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宮沢和史と「島唄」


宮沢和史と沖縄民謡との出会い

〈僕が沖縄に興味を持つきっかけは、やはり音楽だった。沖縄から帰ってきた知り合いが民謡のカセットテープを何本かくれた。それを僕は夢中になって聴いた。家にいるときは毎日、エンドレスでそのテープを聴いていた。ひとつの音楽スタイルにそれほどのめり込んでいったのは久しぶりだった。高校の頃、ボブ・マーリィやブラック・ウフルーといったレゲエ・ミュージックにはまったときの感触に似ていた。そういえばレゲエも、カリブに浮かぶ小さい島ジャマイカから生まれて、後に全世界へと広まっていった。そんなところは、どこか沖縄の音楽と相通じるものがあるような気がする。〉(宮沢和史『言の葉摘み』)

インターネット上にひとつのリストが残っています。THE BOOMデビュー直後の1989年から91年にかけて放送されていた、宮沢和史選曲の音楽番組「サカナラジオ」オンエア曲リストです。この番組で沖縄民謡が初めて流れたのは、1990年6月の放送。坂本龍一と、細野晴臣、多嘉良美子(沖縄の民謡歌手)、それぞれによる沖縄民謡「安里屋ユンタ」の聞き比べ。さらにアン小スターズ(沖縄)と、坂本龍一の「てぃんさぐぬ花」聞き比べが続きました。

デビュー直後のスカやロック、フォークといったTHE BOOMのイメージから遠く離れた沖縄民謡に、宮沢が当時から惹かれていたことと、坂本龍一や細野晴臣ら、宮沢が学生時代から敬愛していた本土のミュージシャンたちを通して沖縄に触れていたことが、この選曲から推測されます。80年代にYMOとして宮沢に多大な影響を与えた彼らは、早くから沖縄音楽を自分の作品に取り入れ、本土に紹介してきた先駆者でもありました(細野晴臣による「安里屋ユンタ」は1978年のアルバム『はらいそ』に収録)。また、1976年には喜納昌吉の「ハイサイおじさん」が全国で大ヒットし、宮沢はこれらの曲が「沖縄の音楽とは認識していなかったものの、自分に刷り込まれていた」と振り返っています。

1990年、偶然手にしたカセットテープをきっかけに、沖縄民謡は宮沢の中に水のように浸透していきました。三線の音色、沖縄民謡の節に、取り憑かれたように魅了され、一日中、繰り返し、すり切れるほどカセットテープを聴く日々が続きました。「淡々と時を刻んでいく気持ちよさ、永遠に聴いていたいという気持ちがあり、カセットのノイズも含めて衝撃でした」「沖縄音楽をくり返し聴いているうちに底知れぬ懐かしさがなぜか込みあげてきて、涙が止まらない。僕はむさぼるように沖縄音楽を聴き始めた」と語っています。

沖縄音楽への傾倒は、沖縄の文化や歴史への興味に繋がっていきました。

「島唄」の誕生

〈十数年前、僕はそこ(ひめゆり平和祈念資料館)で沖縄戦で生き残った方達から沖縄戦で起こった事実を聞き、あの歌を書いた。殺されたり、病で亡くなったり、自決したりした人達の無念。そうさせたものへの怒り、無力感があの歌を書かせた。〉(宮沢和史『言の葉摘み』2006年)

1991年2月20日、宮沢和史はファンクラブ誌の取材で沖縄に出かけました。編集者と友人のカメラマンと3人だけの旅。那覇空港に着いて空港の案内所で「いちばん安い宿」を尋ね、国際通りから少し引っ込んだところにある、ひとり一泊二千円の民宿に決め、宿に荷を下ろすとすぐにバスを乗り継ぎ、本島南部にあるひめゆりの塔に向かいました。

ひめゆりの塔の側にある平和祈念資料館には、沖縄戦で学徒動員され犠牲となった女生徒たちの遺品や遺影が展示されていて、当時学徒動員で戦争を体験した女性が、沖縄戦の状況を説明してくれました。「(自分が)逃げる時に怪我をした友だちを置いて行かなければならなかった。戦争のことをこうやって語るのはつらいけど、黙っていたら天国に行った友だちや兵隊さんたちに顔向けができない」と、彼女は話の最後に付け加えました。

