THE BOOM クロニクル 1989-1998

1999年にTHE BOOMのファンクラブ季刊誌「エセコミ」に掲載した、編集長杉山敦による原稿を初めてこの note にアップします。1989年、THE BOOMとのホコ天での出会いから1998年『AFROSICK』まで、1年につき約2,000字の文字量で彼らとの日々を綴っています。総文字数22,224字。
2023年11月29日から2024年11月29日まで一年間、有料公開しました(購読料は500円)。振り込まれた金額はすべてガザで支援活動をしている「国境なき医師団」へ寄付しました。合計金額は21,000円です。ご購読本当にありがとうございました。一年間経ったので全文無料公開します。


1989年 ホコ天からのデビュー


もう何度も書いたこと。1987年、秋の日の午後のことだった。当時の僕は、神田にある広告会社でバイトをしていた。なんてことはどうでもいい。とにかく出会ったのだ。原宿から渋谷への、あるいは渋谷から原宿への、天気のいい秋の日の散歩コースだったと思う。ピンクのドラムセットの前で演奏する4人組に。彼らはポリスの、U2のカバーを演っていた。

「次は僕らのオリジナル曲です」と、長袖のTシャツの胸に大きな赤いハートを縫い付けたボーカルが言った。一定の距離を保って彼らを囲んでいた観客の輪が少し乱れた。観客といったって通りすがりの人たちが集まったに過ぎない。アマチュアバンドのオリジナルを聴いたってしょうがないじゃないか。でも、彼が歌い出すと僕の足も完全に止まってしまい、それまで以上に熱心に彼らの演奏に心を奪われることになった。不思議な気分だった。その日の午後の予定が、頭の中で消え去り(どうせ大した用じゃなかったんだ)、僕はその日から彼らのファンになった。

彼らの歌に耳を傾けたのは確かに僕の方が先だった。でも、次の日曜から僕のガールフレンドは僕の7倍くらい彼らに夢中になり、僕らは毎週連れ立って原宿に出かけるようになった。僕は彼らの歌が好きだったし、彼女と過ごすそんな日曜の午後が好きだった。お金はなかったけど時間だけはたくさんあったのだ。そしてホコ天はそんな僕らをいつも優しく迎えてくれた。彼らは休むことなく毎週の演奏を続けていた。

歩行者天国が始まるのは正午。そこから30分ほどのステージが、休憩を挟みながら夕方まで5、6回開かれる。秋が過ぎ、冬を越え、次第に彼らはホコ天の人気者になっていった。跳ね回るファンの女の子たちでメンバーの姿が見えなくなっても、ガードレールに腰掛けて「ピース」と口ずさんだり、夕暮れで遠くの木々の輪郭が霞む時間になると彼女の手を引っ張って踊りの輪に加わったりした。一週間の他の6日間が色褪せてしまうほどの楽しい日々だった。

「彼らがデビューしたら、竹下登が首相になった時の島根県民よりも僕は鼻が高い。献金してくれたらTHE BOOMの初期デモテープをあげよう」
1989年2月、僕は自分が作っているミニコミにこんな文章で絞められたラブレポートを書いた。彼らはホコ天での活動以外にも、ライブハウスでの演奏を始めていて、デビューも噂されていた。噂じゃない。本人がステージでそう言ってるのに僕が信じてなかっただけだ。それにしてもここの時の記事を読み返して、さすがに時の流れを感じてしまう。竹下登が首相だったことを覚えてる人は、今どのぐらいいるんだろう。500円で買った自主制作テープは引越しの際にどこかにいってしまった。

1989年の春、僕の自宅に突然、MIYAから電話がかかってきた。僕は自分が作っているミニコミでのインタビューを申し込んでいたのだ。僕のミニコミは公称発行部数50部だったが、ほんとは30部くらいしかなかった。僕が好きな時に好きなことを書き好きな人に配る。製本どころかホチキスでとめる必要もないA4の紙切れ両面コピーの代物だ。THE BOOMのメンバーには休憩時間を狙っていつも手渡していた。彼らのライブの記事を毎回書いていたからだ。MIYAはそんなミニコミのインタビューに答えてくれた。
「おちぶれた時、『やっぱりブームで終わりやがって』と云われるのが悔しいので、最初にプレッシャーを自らにかけようと。孫悟空の頭輪のようなものかな」
バンド名の由来についての質問には、こんな風に答えてくれた。真面目くさった僕の質問は27問。キリの悪い数字だけで仕方がない。僕にはミュージシャンへのインタビューだって初めての経験だったのだ。

5月21日、彼らはデビューした。新宿パワーステーションで午後3時から行われたデビューライブが終わると、僕は日比谷野音に向かいボガンボスのライブを観た。THE BOOMのデビューに特別な感慨はなかった。僕はこの「デビュー」までに彼らのステージを100回以上観てるのだ。

彼らは急速に全国的な人気者になった。今まで見たことなかったような音楽雑誌のグラビアを飾るようになった。グラビアだよ! パジャマ姿で道端で歌っていた彼らが。ホコ天で彼らをずっと撮り続けていたカメラマンもついにプロとして音楽誌に写真が掲載されるようになった。

そんな僕の生活が再びTHE BOOMを中心に回るようになったのは、夏が過ぎてから。彼らのファンクラブ季刊誌「エセコミ」の創刊号打ち合わせが、プロになった彼らとの久しぶりの再会だった。ファンクラブでは、毎月の情報紙とは別に、THE BOOMの世界を表現する季刊誌を作るという。僕はなぜかその編集長に選ばれたのだ。

1989年秋、出版社でのアルバイトを続けたまま、夜の時間を使ってエセコミの原稿をやっとこさで入稿すると、バイトを辞めてすぐに日本を出た。ペルーでの旅を終え、2ヶ月ぶりに日本に帰国した僕は、成田空港から彼らの事務所に電話した。確かその日、渋谷のライブハウスでTHE BOOMが出演するイベントがあったはずだ。次のバイトは決まってなく、相変わらず時間だけはたっぷりあった。

電話に出たのはなぜか事務所の社長にしてプロデューサーの佐藤剛さんだった。そして僕が観に行こうとしていたイベントは数日前にすでに終わっていたことを知った。北半球と南半球の違いだとか、時差だとかそんなことではない。ただ、僕が間違って日にちを覚えていただけだ。
「これからの予定はあるの?」
「いえ、特に」
「じゃあ、うちの会社に来ない?」
運命とはそんなふうにあっさり決まる。僕の入社は成田空港の公衆電話で決まった。


