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「感想家」とは

坂口安吾の、
「感想家の生まれでるために」の一文に、

小説を書くことが他の何物よりも好きで堪らぬ作家と、
小説を読むことが他の何物よりも好きで堪らぬ感想家と、
この二つは在ってもよい。

と、あった。


私の人生には、
幸い、
心を撃ち抜かれるような、
現実から魂がフワフワと抜け出るような、
感動的で、衝撃的な、
小説や音楽、演劇等に出会うことが多々あった。

そんな作品と出会う度に、
私はいったい、
「何に」そこまで感動したのか、
「何を」それほどまでに好きだと思ったのか、
そんなことを考える。

様々な影響を強く受けているのに、
その答えを出すことは、
存外、難しかった。

ただ、
その「何か」を、
的確な言葉に出来なかったとしても、
その「何か」を感じたことこそが、
自分自身の「核」であり、
私が私として、生きている証であることに間違いない。

だから、
せめて、
どんなに稚拙で、笑われようが、
自分の言葉で、自分が感じたことを伝えてみたい。


これまで主観的な感想なんて、
(特に仕事では)何の役にも立たないと揶揄されることばかりだったから、
「感想」とは、
本当に気心の知れた友人と、
ひっそり語り合う、そういう類のものなのだと思っていた。

だが、
安吾の「感想家は在ってもよい」という言葉を得て、
「ここに、こんなことを感じた人間がいますよー」と、
表に出してもいいのではないかと、
勝手に「力」を得た。


安吾は、次のようにも言っている。
「感想がなければ語らぬがよい。」

これは、「感想家」が、
肝に銘じておくべき大切なことだ。

好きで好きで堪らない。
そういう「何か」に出会い、琴線に触れた時こそ、
どんな不格好な文章だとしても、
自分の言葉で語る。

感想がなければ、
語らない。
時には、
「感想がない」ことを伝えなければならないこともあるだろう。

それでも「自由」だ。

この「note」の中で、
私は、自由な「感想家」となる。

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