「歴史として沖縄戦のことはもちろん知っていました。でも、ひめゆり平和祈念資料館で当時の話を聞いて、怒りがたくさん込み上げてきたんです。いろんなものに対する怒りでした。島民の四分の一にあたる20万人が亡くなったことや、集団自決という事実があったことも僕は知らなかった。怒りの矛先が自分にも向かったんです。どうして僕は知らなかったんだ、こんな大事なことを、と。この怒りを鎮めるには、僕が感じたようなことをひとりでも多くの人に伝えたいと思ったし、戦争体験をたくさん話してくれた、ひめゆり平和祈念館の女性に贈る曲を作りたいという気持ちで東京に帰り、『島唄』を作りました」(宮沢和史『music SOUP』2011年)

資料館を出て、国道331号線沿いに少し歩くと、サトウキビ(沖縄の言葉で「ウージ」)畑が広がっていました。その中に、ぽっかりと開いた防空壕(伊原第一外科壕)の中に宮沢は降り、夕暮れまでの時間を過ごしました。戦火に追われたひめゆり学徒たちはここに避難し、戦傷兵の看病をし、1945年6月17日、落ちた砲弾で多くが犠牲となりました。サトウキビ畑の下に今も残された防空壕が訴える無言の悲しみ、この光景が「島唄」のモチーフになっています。

「東京に帰って曲を作り、自分でもいいものができたという手応えがありました。覚え立ての三線を弾いて録音したんですけど。でも、待てよ、僕は沖縄の人間ではないし、僕のような人間がこれを発表するのはどうなんだろうと悩んだんです。今から20年前は沖縄とヤマトの間には見えない文化的な壁が存在していて、それを勝手に越えていいものだろうかという葛藤があったんです」

「そんなときに喜納昌吉さんと出会うことができ、話ができたんです。昌吉さんもロックと沖縄民謡を融合させて新しい音楽を創ろうとしている人で、まさにその見えない壁をおれたちも越えてヤマトに向かうんだと、だから君もその壁を越えて沖縄に飛び込んできなさい、もし君が魂までコピーをすることができたらそれはもう真似じゃない、どんどんやりなさいと背中を押してくれました。その言葉で、僕はこれを発表することによって何が起こるかわからないけど世に出そうと決心したんです」(宮沢和史『music SOUP』2011年)

「島唄」は1992年1月にリリースされたTHE BOOM4枚目のアルバム『思春期』に収録されました。同年12月、「いつか自主製作テープとしてでもいいから沖縄で発売して、沖縄の人たちに聴いてもらいたい」という思いから録音してあったウチナーグチ(沖縄の言葉)の「島唄」を沖縄限定でシングル発売。沖縄で大ヒットを記録することになります。

※ 以上は2013年にファンクラブ誌「エセコミ」島唄特集に書いた原稿です。

沖縄取材ノート(1991年2月20日〜22日) 「エセコミ」1991年4月号 杉山敦

(前略)ひめゆりの塔の側にある資料館には、学徒動員の結果、戦争の犠牲となった女子高生たちの遺品や記録が展示されていた。当時の体験が描写してあるノートや、彼女たちの写真を見てるうちに、あまりのやりきれなさに身体から力が抜け、感情をコントロールすることができなくなってしまった、涙のせいで赤くなった眼を見られるのが嫌で、僕たちは別々に展示物を見て回った。当時やはり学徒動員で戦争を体験した女性が、沖縄戦の日々を説明してくれた。「アメリカを恨んではいない。彼らは投降した住民たちに虐待することなく、負傷の治療をしてくれた。ただあの時の日本の教育が狂っていた」「逃げる時に怪我をした友だちを置いて行かなければならなかった。戦争のことをこうやって語るのはつらいけど、黙っていたら天国に行った友だちや兵隊さんたちに顔向けができない」