1990年 中央線

ファーストアルバム『A Peacetime Boom』の収録曲が全てアマチュア時代のライブレパートリーだったのに対して、1989年年末に発表されたセカンドアルバム『サイレンのおひさま』は、僕にとっても初めて知る、新しいTHE BOOMが詰まっていた。幼女連続殺人事件、女子高生リンチ殺人、それに天安門事件が起こった年だ。いやな感じばかりの社会への警告。浮かれているように見えたバンドブームの中で、耳を塞ぎたくなるようなことを彼らは歌おうとしていた。圧巻は大晦日に出演したロックイベントでの「気球に乗って」であり「晩年ーサヨナラの歌ー」だった。普通、お祭り騒ぎの場所であんな重い歌、歌うか? 最高のロックバンドだと思った。

1990年は『JAPANESKA』の年だった。僕がいちばん好きな曲は「中央線」。この曲は、MIYAのラジオ番組『サカナラジオ』の企画から生まれたものだった。フラワーズのギター、長田幸二とのユニット「あまから」が中央線沿線、RCサクセションゆかりの地で歌うというプロジェクト。初期のRCには国立や八王子を歌った歌がたくさんある。山梨出身のMIYAは故郷の甲府と新宿を結ぶこの中央線に親しみを感じていたという。

ビデオクリップ集『Clips+』の中で僕がいちばん思い出深いのは「中央線」だ。収録されたMVの中でたぶん制作費は最も少ないだろう。監督兼カメラマンの郡司大地くんがほぼひとりでロケした作品だ。この作品には数日間一緒に付き合った。最初の夜は午後10時過ぎ、郡司くんの運転する車で国立へ向かった。カーステレオにはRCサクセションの「多摩蘭坂」。国立にはたまらん坂があるから当然の選曲だ。撮影に入る前にそのたまらん坂に寄ってもらった。「坂の途中の家を借りて住んでた」と忌野清志郎は歌っている。坂の下に車を停め、一歩一歩、清志郎が歩いただろうその坂を上っていくと不意に涙が出た。僕らと同じようなことを考えたファンがたくさんいるのだろう。ガードレールにはマジックで描かれた清志郎へのメッセージでいっぱいだった。

次の日は夕方のラッシュ前に中央線に乗って出かけた。郡司くんは8ミリカメラを廻す監督、僕は三脚を運ぶ助手。その二日間で僕らは百本以上の中央線電車を見た。駅のホームや、陸橋の上からや、線路沿いの小径から、いろんな角度からフィルムを廻した。午前1時過ぎに高尾行きの最終便が国立駅を発車すると、駅のホームには何人かの酔っぱらい(ベンチに横たわったまま動かない)と僕らだけになってしまった。もう乗って帰る上り電車はないのだ。車で帰る、ということがわかっていても、闇の中に消えていく最終電車のテールランプを眺めていると、不思議にもの悲しくなってしまった。

同じ月に、久しぶりのホコ天ライブを観た。初めての武道館を10日後に控えて昔と同じスタイルでのフリーライブ。会報の片隅に記した思わせぶりな暗号だけでの告知。それでも当日、ホコ天には二百人以上のファンが集まった。最高の天気だった。一回目のステージの後、20分の休憩が終わり、2回目のステージ、最初の曲が「中央線」だった。この歌はとても美しく、そして悲しい。この歌の中で彼女は"僕"のもとを去ってしまって帰ってこない。"僕"は彼女の住む町を知らない。歯を磨くたびに彼女のことを思い出すのは、彼女の歯ブラシがまだ残っているからかもしれない。逃げ出した"猫"が違う相手だとしたら相当にやりきれない。「多摩蘭坂」の主人公のように、無口になってふさわしく暮らすしかない。中央線は決して"僕"を乗せて走らないーーー。

この頃からMIYAは中央線のかなり甲府寄りの山奥に農家を借り、住むようになった。もちろん東京にも「仮の宿」は残しての生活だが。雑誌の取材にかこつけてその生活を訊いたことがある。
「山に住む魅力っていうのは、人に合わせなくていいというか……。何時以降は音楽を聴けないとか、窓を開けると人に見られるとか、聞きたくない隣りの音楽を聴かなくてもいいとか。山の家の周りに音はほとんどないし、夜中まで音楽を聴けるし。別に今、忙しいから反動としてこういう生活をしてるんじゃなくて、子どもの頃からの夢だったんだよ。前の日が夜遅くまで仕事があって、最終電車で帰ると家に着くのが午前2時。そこですぐ寝ればいいんだけど、音楽聴いたり、掃除してたりすると朝になってしまう。だから理想的なオフの一日というのは、朝早く起きること。朝飯のパンと卵は川の向こうによろず屋があって買いに行ける。朝飯を食べたら川まで降りて散歩。林道があるから川の源流まで歩いていける。近所で遊漁証を年間で買ってる。近所付き合いは大家さんが隣りにいて、その大家さんの親戚に金魚の水を替えてもらったり、寒い日は水道を止めてもらったり、汲み取りやLPガスを手配してもらったり。カレーを多く作ったりすると持って行ったり。ツアーに出るとちょくちょくお土産を買って帰ったりする」

「SUPER STRONG GIRL」で"ゆがんで"見える"メトロポリス"への違和感を表明し、後にミニアルバム『D.E.M.O.』ではジャケットにこの山奥の農家を描き、"誰も知らない僕の生活"と、毅然とした孤立感を歌ったMIYA。インタビューでは埋もれてしまうことへの嫌悪と、匿名でいたいという願望の同居を見せる。武道館を満杯にする人気者のこんなメンタリティーに僕は惹かれた。


1991年 沖縄とタイへの旅

「ひめゆりの塔から国道331号線沿いに少し歩くとサトウキビ畑があった。沖縄ならどこにもである、何の変哲もないサトウキビ畑だ。僕たちは日が暮れるまでのわずかな時間、その畑の中にぽっかり開いた壕(ガマ)に入って過ごした。生と死。それは太陽の国、リゾート地沖縄などとのイメージを植え付けられてきた僕たちには重すぎるキーワードだった」

THE BOOMと自分との関係の中で重要な旅が3つある。ひとつはMIYAとカメラマンの郡司大地くんと一緒に行った1991年、沖縄への旅。もうひとつは同じ年に『思春期』の準備に出かけたバンコク。そしてこれはずっと後のことになるが1996年のブラジルだ。話を1991年の沖縄に戻す。

エセコミで沖縄を特集したい、と手を上げたのはMIYAだった。前年に行われた『JAPANESKA』のジャケット撮影をきっかけに、MIYAは沖縄にのめり込んで行った。知りたいのは学校で習わなかった沖縄の歴史。でもエセコミでどうやって沖縄を取り上げよう。僕らは歴史学者ではないのだ。MIYAが明快な答を持っていた。「それなら、僕らが勉強していく様を見てもらって、読んだ人たちがそれぞれ何かを感じ、意見を持ってもらえたらいいんじゃないか」。その通りだ。それしかできない。MIYAの過密スケジュールの中にぽっと空いた3日間の休暇を利用して、僕らは沖縄に向かった。那覇空港に着くと、まず空港の観光案内所で「いちばん安い宿」を尋ね、一泊一人2,000円という照美荘に決めた。照美荘はその後、ファンの間で有名になる。ある夏、THE BOOMが沖縄でコンサートを開いたときは、本土から駆けつけたファンですべての部屋が埋まり、部屋にありつけなかった人は廊下に布団を敷いて寝たそうだ。

