフの中に自然に溶け込んでいった。写真集にもビデオにも笑顔があふれてるのは(もちろんほかにもたくさん要因はあるけど)、彼らのおかげだ。

「Call my name」はライヴシーンと渡辺君が撮ったドキュメントで構成されている。モレーナと至福の瞬間を過ごす栃木さんや、子供たちと記念撮影するYAMAさん、砂と戯れる孝至君、同じシーンながら写真集とビデオでは違った味わいがあっておもしろい。

ライヴシーンは、10台近いビデオによって撮影されている。ディレクターの斉藤さんは、もう何年もTHE BOOMのビデオを担当している。THE BOOM、憧れのブラジルでのライヴ。不安や緊張や興奮や感動、そんなメンバーの表情をあますところなくとらえている。

そして、もう一本のビデオクリップ「砂の岬」は、すべてミナスで撮影されたものだ。ミナスでの撮影はブラジルツアーの中でもとりわけ楽しい体験だった。撮影はこんな風に行なわれた。

5月19日、夜更けにチラデンチスのホテルに到着した僕らを、先着のビデオ班が迎えてくれた。すぐに夕食をとりながらミーティング。すでにロケを済ませているビデオ班が、翌日の撮影プランをMIYAに説明する。時間は限られている。しかも誰もが初めての土地。でも、なんかうまくいきそうだなぁという空気が僕らの間に流れていた。みんなミナスが気に入ってたからだ。

5月20日、チラデンチスの駅では、線路の上で子犬たちがはしゃぎ回っていた。僕らが行ったのは月曜。汽車は週末にしか走らない。ビデオの中の、走る汽車は前日に撮影されたものだ。

月曜日の駅では乗客のかわりに犬が、まるで自分の領土を見回るかのように端から端までホームを往復してくる。

田園風景を突っ切る線路の上をMIYAが歩く。その向こうで、放牧されている馬がのっそりと草を食んでいる。

丘の上の巨大なモニュメントに腰掛け、ギターをつま弾くシーン。MIYAは特にこの場所が気に入ったらしい。丘の上から街を見下ろす。ミルトンもこの景色を見たんだろうか。「砂の岬」に歌われる故郷を夢見た男たちや女たちはあの汽車に乗っていたんだろうか。娘はどこで手を振っていたんだろうか。 この線路の向こうに、かつて黒人たちが故郷へ続く海を見た。僕にはサンパウロで出会った、海を渡ってきた日本人たちの顔も見えた。

「砂の岬」は人々の歴史やいろんな想いを感じる歌だ。気がつくと僕らは何度もあのメロディを口ずさんでいた。

「砂の岬」のビデオには、こんなミナスの風景が詰まっている。音楽への愛情があふれているビデオだ。


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