この資料館には死んでしまった生徒たちの写真が並べられてあった。五十年近くも前の写真だからもちろんよい状態ではない。顔の輪郭さえおぼつかない女の子の写真は筆で修正されていた。いくつもある顔写真の中にはほとんど似顔絵に近い「写真」もあった。それは僕に強烈な「死」の印象を残した。その夜、那覇に戻って国際通りで飲みながら僕たち三人とも、彼女の「写真」の前で泣いてしまったことを告白しあった。

〈昼に着きすぐに行動に出た僕らは、最初のひめゆり平和祈念資料館と、その近くのサトウキビ畑に囲まれた防空壕で、もうすっかり打ちのめされてしまった。本当の沖縄の姿がそこにはあった。みな涙が止まらなかった。眼が合わせられなかった。口数が極端に減った僕らはその夜、那覇にあるレゲエ・バーで飲んだ。初め重いムードだったのだが、一日を振り返り始めたら、みなセキを切ったように語り出した。とにかく来てよかった。話の最後にはみなそう付け加えた。僕は「ひゃくまんつぶの涙」という曲を去年作った。沖縄に対する僕の気持ちを込め、材料としてだけ沖縄のメロディを使うのではなく、沖縄の心に僕なりの言葉(愛と死)を溶かし込みたくて作った。レゲエ・バーを出た後、深夜の路上でその歌をラジカセでかけ、明け方まで三人で話し合った。本当に来てよかった。本当によかった。〉(この部分は「エセコミ」より宮沢和史の文章を抜粋)

(中略)宮沢君や郡司君(写真家)と沖縄滞在中、そして東京に帰って来てからも、何度か話したのは「なんて僕たちは沖縄について知らないんだろう」ということだった。何で今さら、という気は僕自身確かにある。でも、何で今まで知らなかったんだろう、という後悔に近い気持ちの方が強いのだ。僕たちは何冊かの本を沖縄で買い込み、読み始めている。宮沢君はまた沖縄の曲を作るようだ。この特集で沖縄に興味を持ってくれた人がいれば、ぜひ僕たちと一緒に勉強を始めてほしい。

※「宮沢君はまた沖縄の曲を作るようだ」と僕はこの時の取材後記に書いているが、こうして生まれた歌がTHE BOOMの「島唄」です。

インタビュー 「ここから」より抜粋 文字起こし  2020年8月10日放送 NHK沖縄製作 聞き手 池間昌人(アナウンサー)

NA(ナレーション/過去の首里城での「島唄」歌唱映像) 沖縄の情景を歌った「島唄」。作詞作曲をした宮沢和史さんです。この歌はおよそ30年前に生まれました。

宮沢 僕は当時、恥ずかしながら「沖縄戦」というものをろくに知らなかったんですよ。僕らの世代は「平和」が目の前に用意されてるような当たり前のように享受してるけどそうじゃないと。

NA 7月、新型コロナウイルスの感染が再び広がる中、沖縄からリモートでインタビューしました(宮沢は東京・NHKより)。

池間昌人アナウンサー(以下、池間) ここは宮沢さんが普段、講師をされている沖縄県立芸大の部屋のひとつを借りています。宮沢さんは今期、まだ来られてないそうですね。

宮沢 今年は2月の終わりに仕事で行って以来、沖縄に行ってませんから。沖縄に「白雲節」という歌があって、白雲になって遠い島にいるあなたに会いに行けたらいいのになという熱いラブソングなんです。本当は会えるところにいる人なのに会ってはいけないとか会わないほうがいいとか、近くにいるけど結ばれることはない。まさに僕にとって今あの歌(「白雲節」)がしっくりくる歌で、近くにあるし、毎月何回も何回も行っていた島なのに、はるか遠くにある島のように感じる。

NA(1990年、BSヤングバトルでの「おりこうさん」映像)デビューの翌年、初めて沖縄を訪れます。

池間 宮沢さんが初めて沖縄にいらしたのは1990年、ちょうど30年前です。そのときのことをどのように覚えてますか?