この沖縄の旅で最初に訪れたのが前述のひめゆり平和祈念資料館とその近くにある壕だった。この場所は旅のガイドブックにしていた『観光コースでない沖縄』(高文研)という本で知った。僕らはこの伊原第一外科壕で完全に打ちのめされてしまった。涙が止まらなかった。お互いに目を合わせられなかった。何があったというわけではない。ただ、戦争の恐怖、悲しみが澱のようなものになってその壕を満たしているようだった。そういうのは見えなくても感じるのだ。

那覇に戻り、僕らは国際通りのレゲエバーで遅くまで飲んだ。リズムの裏でポツポツ言葉を交わすスタートだったけど、店が閉まると、今度は路上に座り、持参したラジカセで「ひゃくまんつぶの涙」を何十回もリピートしながら話を続けた。何を話したかは今となっては覚えていない(MIYAが書いた文章で、話の終わりには「来てよかった」と繰り返していたことが確認される)。

この年にはバンコクにも行った。次のアルバム準備のため、という名目で全員楽器を持参した。うまく行けば何曲かデモテープでも、という算段だった。でも、バンコクで僕らが借りたスタジオはあまり良くなかった。雨季のバンコクでは夕方にはスコールがある。遠くで落雷が聞こえるなと思っていたら、突然スタジオの電源がすべて落ちた、ということもあった。スタジオから出ると僕らは雨宿りをしながら電気が回復するのをじっと待った。激しく落ちる雨をみんな無言で見つめながら、こんな時間って東京ではなかったなと少しだけいい気分になった。

スタジオがそんな具合だったので僕らは早々にレコーディングを諦めることになった。MIYAとYAMAさんを誘ってサムイ島まで一泊旅行もした。バンコク滞在組は何をしてたんだろう? わからない。『BOOM BOOK 2』用にインタビューもした。僕だって遊んでいただけではないのだ。しかし、サムイ島でのYAMAさんへのインタビューは、写真共々あまりに弛緩していたのでバンコクでやり直すハメになった。強烈な太陽の下、ビーチでビールを飲みながらの話がまともなものになるわけがない。でもたぶん今のTHE BOOMにあんな時間を持つことはできないだろう。バンコクの喧騒とエネルギーを僕らはゆっくりと肌に染み込ませていった。

「沖縄に興味を持って以来、目はアジアに向いていった。アジアについては何も知識がなかったので、アジアの玄関と言われるバンコクがいいだろうと考えた」。
これは帰国後のMIYAの発言だ。この時期、MIYAは「SPIRITUAL」という言葉を何度も口にしていた。「例えば、ジミー・クリフやジャニス・ジョップリンのような。肉体と精神が分離しないで真に直結している状態、歌」。レゲエと沖縄音楽が重要な要素となった。「おりこうさん」の間奏に、ボブ・マーリィの「ONE LOVE」や「GET UP, STAND UP」が挿入され、"引き裂かれたシャツ/破れた心/気が狂った子供"などといった重量級のフレーズが挟み込まれた。開演前のBGMが沖縄民謡の重鎮、嘉手苅林昌だった。

今ではアルバムを出すごとに言われる「THE BOOMは変わった」という言葉がはじめて聞かれたのもこの時期だった。ロックバンドなんて来たこともない町を周るというコンセプトでこの年行われた「出前ツアー」を経て、THE BOOMは『思春期』へと進んで行った。喜納昌吉との出会い、ジャマイカでの新曲ミックスもあった。「島唄」がこの年の沖縄への旅で生まれた、ということを聞いたのは後のことだった。


1992年 思春期

1月に4枚目のアルバム『思春期』をリリース。
僕は学研の学習雑誌にこんな『思春期』紹介文を書いていた。
「シニカルな現状分析と、自分の無力さを言い訳にして目の前に山積みになった問題に知らん顔する。それが80年代を通して僕たちが身につけたライフスタイルだったし、これまでTHE BOOMの歌もそうだった。内省的な、このままではいられないけど、でもどこに行けばいいのかわからないと歌うリアリティ。踊ってるうちにダブルミーニングに気づくブラックさ。しかし1年4ヶ月ぶりのこのアルバム『思春期』でTHE BOOMは革新的に、未来を目指すのである。手を伸ばせばここが未来さと。レゲエへのこだわり、沖縄音楽への傾倒と、切実に音楽に接してきた彼らの歌がここにある。いつまでもブツブツ言い訳しているワケにはいかないのだ」。

こういう力入りまくりの文章をこの年、僕はバンバン書いていた。『思春期』について、今ではファンの間でもこういうメッセージ性はほとんど話されてはいない。「島唄」が収録されているアルバム、という認識が強いのかもしれない。けれど当時の僕は「ケンカするつもりで聴いて下さい」というMIYAの言葉にどうしても応えたかったのだ。別冊エセコミ「思春期"SPECIAL"」にもそんな想いが詰まっている。

ライブにも凄みを感じた。アルバム以上、というかライブを体験(それはまさに「体験」と呼ぶに相応しい)することによって僕は『思春期』をさらに強く受け取った。「自由に、THE BOOMからも自由になって下さい」とMIYAが歌うのだ。お香が焚かれた会場、開演前にはスクリーンに世界中の子どもたちの顔がさまざまな民族音楽にあわせてスライド上映される。軍艦島の廃墟の映像に、エジプト・カイロのざわめきが重なった瞬間に、スクリーンが落ち、「思春期」が始まる。

思えば1991年、タイから帰国後一発目の有明でのライブだった。「これからのTHE BOOMは"海へ流してくれ"では終わらず、その先を歌っていきたい」とMIYAはステージ上で語った。セカンドアルバム収録の「ダーリン」という曲。これは核戦争後に生き残った昆虫のつがいに"これが二人の未来さ"と語らせ、いやそうであってはいけないんだと考えさせる悲観的な方法論だった。「気球に乗って」や前述のフレーズのある「川の流れは」も、世の中に溢れるどうしようもないことに直面し、自分の無力さを痛感するというパターン。でも、彼らはそうした曲にステージで新たな言葉をつけ加えた。「ダーリン」には、"未来を/希望を/幸せを/大人に/子供に/世界に/僕から君たちへ"である。ボブ・マーリィの言葉を借りれば「UPRISING」なステージだった。覚醒、立ち上がっているのだ。

