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〈追記あり〉群馬県大泉町、日本のブラジル・タウン(1995年取材)

(以下は、THE BOOMファンクラブ季刊誌「エセコミ」19号(1995年)に僕が書いた、日系ブラジル人が多く暮らす群馬県大泉町を初訪問したときに書いた記事です。そして1997年6月発行の26号にもさらに詳しい大泉町レポートを掲載したので、この文末に画像でですが、追加します。とてもよい文章とイラストなのでぜひ読んでほしいです。僕らはこんなふうに日本の中でそれまで知らなかった文化に触れ、自分たちの好きな音楽が彼ら彼女たちに届くことを夢見てワクワクしていました。)

1989年に南米ペルーを旅し、首都リマのYMCAに泊まったとき、そこの本棚で日本語の本を見つけた。それは沖縄からの移民○周年(忘れてしまった)を記念して、ペルーの沖縄県人会が編んだ移民の記録だった。がらんとしたドミトリーのベッドに腰かけて、僕はその本を読みふけった。

日本から南北アメリカ大陸への移民は約100年前に始まった。フジモリ大統領(当時)やディアマンテスのアルベルト城間も、日本からペルーへ渡った移民の子孫だ。僕の曾祖父もアメリカで長いこと出稼ぎで働いていたと聞いていた。

数ヶ月も船に揺られ、着いた異国で土地を切り拓き、生活する。いろんな事情があったにせよ、明治の時代に海を渡った勇気ある彼ら移民を僕は尊敬するし、時々その暮らしを想像する。

アルベルトの育ったリマでは沖縄県人会の集まりがあり、沖縄の民謡を祖父母から子守唄がわりに聴いていたという。ブラジル・サンパウロの東洋人街や、アメリカのロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどにも日本人町があり、日本の書店、日本料理店など日本語で用が足せる店が固まっている。サンフランシスコのジャパンタウンでは、日系の老人たちがサロンに集まって話している光景を見たことがある。

この十年の間、ペルーやブラジル、コロンビアなどの南米の国々から、日系人を中心に多くのラティーノスが日本に働きに来ている。百年前とは逆のルートだ。その最大の理由は経済力の逆転だろうが、そういうことはこの原稿では触れられない。日本からの移民がサンパウロやリマに作ったようなコミュニティが、今度は逆に日本にもできたのだろうかというのが僕の興味の対象だ。そこでは本場の南米料理や音楽を体験できるんじゃないかという期待もあった。群馬県と静岡県の浜松周辺、そして神奈川県川崎周辺に彼らが多く住んでいると聞いていた。群馬に日系ブラジル人が多いというのは、ディアマンテスが高崎市にある日系の小学生サッカーチームのために「勝利の歌」という曲を書いたことでも知っていた。

群馬県大泉町にあるブラジル人コミュニティのことが、音楽雑誌『ラティーナ』94年2月号にレポートされていた(みやたしん氏執筆)。この中のデータを簡単におさらいしてみる。日本に住んでいるブラジル人は14万6千人、ペルーからは3万2千人。そのうち群馬県大泉町にブラジル人が千七百人、隣接する太田市には二千百人が住み、ペルー人もそれぞれ三百四十人、二百人が住んでいて、彼らの大半は太田市と大泉町にある工場で働いている。大泉町には彼ら向けのレストランや食料品店、衣料店、ディスコなどがあり、土曜の夜は関東全域から訪れる在日ブラジル人で賑わう。

ということで、僕らももちろん土曜の夜に大泉に行くことにした。ブラジル料理を期待して空腹のままで!

東京から関越自動車道で約1時間半。埼玉を抜けて群馬県に入ると道路沿いはほとんど田んぼ。灯りが見えるのはモーテルのネオンとコンビニぐらいだ。

大泉町には午前12時半過ぎに到着。深夜なので開いているのはレストランのみ。メイン・ストリートにある「TOKA」という小さな店に決めた。緑を基調にしたカフェテリアのような店で、通りに面した大きなガラス窓には「PASTELARIA」と描かれている。パステル専門店という意味だそうだ。パステルとは、ブラジルの揚げスナックのようなもの。ひき肉などを薄いパイ皮で包んで揚げてある。

壁に貼られているメニューやチラシ、ポスターなどはすべてポルトガル語。まだ20代後半と思われる店長と、キッチンで働く女性も日系ブラジル人らしい。入口近くに日系らしき中年男性たちが、ビールを飲みながら真剣にカードを配ってる。会話もポルトガル語だ。店内の公衆電話にはITJやKDDなど国際電話に関するポルトガル語のインフォメーション・ステッカーが貼ってあった。置いてあるタウン誌や公報もポルトガル語。『ARIGATO』というタブロイド新聞は、表紙カラー、12ページで群馬県内の情報を紹介している。ブラジル・レストラン、レンタルビデオ店、銀行などの広告も多いし、掲載されていた大泉町の地図には40軒以上のブラジル関係の店が記されている。まさにここはブラジル・タウンだ。

カウンターに座る20代の男性客に話しかけてみた。持参した、THE BOOMのインタビューが大きく掲載されたポルトガル語の新聞「インターナショナル・プレス」を見せる。