宮沢 THE BOOMというバンドで三枚目のアルバム(『JAPANESKA』)で、日本探しというか、時代はバブルの時期でしたがそうじゃなくてもっと土の、草の匂いのするロックが僕らに作れるんじゃないかという興味がある時期だったんです。沖縄に何か僕らが求めてるものがあるんじゃないかと撮影にかこつけて行ったのが一回目です。(ロケ地に)着いて車を降りたら水牛が通ったんですよ。能のようなスピードでなかなか通過しないんですけど(笑)、ずっと目で追っていったら沼に水牛を泳がせにおじさんが連れていくという光景だったんですね。

池間 それ以降、かなり頻繁に沖縄に来られてると聞いています。

宮沢 とにかく音楽を求める旅として通うようになるんですけど、僕が思ってたよりも戦争の傷跡が多くてびっくりしました。僕は当時恥ずかしながら「沖縄戦」をろくに知らなかったんです。それで戦跡をまわってみようということで戦争の名残があるところをまわりはじめたのが僕の沖縄の旅のスタートでしたね。

NA(1945年、沖縄戦映像)宮沢さんは島の各地に残る戦争の痕跡を巡りました。そのひとつ、糸満市にあるひめゆりの塔です。この塔の下の洞窟(第三外科壕)で動員された女子学生が負傷兵の看護にあたりました。多くの命が失われたこの場所で宮沢さんは沖縄で何が起こったのか知ったのです。

宮沢 ひめゆり平和祈念資料館で亡くなられた方や生き残った方の手記を読んで、学徒隊で生き残った女性に、島民の4人に1人が死んだとか、集団自決とか、自分の子どもを殺めなければならなかった人がいたとか、そういう話を聞いたのですが、僕は驚いたのと同時に知らなかったことが恥ずかしくて。でも、外に出ると何事もなかったかのように風が吹いていて。サトウキビ畑がすぐ近くにあるんですが、その葉がさらさらと涼しげな音を立ててなびいているのを見たときに、そのコントラストですね、実際もそうだっただろうと、地下の中で蠢いていた、そして消えていく命、叫び、そういうものと地上の美しさとのコントラストがすごく怖いなと思って。

NA(サトウキビ畑、1994年、NHK紅白歌合戦での「島唄」映像)目の前の光景と地続きの歴史。宮沢さんは沖縄と向き合うことを決意します。

宮沢 僕は霊的なものを信じないほうだし、曲が降りてくるとかあまり思ったことはないんだれども、「島唄」に関して言うと、沖縄から、そして沖縄で戦争で亡くなった方々から「これをあんた伝えてくれ、ヤマトのほうに伝えてくれ」とそれでできあがったのが「島唄」なので、自分で書いたという気持ちではなくて何か渡されたという気持ちがしますね。「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」、ウージというのはサトウキビのことですけど、サトウキビ畑でかくれんぼをして育ってきた僕ら、恋人同士なのに、どうしてサトウキビ畑の下のガマ(壕)で殺し合わなくればならないのかという歌詞です。それは先ほど言ったひめゆり平和祈念資料館での体験が僕にとって非常に怖くて、地下の恐怖と地上の光景とのコントラストをBメロに凝縮させたんですね。音楽的にもアレンジ的にも実はトリックがありまして、「島唄」は琉球音階、レとラを抜いた音階で作られているのですが、Bメロ「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」の部分は西洋音階にしたんです。なぜならば集団自決をしなければならなかった責任は沖縄にはないので。そうさせてしまったのは日本ですから。音楽的なアレンジにもメッセージを込めました。

NA 「島唄」はミリオンセラーの大ヒットとなります。しかし宮沢さんは沖縄出身でない自分がこの歌を歌う怖さを感じていました。

宮沢 批判はきっとたくさん来るだろうと思っていました。僕ら音楽家の間でも交流するきっかけがないというか。そんなときに喜納昌吉さんという大先輩に出会ったことが大きかったんです。喜納昌吉さんが「この歌は沖縄の心をつかまえている」と。魂までコピーしたらそれは真似じゃないと。模倣じゃないからどんどん歌いなさいと。だから、魂までちゃんと見る。沖縄に限りませんが、自分に興味を持った人たちの、痛みを知ることができるか。いや、知ることはできないんですけど、知ろうとする。こういうことじゃないかなと自分なりの結論までいけば、借り物じゃなくなる。

池間 特に90年代、壁が高かったんだろうなと感じます。その中で批判があっても折れなかった宮沢さんの想いが強いなと感じますが、この「島唄」は絶対に歌い抜くんだという気持ちだったんですか?