もう少し当時の自分の文章を続けよう。
「川の流れは誰にも変えられないという無常感。正しく同時代的な気分である。だからこのまま海へ流してくれという虚無感。しかしTHE BOOMはこのままでいることを知らん顔してることをよしとしなかったのである。自然破壊や開発に反対するよりも、自分が生きてるだけで地球を破壊しているのならば生まれたときに自殺するべきだったのでは、といういささか倒錯した悩み。知識が増えるにつれて、行動する前からその結果もわかってしまう。だから何か始めるために、もう一度わからなくなりたい、というまわりくどい決意表明。そういった葛藤を経て、これまでの達観しちゃった分別を捨て、宮沢和史は、THE BOOMはこの『思春期』でモラトリアムの残像に訣別を告げるのである。"おりこうさん"にはならずにタクシーから降りて、自分の足で歩き出したのだ」

ワクワクした。何かが始まる気がした。実際に宮沢和史は動き出した。THE BOOMは無期限活動停止に入り、MIYAはシンガポールに飛んだ。ディック・リーのオペレッタに唯一の日本人キャストとして参加した。

「バナナ」というスラングがある。外の皮が黄色くて中身が白いバナナは、皮膚は黄色なのに心は西洋文化に漂白された人を指す蔑称らしい。多文化、多民族国家シンガポール出身のディック・リーは、しかし自分が「バナナ」であることを認め、肯定する。「だってバナナは美味しいじゃないか」と。そのディック・リーが原作、出演をこなすオリジナルのオペレッタ『ナガランド』が1992年、シンガポール、香港、日本で上演されたのだ。

この出演は雑誌『宝島』誌上の対談がきっかけだった。前年のタイでのレコーディング、この年、外国人就労者をテーマにしたテレビドラマ出演など、アジアへ視野を広げようとしているMIYAの姿勢がディック・リーの共感を得たらしい。対談での「日本を知り、アジアを知るべきなんだ」という彼の言葉、「心の堤防壊そうよ/鎖国が嫌なら今すぐに」と歌ったMIYA。毎年が転機となるTHE BOOMの歴史でも、この『ナガランド』参加は一際大きなターニングポイントとなった。


1993年 FACELESS MAN

突然変異。タイトル通りの顔なし、多種交配音楽。そんな言葉がこれからも雑誌を飾るだろう。ジャンルの多様性。外部のプロデューサー、ミュージシャンの導入で、バンドの枠を取っ払った楽曲群は、これまでの「この4人で音を出すからTHE BOOMなんだ」という約束事をぶっち切っている。『思春期』最後の曲「サラバ」のその後を求めた人は、歌詞の行間から何を見つけ出すことができるのだろうか。前作での、悩み、憂う「僕」はここにはいない。かといって新たな地点に到達し、それを報告しているわけではない。嵐の海に漕ぎ出た「僕」は一体どこに行ったのか。
「答と真実なんてものはあるわけがない。目に見えたもの、手に触れたものが全て真実であると言えるんじゃなかろうか」。これはエセコミでの山口洋との往復書簡の中でのMIYAの言葉だ。このアルバムの中でもMIYAは「手に触れたものは全てリアリティー」と歌う。僕は戸惑っている。しかし「確信」の音はこれまでのTHE BOOMのどの曲よりも力強いのだ。

この年にリリースされた『FACELESS MAN』について当時の僕が書いた文章だ。『思春期』の次の作品なだけに、「サラバ」の決着を求めているかのような印象を受ける。今、読み返すと。でも実際は、とにかくオープニング曲の「いいあんべえ」にやられた。沖縄・バリ島・ラガマフィンをミクスチャーするなんて誰が考える? 喜納昌吉やディック・リーとの出会い、沖縄への傾倒やレゲエへのアプローチという彼らの航路を読み、アイデンティティーのなさをポジティブに考えればこういったミクスチャー路線は必然なのか? でもこのアルバムはTHE BOOMにしか作れないだろう。アイデンティティーなんてない。ひとつのジャンルに奉仕することはできない。拠り所のないことが拠り所。MIYAと同世代の僕にとってこのミクスチャーロックこそが自分の「ルーツ」だった。どこかのインタビューでMIYAが発した言葉、。「自分のルーツは未来にある」。そんな言葉を僕も何度も反芻した。

喜納昌吉&チャンプルーズの『レインボー・ムーブメント』への参加も刺激的だった。1991年にMIYAと一緒に彼らのライブを観に行ったことがある。それはカルチャーショックだった。多摩市ニュータウンの一角に建てられた会場に集まっていたのは、子供連れの家族から高齢の夫婦、僕らのような年齢までとにかく幅広いファン層だった。チャンプルーズはそんな会場中すべてを沸かせ、熱狂させたのだ。

1993年10月23日、沖縄の宜野湾海浜公園で「ニライカナイ」と題されたイベントが行われた。「ニライカナイ」は沖縄の南にあると伝えられる理想郷の名前である。「神様がヒットチャートを作るとしたら彼らの曲が上位を占めるだろう」というこの祭りのコピーも強気だ。その「彼ら」のうち沖縄外から参加したのは、ボガンボス、ソウルフラワー、ゼルダ、THE BOOM。イベントの前後には那覇のスタジオでアルバム『レインボー・ムーブメント』のレコーディングが行われ、飛び入り的に「ニライカナイ」に出演するミュージシャンたちも参加した。当日に現地入りしてライブが終わったらトンボ帰りというイベントではない。THE BOOMもこの時期、約1週間沖縄に滞在している。

10月20日、21日には沖縄市と那覇市でTHE BOOMのライブが行われた。バリの寺院を模したステージセットに南流石率いるダンサーチーム6名も加えた総勢15名のキャストによる壮大なショー。"TOUR FACELESS MAN"だ。コンサートが終わって会場を出ると、出口ではボガンボスとゼルダのジョイントライブを知らせるチラシが配られていた。突発的に企画されたものだ。22時からのレイトショーで終了は午前1時。音楽漬けの幸福な日々だった。

23日の「ニライカナイ」。THE BOOMのステージのハイライトはやはり「島唄」だった。発売と同時に沖縄のヒットチャートで1位を獲得したこの曲は、その後全国に広がった。そして、この日の演奏で僕は確信した。「島唄」はいつか海を越えるだろうと。数年前に多摩のライブで観たチャンプルーズの「花」のように、「島唄」はこの祭りに集まった人々、さまざまな年齢層の人々の心に届き、身体を揺さぶった。表情を見ればわかる。指笛を聞けばわかる。最後尾の芝生席にいた家族が口ずさむ表情を見たときはこちらまで涙ぐみそうになった。
「やっぱり自分の小さい部屋で全部処理しようとしていたんでしょうね。それがいいや、もう出ちゃおう。この家、雨降ってても傘さして踊りながら歩いて行こうなんてなったんじゃないかな」。
この年のMIYAの言葉だ。「思春期」を越えたTHE BOOMのフィールドは格段に広がった。そしてそんな彼らの活動を「島唄」の大ヒットが後押しをした。