「ほら、彼(宮沢)はカエターノとかマリア・ベターニアが好きなんだよ」

「カエターノ、いいね」と店長が口を挟んだ。「僕は去年ジョイスのライブに行った」と僕。「ジョイス!」と店長。「THE BOOMのアルバムにはトニーニョ・オルタも参加してるんです」「トニーニョ!」

ミュージシャンの名前は世界共通語だ。カウンターの男性客はバンドを組んで近所の店で演奏していたらしい。店長が奥から白いアコースティック・ギターを引っ張り出して来て彼に渡した。錆びかけた弦を苦労してチューニングすると、「私、キーボードだから、ね」と照れくさそうに笑う。「イパネマの娘」、「ラ・バンバ」、「ランバダ」「イエスタディ」と弾き語りをしてくれた。ふとカウンターの中を覗くと店長と女の子がいちゃついてる。

店長にこの時間でもブラジルの音楽が聴ける店があるかと訊いてみると、親切に電話でいくつか問い合わせてくれた。太田市にあるレストランが、今から行けば演奏をしてくれるという。でも午前1時過ぎに自分たちだけのために演奏してもらってもなぁという気になって、店長にお礼を言い、ブラジル人が集まるというディスコに向かう。

大泉町自体寂しいところだが、ディスコはさらに町はずれにあるようだ。地図を見ながら車で向かうがそれらしい店を発見できない。どうやら通り過ぎてしまったようだが、道の両側には田んぼと工場しかないところで見落とすわけはない。来た道を引き返すと工場近くの道路の両側にずらっと百メートル近くに渡って乗用車が停められているのに気づいた。夜勤労働者の車なら敷地内に停めるだろう。ディスコ客の車かもしれない。

目を凝らして暗闇の中を見ると確かにある。ネオンなし、看板なし。エントランスはプレハブの倉庫のよう。しかしズンズンと下腹に響く低音が漏れている。入場料は男性三千円、女性千五百円。並んでる日本人顔の少年グループも会話はポルトガル語だ。

扉を開けてストロボが点滅する中に入ると、熱気で眼鏡が一瞬にして曇った。満員。20代の客が多い。一目でブラジル人とわかる容姿の人も(美男美女が多い!)、日本人顔でコギャルみたいな格好の女の子のグループもポルトガル語で会話している。男性はTシャツにジーンズという普段着も多いが、女性は露出度が高くボディコンシャスな服でエッチ。スタッフもDJも日系人。DJが曲間に挟むポルトガル語に反応できないのは僕たちだけだ。おまけにリズム感がよくスタイルがいい彼ら彼女たちに混ざって踊るには正直なところ抵抗さえ感じてしまう。

DJがまわすレコードはハウスやヒップホップ。ブラジルのものではなくアメリカの音楽が中心だった。宮沢和史がリオデジャネイロで入ったディスコの選曲もそうだったと聞いてたから、これが若いブラジル人の好みなんだろう。アシェーなどのブラジル音楽がかかるのは午前3時半過ぎからだという。午前3時半!

この夜のディスコ入場者数は三百九十五人。その98%がブラジル人。営業は毎週土曜だけで、群馬からだけではなく関東全域からブラジル人が車で集まってくるそうだ。ところで、群馬に住む日本の若者は土曜の夜、どこで遊んでるんだろう?

出口近くの壁にはパララマス・ド・スセッソというブラジルのスカ/ロックバンド(人気があるそうだ。僕は知らなかった)の来日ツアーの告知チラシが貼ってあった。ゴールデンウィークに群馬県太田市、神奈川県川崎市、静岡県浜松市の三都市だけでコンサートを行なうと書いてある。主催も在日ブラジル人たち。

大泉町に来るまで、僕はこれほど多くのブラジル人たち(日系人も含む)に会ったことはなかった。ポルトガル語ばかりのレストラン、ブラジル人ばかりのディスコ。「ここ日本なの?」と何度も思った。「ブラジル人ってこんなに夜を楽しんでるんだ!」と驚いた。

僕が今までテレビや新聞で触れてきた在日外国人に関するニュースはいつもネガティヴなものばかりだった。不法就労、密入国、オーバーステイ、犯罪、貧しさ、3K労働……。在日外国人は金のために日本人が嫌がるような劣悪な環境で働き、国への送金のためにひっそりと倹約生活をしている、という先入観。そういったものは今回の取材で次々と崩れていった。だって車でディスコに乗り付けて、朝まで踊ってるんだ。ネガティヴな先入観をいつまでも抱いてるより、日本の中の外国で一緒に遊んだほうがずっと楽しいではないか。僕はそんなことを考えていた。


(1995年、「エセコミ・ニッポンのガイジン part 2特集」第19号掲載。同号に掲載された別記事「バングラデシュ人が主催するペルシャン・ポップの人気歌手ルナ・ライラ。会場には千人を超えるバングラデシュ人が集まった」(1995年、河原崎禎紀)との併読をお勧めします)


■ 1997年「エセコミ」26号掲載 極東サンバの町 ブラジル・タウン、群馬県大泉町の夏と冬(文=伊藤めぐみ、絵=大槻紀子)

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