宮沢 いちばん言いたいことは大サビの部分ですね。「このまま永遠に夕凪を」の一言なんです。沖縄という島はもう絶対に戦争が起きちゃいけないし、平和になる権利があるし、沖縄という島が永遠に凪であるように祈る、という歌ですから、本当の意味で沖縄が平和をつかめば僕が「島唄」という歌を歌う必要がなくなるんです。でも僕が沖縄に通い始めて30年、基地問題は何も変わってないし、今度、普天間や嘉手納からコロナ感染者がたくさん出ましたよね。新たな基地問題と言っていいと思うんですけど。「島唄」を歌う意味がまだあることがつらいし、でもやらなきゃいけない、歌いたい。若い人たちに戦争の無意味さ、沖縄の人たちが味わった悲しみは伝えなくちゃいけない。

NA 「島唄」で宮沢さんが初めて弾いた沖縄の三線。この三線が次の一歩を踏み出すきっかけになります。

宮沢 何年かして少しずつ沖縄のふところに入っていける気がしてきたときに、三線の職人さんが、「宮沢さん、『島唄』という歌を作ってくれてありがとう。三線がたくさん売れるようになって、他県の人たち、外国の人たちも買いに来てくれるようになってやりがいがあるんだよ」と言ってくれて嬉しかったんですよ。だけどそのあとに「でもあんたのあの曲がヒットしてから三線の材料が輸入に変わったんだよ」って。それは意地悪ではなくその人のからかいで、僕をからかってその場を笑わせようということで実際に笑いが起きたんですけど、僕は笑えなくて。僕は「島唄」を作ったことで沖縄に貢献した気になってたけれど、負の部分も起こしてしまったことにようやく気付いたんですよ。三線を弾く人たちが世の中に増えたという功績はあったとしても、肝心の沖縄県産の三線の材料、木を枯渇させてしまった。それでどうしよう、でも木がないなら植えていこうと。

NA(読谷での植樹、沖縄県立芸大での授業風景の映像) 古くから三線に使われてきた黒木(くるち)の木。材料として使えるようになるのに100年以上かかると言われてます。そこで取り組んだのが沖縄の各地に黒木を植える活動です。地元の人たちと一緒にこれまで3000本以上を植樹しました。さらに大学では沖縄の伝統文化を音楽に取り入れる実習を担当。20代で沖縄と出会い、歴史を知り、歌を作り、葛藤してきたその経験を伝えようとしています。

宮沢 (大学では)僕にできるものですよね。沖縄から教えられたこと、沖縄から渡されたバトンを沖縄の子たち、県外の子たちに自分なりのバトンを渡すという役割をいただけたというのは大変ありがたく誇りに思います。

池間 そして今年は宮沢さんが沖縄に初めて来られて30年です。今後も沖縄と深く携わっていくと思うんですが、沖縄で受け取ったバトンを今後どのように繋いでいこうと考えていますか?

宮沢 沖縄すらも失ってしまうものがあるということを自覚した上で、なんとかそれを上手く未来に末広がる感じできちんと残せないかなあというのが僕が沖縄で力を発揮できることかなと今は思ってますね。僕の「島唄」の力は本当にささいなものかもしれないけれど、こうやって今日お話をしてこれを見た方がそれぞれ何か感じるかもしれませんし、「島唄」を歌い続けることによって何かこの悲しみ、痛みを忘れちゃいけないよねと思ってくれるならまだまだ役割があるような気がします。でも、くどいようですが、沖縄に本当の意味での平和がきたら、平和を願う歌なんて必要なくなるので、早くそういうときがくるのを待っています。





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