1994年 新たな世界地図

この年、僕はこんな文章を書いた。タイトルは「その歌は、こころに触れてくる」。
君がバリ島を旅する時、ふとした偶然でTHE BOOMの曲を耳にすることがあるかもしれない。ウブドゥという名の、MIYAも以前訪れたバリ島山間部にある村を歩いていた。雨宿りに飛び込んだ、ヒンドゥーの神を店の名前にした小さな本屋の中には、注意しなければ聞こえない程の音量で、どこか聞き覚えのある旋律が流れていた。それが何の曲かわかるまで一瞬の時間がかかり、そして僕は思わず飛び上がりそうになるほど驚いた。それは坂本龍一の「安里屋ユンタ」だった。日本から(もちろん沖縄からも)遠く離れたこの地で聴く、そのゆったりした音楽は、神々が棲む島と呼ばれるバリの神秘的な(そして牧歌的な)空気と溶け合い、心地好い空間を作っていた。

「鳥肌や涙を通り越して、僕はまるで呼吸も瞬きも忘れた石像のように固まってしまった。けれども不思議なことに、釘付けになって見入っているにもかかわらず、その間、頭の中は、生まれてから今日までのすべての出来事であふれかえっていた。たった一時間あまりの間に、僕の記憶が残らず蘇ってきた。そう、八百万の神々たちはバリのダンサー達の体を借りて、それまでの僕の一生を、ほんの一時間で洗い流してしまったのだ」(ラティーナ94年6月号)

バリでケチャダンスを観たMIYAのこんな言葉や、新曲「ブランカ」の美しさに誘われた僕はこの年の5月にバリ島を旅した。僕はその旅にTHE BOOMの曲を編集したテープを何本も持参した。食堂、カセット屋、タクシー、ラスタショップ、いろんな場所で、いろんなきっかけから仲良くなった
バリの人たちにこのテープを渡した。インデックスに書いた「旅立ち」を意味するインドネシア語「berangkat」とその音楽に、彼らは皆微笑んだ。沖縄音楽が好きだという前述の本屋の青年にももちろんプレゼントした、。僕は今、東京で想像する。僕が置いてきた何本かのTHE BOOMのテープは今、あの島の空気を震わせているかもしれないと。
君がバリ島を旅する時、ふとした偶然でTHE BOOMの曲を耳にすることがあるかもしれない、というのはそういうことだ。

沖縄から始まったTHE BOOMの音楽の旅は、「ブランカ」でインドネシア・バリ島へ、ジャマイカでのMIYA&YAMI、そのレコーディング後にMIYAが訪れたキューバ、ブラジルへの憧れを歌った「カルナヴァル」と、まさに南下を続けていた。そしてこの年の夏、「CLUB ASIA」でのシンガポール、中国、フィリピンのミュージシャンたちとの共演。「国境を越えてどんな場所でも響く歌」を作り出そうとするTHE BOOMの音楽の旅は終わりそうになかった。エセコミではTHE BOOMの音楽の旅を検証し、新たな世界地図を作ろうと考えていた。
「ブランカ」に誘われてバリ島を旅するファンが急増した。「沖縄、バリ島以来の衝撃」とMIYAが言うキューバはどんな国なのか。「世界一高度かもしれない」と言うラテン音楽とはどんなものなのか。「デジャヴ」や「カルナヴァル」でのボサノヴァやサンバを生んだブラジルとは……。

新しい世界地図を作るTHE BOOMとの旅は楽しかった。僕はもともとバイトの合間に旅に出て、という生活が好きだったのだ。音楽と旅が繋がれば言うことはない。実際、THE BOOMの音楽を羅針盤に進むと次々に豊かな鉱脈にぶち当たった。たとえば、バングラビート。バングラビートについてはエセコミ16号で特集を組んだ。バリ島のガムランとケチャ、ジャマイカのラガマフィン、沖縄音階と沖縄言葉、一曲の中にこれら全てがチャンプルーされた「いいあんべえ」をMIYAは「これからTHE BOOMが歩いていく道筋が一本見えたような、光がパッとさしたような曲」と語っていた。『REMIX MAN』でこの曲にインドのパーカッションやスパイスをふりかけ、無国籍度を増加させたのがバングラビートの第一人者、バリー・サグーだった。80年代、イギリスのアジア人コミュニティから生まれ、ルーツと現代、西洋と東洋をハイブリッドし進化していくこの音楽に、僕はTHE BOOMの音楽的姿勢を投影していた。「CLUB ASIA」前後にはエセコミでバングラビートを特集してきたスタッフと、アジアのダンスミュージックのクラブイベント「BOOMASIA」を開催した。また、抑圧、差別を受けるマイノリティーたちの音楽という背景を知るにつれシンパシーも感じるようになった。東京で最も多国籍な街、歌舞伎町のアジア音楽のクラブに通い、代々木や上野のイラン人コミュニティを取材し、群馬県大泉町のブラジルタウンまで足を伸ばした。
ニューアルバムのタイトルは『極東サンバ』。しかし僕は、極東でのサンバというより、サンバの国での日本人移民のことを想起した。日系移民が多く住むブラジルを知りたいと思った。THE BOOMとは逆方向からながらも僕もブラジルを目指しているようだった。


1995年 砂の岬

1994年11月にリリースされた『極東サンバ』には特殊仕様盤が存在する。限定数の発売だったので今から手に入れるには中古盤屋をこまめに探すしかないだろう。この特殊盤ブックレットには「東京」をテーマに撮影された写真が多数掲載されている。撮影には数多くの人が参加した。僕らスタッフもロケしたり、写真家にコンタクトを取ったりして写真を集めることになった。この作業をしているうちに外国に住む人たちに1994年の「東京」を聴かせたいし、見せたいなあと僕は何となく考え始めていた。

そんなわけでエセコミは「東京」を特集した。新しい世界地図を作る、という異国への興味が、同時に日本の中の多文化にも向かっていった。多国籍街となった新宿、群馬県大泉町のブラジルタウン、バングラデシュ人で賑わうコンサート、こういった取材で僕ら日本人が知らないところで在日外国人の文化が盛り上がっていることを知った。
特に大泉町には何度も足を運んだ。大泉町はブラジル人が約二千人住んでいる、関東最大のブラジル人コミュニティーだ。彼ら向きのレストランや食料品店、衣料店、ディスコなどがある。町自体は寂しい大泉町、その町はずれに位置するディスコは土曜夜だけの営業だ。扉を開けて中に入ると、満員で数百人が踊っていた。10代、20代の若いブラジル人。会話もドリンクメニューもすべてポルトガル語だ。DJが回すのはハウスやヒップホップ。ブラジルのものではなくアメリカ中心。日本語とポルトガル語どちらも話すスタッフに訊くと、アシェーなどのブラジル音楽がかかるのは午前3時半過ぎだそうだ。壁にはパララマス・ド・スセッソというブラジルのスカ/ロックバンドの来日ツアーのスケジュールが貼ってあった。太田市、川崎市、浜松市。主催は在日ブラジル人。

こういった取材のみやげ話をTHE BOOMのメンバーはとても興味深そうに聞いてくれた。翌年の大泉町の夏祭り(サンバ・カーニバルがあるのだ)では、「風になりたい」が祭りのテーマソングとなった。いつかこの町でTHE BOOMが歌ってくれれば、と僕は願ってる。
僕が大泉町にハマるようになったのには、ある偶然の出会いがあったからだ。初めて大泉に行った時のことだ。ディスコへの道順を尋ねた日系三世の少年と自己紹介を交わしたら、彼と僕は同じ苗字だったのだ。ほとんど日本語が話せない彼と「もしかして親戚じゃないの!」と、それだけのことで僕はすごく親近感を得た。

僕の曽祖父は明治の時期にアメリカに出稼ぎに行ってたそうだ。曽祖父の出身地である港町ではこうした海外への出稼ぎや移民が珍しいことではなかったようだ。はるか昔に海を渡った日本人移民は、その過酷な体験から「移民」ではなく「棄民」と思われがちだ。しかし僕には彼らには国境を越え、見知らぬ土地を目指すことに対する「ロマン」がどこかにあったと思う。

この「移民」というテーマは、THE BOOMのメンバーから特集しようという提案があった。海外には沖縄出身者の移民が多いこと(ある資料は沖縄の地理的な理由や経済的な事情のほかに、ウチナンチュの楽観的で細かいことにこだわらず、現地にスムーズに溶け込める気質が移民に向いていたのではと分析している)や、ブラジルにもっとも多くの日系人が暮らしているという事実は、図らずもTHE BOOMキャラバン隊の「南下」とシンクロしているようで興味深かった。南米ボリビアには「コロニア・オキナワ」と地図に記された村だってあるのだ。戦後、沖縄からの移民が開拓したこの村を取材したライター与那原恵さんや、サンパウロの日系新聞に勤める藤崎康夫さんにもお会いしエセコミへの執筆をお願いする。移民へのイメージがどんどん膨らんでいく。

そして「砂の岬」だ。この夏、シモーネ・モレーノの東京公演でTHE BOOMは「風になりたい」を彼女と共演した。そのアンコールで彼女が歌ったのが「砂の岬(ポンタ・デ・アレイア)」だった。
数ヶ月後、THE BOOMはこの曲をレコーディングする。我如古より子さんの歌、三線やガムランによるアレンジがなされたそのヴァージョンは、地球の裏側で生まれた音楽とは信じられない、アジアの旋律となって生まれ変わった。歌詞はフェルナンド・ブランチの原詞を元にMIYAが日本語で書いている。17世紀、ゴールドラッシュ期のブラジル・ミナス州へはアフリカから黒人が奴隷として連れてこられた。彼らは港のあるバイーアから内陸のミナスまで鉄道で運ばれた。海のないミナスに運ばれた彼らには遙かな故郷の海が見える。そんな歌詞をMIYAはこんな想いを込めて、美しい日本語詞にした。
「僕は日本を離れてブラジルで暮らし、大地を耕して頑張っている人たちや、故郷を離れていろんな町で暮らしている人が聴いても感じられるような歌にしたかった」。極東とブラジルがはっきりと繋がったのが見えた。


1996年 ブラジル

ブラジルに行きたかった。THE BOOMのライブを海外で観たことはある。1994年のシンガポール。だけどそれはファンクラブ向けのイベントだったし、実際会場のディスコを埋めたのは日本からのファンがほとんどだった。
1996年2月、『極東サンバ』のブラジル盤が発売された。もちろんブラジルで。前年7月には東京でシモーネ・モレーノと共演。THE BOOMにとって念願のブラジルツアーの準備が始まっていた。

僕は僕なりに大変だった。ブラジルにはどうしても行きたかった。でも、ただ観に行くというわけにはいかない。かといって僕は通訳にもなれないし、機材のケアもできない。文系はこういう時に役に立たない。だから、ブラジルツアーをまとめた写真集を作りたい、という気持ちをまとめて企画書を作った。だって地球の裏側まで行けないファンのために、どんなツアーだったか報告したいじゃないですか。なんてことを書くわけですよ。

総勢50名以上の大所帯となったツアー一行の中で、写真集チームはカメラマンとライターと編集の僕という三人組。カメラは極東ツアーからお願いしている仁礼博さんに決めていた。ニューヨークに居を構え、ジャマイカで撮影を続けていたドレッドヘアの仁礼さんなら地球の果てだって撮影ができる。もちろん写真は素晴らしい。長谷川博一さんは僕が高校時代に影響を受けた雑誌の編集者だった。その博識と音楽への愛情は、彼の著作『ミスター・アウトサイダー』(大栄出版)を読めばわかる。これほど面白いミュージシャンへのインタビュー集はない。
3週間近い旅程だから準備も必要だし、事前にお互いのことを知る必要もある。僕らは出発の数週間前に青山のブラジルレストラン「サバス東京」で顔を合わせた。打ち合わせはそこそこに、なぜか長谷川さんと一緒だったヒートウェイヴ山口洋も連れてその夜は飲み歩くことになった。絶品のマグロを出すバーでセッションをし(ギターと奇妙な打楽器があった)、原宿のレゲエクラブで踊った(平日だというのに客がいっぱいだった)。なんだかよくわからない夜だったけど、写真集は上手くいくんじゃないかと思った。

ブラジルは危険だ、というのがブラジル経験者の言葉だった。曰く、ひとり歩きは絶対にするな。ライブ会場での撮影はボディーガードを雇え云々。でもまあ僕だってかなりやばい時期のペルーに1ヶ月いたこともあったんで、なんとかなるんじゃないかと思ってた。

初日、サルヴァドールに到着すると写真集チームもガイドとボディーガードを雇った。サルヴァドールに日本語のガイドは少ない。ガイドのルイスさんはポルトガル語と英語。ボディーガードはポルトガル語を話すパウロ(彼には敬称略)。パウロの仕事っぷりがすごかった。ホテルの周りの撮影(ホテル裏の浜辺には絶対にひとりで行くなとホテルスタッフからも厳命されていた)で、しかめっつらで左右前後を見張りながら僕らをガードしていたパウロは、この日のライブ会場に行く前に僕らの前から消えてしまった。きっと夕食の準備でもあったんだろう。でも、めんどくさいからいいやと思った。まあなんとかなるでしょうと。実際なんとかなるものだ。詳しくはブラジル写真集とエセコミ23号を読んでもらえばわかる。

地元の日系人が多く詰めかけたサンパウロのライブはTHE BOOM史上最高のものになった。僕が観た数百本の彼らのライブの中でも最高のものだった。その夜のことを僕のメモはこう記している。

奇跡的な夜だった。ジョビンが降りてきたのかもしれない。トム・ジョビンの名を冠した会場でのコンサート。会場には日系人の若者を中心に多くの人が集まってくれた。最初の音が出た瞬間から、沸騰したかのような興奮状態。メンバーも観客のパワーに相乗してボルテージが上がっていった。
「島唄」の浸透ぶりは想像以上だ。想像以上、というよりブラジルで「島唄」を待ち望んでいる人がこんなにいるなんてまったく予想していなかった。僕らはあのイントロで頂点に達してしまった。僕は、もちろんそれまでも感動で泣きっぱなしだったんだけど(ブラジルに来てからお互い指摘しあっていた孝至くんも泣いていたから別に恥ずかしくないんだ)、このときの涙はもうぬぐう気にもならないほど大量だったし、気持ちいいものだった。信じられる? 地球の裏側で指笛が吹かれ、カチャーシーが始まり、大合唱がおこるなんて。沖縄宜野湾でのコンサートよりも大きな(つまり最大の、という意味だ)歓喜の声を僕らはあげた。あの瞬間、僕らは南米で最高に幸せなキャラバンとなった。
ブラジル最後の曲は「そばにいたい」。サンパウロを満たし、アマゾンを渡り、アンデスを越えていくような力強く、美しいMIYAの歌声。僕はここにいたことを感謝した。またサンパウロでコンサートを開きます。MIYAがステージで何度も言ってたことだからたぶん実現されるでしょう。近いうちに。

この夜、僕はもう一度泣いてしまう。ホテルのレストランで遅い夕食をメンバー、スタッフでとったあと、部屋に戻るエレベーターでMIYAと二人っきりになった。16階まで上昇する間に僕は、どれだけライブが素晴らしかったか、僕がいかに感動したかをMIYAに伝えた。喋っているうちになぜか感極まってエレベーターから降りると自分の部屋に飛び込み、一足先に日本に帰っていたプロデューサーの佐藤剛さんに国際電話を衝動的にかけ(こういうときドンピシャで電話が繋がるのはすごく気持ちいい)、「すごかったんです、すごかったんです」と文系にあるまじき支離滅裂なライブ報告をして、それから枕に突っ伏して2分間は泣いた。まさに「至福の瞬間」を味わった夜だったのだ。


1997年 ロンドン

1996年がブラジルなら1997年はロンドンだった。今度も仁礼博さんと一緒の旅だった。思えば97年最初の仕事も仁礼さんとコンビを組んでいた。1月のトロピカライズ・ツアーのファイナル、武道館公演。ビデオ『TROPICALISM -0 LIVE』のジャケットはこのライブ終了直後の撮影だ。ライブが終わった直後の表情を撮りたい。すべてを放出した後の、高揚感と安堵感、充足感に音楽への敬意。そういった感情を映し出せれば、と僕らは狙っていた。しかし武道館は広い。ステージを降りたメンバーが興奮状態にあることは想像できる。撮影場所に借りた楽屋近くの部屋までどうやって彼らのテンションを下げずに、誘導できるか。いわゆる「段取り」がこの撮影の勝負を決めると考えていた。僕らはリハーサルを繰り返した。誰が扉を開いておくか、エレベーターを待機させておく係は、いや、エレベーター内の4人も撮影したい、そうなると「開」ボタンを押すのはメンバーの誰にお願いするのか、撮影の順番は……。

凄みのある写真が撮れたと思う。MIYAがマイクで唇を深く切り、血が吹き出したというアクシデントもTHE BOOMの底力を発揮させる起爆剤になった。素晴らしいライブを終えた直後のミュージシャンの表情が記録された。

この武道館以来、THE BOOMは国内でのライブを行っていない。2月にフランス・カンヌであったイベント、7月にはドイツ、スイスのライブ、僕はどちらにも同行していない。ドイツとスイスには行く予定でいたのに体調を崩して断念した。仁礼さんはスカパラのタイのツアーに同行し、バンコクから直接ドイツに飛んで撮影した。秋になるとMIYAはソロアルバムのレコーディングにロンドンへ。
最初、僕はロンドンに行くつもりはなかった。この年の春から始めた極東ラジオの仕事が楽しかったせいもある。紙モノの編集とは違った、立体的な(当たり前だけど音楽付きの)番組作りが新鮮だった。特に海外レコーディングでMIYAが留守にする間は「代打」のDJと、一層真剣に番組作りを考えなくてはならなかった。

ロンドンに行くことに決めたきっかけは単純だ。仁礼さんから電話があり、「行こうよ」と誘われたからだ。撮影ができるあてはなかった。レコーディング中にロケの時間はない。ないだろうと思っていた。まして海外。でも幸いなことにこの時期、ロンドン便が最も安い時期だったのだ。ロンドン往復で5万円台。スタッフ用に借りているフラットに空いてるベッドがあるという話もありがたかった。まあなんとかなるだろう。僕はレコーディングの現場を見たことがないのだ。それに最高の旅の友もいる。

ロンドンに着くとすぐに僕らはスタジオに向かった、。『Sixteenth Moon』のレコーディングも佳境に入った時期で、その日はスタジオを移動しながらの作業中だった。偶然にもその日使っていたのは屋敷豪太さんのスタジオで、また偶然にも豪太さんはタイから帰国したばかりだった。僕は昔、エセコミでインタビューしたことがある。仁礼さんはMUTE BEAT時代の豪太さんを知っていた。こういう偶然ってなかなかない。MIYAも僕らの来訪を喜んでくれていたようだ。

東京にいるとき以上の規則正しい生活で、連日スタジオでのMIYAを追った。MIYAは一度仕事に集中すると、トイレ以外はスタジオからまったく出てこない。レコーディングのペースが掴めるようになると僕らはロンドンの友人を案内役にロケハンを始めた。撮影の時間は週末の休日一日しかないのだ。時間を無駄にはできない。ロンドンまで来た役得もあった。出来上がったばかりの曲をスタジオの最高の音で聴く瞬間だ。

MIYAのフラットで、ブラジルでレコーディングする曲のデモも聴かせてもらった。ロンドンの街中でMIYAを撮影した日のことだ。年末、日照時間の短いロンドンで効率よく撮影するルートを僕らは事前に何度もチェックし、なぞっていた。まずは迎えに行き、フラットで撮影。次に地下鉄でリバプール・ストリート駅まで移動。週末だけのフリーマーケットを覗き、裏通りを抜け、駅のカフェで軽食。そしてハイライトのバンク・オブ・イングランド前での撮影。ツアーパンフの表紙となった作品だ。

これらロンドンで撮影した写真は、その後、銀座・山野楽器店で長期間に渡る展示をすることができた。地方から観に来てくれた人、何度も訪れたくれた人、感想が書き込まれたノートは6冊にもなった。MIYAからはこんなコメントをもらった。
「僕の大好きなカメラマン仁礼さんが、僕のレコーディング作業とか、ロンドンでの生活とか、ロンドンの町を歩いてるとことかですね、そういうのを撮ってくれました。シリアスな中に熱さとか興奮とかがあってというレコーディングの毎日を仁礼さんの写真が物語ってくれます。僕は語らなくていい。写真だけで伝わった」。
1997年に僕がTHE BOOMに関わったのは、この仁礼さんとの撮影仕事2本だけだったけれど、どちらも満足している。僕の部屋には今もロンドンで撮影した写真が額に入れて飾られてる。


1998年 極東ラジオとAFROSICK

今だから言えることだけど、というか既にMIYA自ら番組内でバラしてしまったけれど、1998年1月放送の極東ラジオ5本文はすべて97年の年末に貯め録りしたものだった。『Sixteenth Moon』のレコーディングをロンドンで終えるとMIYAはそのままブラジル・サルヴァドールに直行。カルリーニョス・ブラウンとのセッションを録り、クリスマスの週に帰国。そして年明けからすぐにリオデジャネイロでマルコス・スザーノ組のセッション。その隙間でのラジオ収録である。

僕らはその5週分の収録にそれぞれ「ヒュー・パジャム」、「ダブ」「ポップ・ブラジレイロ」「THE BOOM」「カバーソング」と5つのテーマを立てていた。頭の中はきっとブラジルに置いてきているはずなのに、日本での発売は『Sixteenth Moon』ですら3ヶ月も先。こういう時のミュージシャンはかわいそうだ。放送内容とタイムラグがありすぎる。それでもどんな雑誌で読むよりも、いち早くMIYAの口から直接レコーディングの様子を聞けるのは大きな役得だった。たとえば『Sixteenth Moon』のプロデューサー、ヒュー・パジャムに関するエピソード。
「ヒューに最初に会ってミーティングした時に、10年前に東京ドームでスティングを観て(ヒュー・パジャムはスティングのプロデューサーでもある)、その日にそれまで付き合っていた女の子とも別れて、その日から僕の人生が変わったんだって話をして、だからあなたとやることは意義のあることなんだよ、一つ頼むって。そう話したら彼も急に手綱をしめたことがありました(笑)」。
最高だ。崇高ささえ感じるあのアルバムの裏にあるヒューマン・ドラマをMIYA自らが惜しげもなく披露してくれる。

極東ラジオの選曲は完全にMIYAに任せられている。スポンサーの絡みもラジオ局からのヘビーローテーションというのもなし。だから今流行りの曲だけだの洋楽だけだのといった選曲の決まりもない。だいたいこの放送局自体、関西の在日外国人を対象にした多言語放送局なのだ。国境も新旧も関係なく素晴らしい音楽だけを紹介できる。こんないい番組はない。
この年は特にブラジルものを紹介することが多かった。『AFROSICK』参加ミュージシャンのマルコスやレニーニはもちろん、彼らよりさらに若い新世代のブラジル・ミュージシャンまで紹介した。マルコスとフェルナンド・モウラは出演もしてくれた。
「『AFROSICK』に参加しているミュージシャンたちは、決してブラジルの音楽だけをピックアップするわけじゃなくて、ルーツももちろん大切だけど他の音楽と混ぜてもいいんじゃないかっていう考えを持ってる。ブラジルの打楽器とギターを一緒に使っても音楽になる。グローバリゼーションの時代の音楽と言えるものを彼らは作っている。だからMIYAZAWAとのコラボレーションは絶対うまくいくはずだし、うまくいってるんだ」(フェルナンド・モウラ)

『AFROSICK』に刺激を受け、この年、もう一つ僕が熱中したのは『AFROSICK』のホームページのコンテンツ制作だった。インターネット
を使える人はぜひアクセスしてほしい。AFRO.TIPSというコーナーは特に心血を注いだ。ここには『AFROSICK』に関するあらゆる情報、リンクが網羅されてる。手に入れたニュースがどんどん集積されていくのだ。ざっと、面白そうなものをピックアップすると、

◎ 9月28日(月)、サンパウロでの宮沢のスケジュール。昼12時30分よりホテルの会議室にて取材開始。新聞や音楽雑誌、電話インタビューなど、その数は合計9本 。この後、週に一回レギュラーコーナーを持つ、FM IMPRENSA「ラジオニッケイ」に現地時間22時より生出演です。( 1998年9月29日着)
◎ AFROSICK日本公演即日ソールドアウトについての宮沢のコメント。
「AFROSICKのホームページの方でも、ライヴをやってくれという声が多かったんで、じゃあ僕らもやるか!と進めてきたんですが、ここまで熱くみなさんが待っててくれると非常に嬉しくて、いいライヴにしたいなと思っています。みなさん楽しみにしてください」。9月6日放送の極東ラジオより。
(1998年9月10日着)
◎ 「ラティーナ」8月号巻頭でレニーニ&スザーノのインタビュー。ペドロ・ ルイス&パレーヂのリオにおけるライヴ・レポートなど。ディスクガイド欄では「ことさらブラジルを意識せず、いつものままの自分の音楽で臨み、それをブラジル勢が全身で受け止め全霊で答えたことによって、宮沢和史の音楽自体のユニヴァーサルなポップ性も浮き彫りにされた」と中原仁氏が『AFROSICK』を紹介。(1998年7月15日着)
◎ 「WHAT'S IN? ES」8月号に宮沢とレニーニの対談掲載。THE BOOMの1996年リオ公演をレニーニが客席で観ていた話など二人の出会いから『AFROSICK』への軌跡が語られています。インタビュアーは宮子和眞氏。〈THE BOOMのステージをリオで初めて観たときに、コスモポリタン的なところがすごく印象に残っていて、これは自分がずっと言い続けていることなんだけど、地域とか国とか人種とかジャンルとか、そういうような考え方をせずに、惑星的に、地球規模でものを考えるべきなんじゃないかと思うんだ。ファンクとかレゲエとか、孤立した考え方はバカらしいよ。そういう僕と同じ考えをしている人が世の中にはいるんだということを、THE BOOMのステージでも感じたのさ〉(レニーニ)(1998年7月1日着)

現在、この項の総文字数は4万字を越えている。あらゆる症例をファイルし研究する解剖学者のように、AFROSICKに関するニュースや発言、リンク、画像を集めているからだ。THE BOOMが活動を再開した1999年も僕はこの項の更新をやめないつもりだ。沼澤尚さんの新作は日本でのAFROSICKの新たな発症例だ。ロンドンでもドイツでもAFROSICKが感染したのがわかった。「ひゃくまんつぶの涙」から始まったTHE BOOMの沖縄へのアプローチが今でも新たな展開を続けているように、AFROSICKというプロジェクトも終わったわけではない。THE BOOMの音楽に終着駅はない。そこが僕が彼らを置い続けている理由なのだ。(エセコミ編集長 杉山敦)

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