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【感想】死ねない老人

「子供の役目は、親をしっかり見送る事だ。お前は夫の方も含めて,
四人の親をしっかり見送れよ」
以前、私を諭す風に父がこう言った。

「パパは養子だからな、四人の親がいるだろ。だからママの方も入れると六人。まぁ、ママの母親は早くに逝ったからパパは五人の親を見送った」
こう話しをしたのは、ちょうど父の実父が亡くなった後。
父にとって最後の親だった。

親を見送るという役目を実直に全うしたと自負していた。
そしてその自負には大きな愛があった。

「私、結婚した時はKちゃん(夫)のお父さんいなかったの。知り合ったのは、お葬式終えた後だった」
「そうか。若いのになぁ。彼も苦労したんだな」

次はお前の番だ。頼むよ。
そう言う目で父は私を見た。

でも私は幸せ者だ。
両親は健在。親の死にまだ立ち会っていない。

しかしそんな父は今、寝たきりである。

進行性核上性麻痺と診断されて数年になる。

進行性核上性麻痺
脳の中の大脳 基底核 、脳幹、小脳といった部位の神経細胞が減少し、転びやすくなったり、下の方が見にくい、しゃべりにくい、飲み込みにくいといった症状がみられる疾患。
難病情報センターより

父は満州生まれである。
幼い末の弟は引き揚げの際亡くなり、亡骸は中国に残した。
弟を埋めると、すぐに地元民が群がり掘り返され、服を剥ぎ取られた。
「見るな。見るな」と父たちは下を向いてその場を離れた。

祖母は狂った様に泣いた。10歳だった父の心にそれは焼き付いた。

そんな生い立ちの父である。
我が家で唯一になった戦争を知る人で、
その後の経済成長を支えた人材でもあった。

父は鉄を売る営業マンだった。

「ここの鉄は、パパが手配したんだよ」
と高層ビルを見上げ、満足気な顔を私に見せた。
私の母校も、お気に入りのパン屋さんも
新築の鉄筋コンクリートの建物は父が関わった。
凄いなと思った半面、意外だと思った。
家にはほとんどいなかったので、父の仕事など考えたこともなかった。


いま、実家では母が父を介護し、近くにいる妹がサポートしている。

私は東京で変わらず生活をしている。それがありがたく、ありがたく、有り難い。

父はまだ、大丈夫。
いつかその時が来るけど、いまは大丈夫。

昔、狂ったように泣いた父の実母は、父が母と結婚した年亡くなった。
ガンだったらしい。
私が生まれる前だった。

父が祖母や祖父らを見送ったように
やがて私も見送らねばならない。

この本には色んな死に様が記されていたが、
切なくなる事例ばかりだった。
今の医療現場では延命が重視され、本人の意思は置き去りにされている。
家族は生きて欲しいと願っても、管につながれ動けない本人には虐待に近いという言葉は衝撃だ。
胃ろうも人工呼吸器も、家族の望みであり、本人の希望なのはかわからない。
でも、死ぬのは怖い。
だからといって、ただ意思もなく生きるのも悲しい。

自分だったらどうだろう。
死に直面したときなど想像できない。
分からない世界である。

「生まれるも日常、死ぬも日常」
と昔、死んだ祖母が言ったと、母が言う。
なんだか達観したセリフだが、こんな生死の話題ではいつもその言葉を思い出してしまう。

だからこの本の様に、死に様を考えることは大事だと思う。

考えれば、分かるようになる。
電話の母の声が頼もしく思えてくるのも「分かる」事のひとつだ。

「今日ヘルパーさんの日だった。パパは食が細くなったけどちゃんと食べてるわ。でもやっぱり私も疲れるから先週は一泊してきてもらったの。そしたら夜、つまんないって電話してくるのよ」と笑う母。

一生懸命生き抜く姿を、いま、両親が見せているじゃないかと思えてきた。
ああ、つくづく私は幸せ者だ。と噛み締める。

老老介護。綱渡りの様におぼつかないが、最後の人生を2人で過ごしている。
母がポツリと言う。
「お世話は大変で嫌になるけど、居なくなる(逝く)と思うと寂しくて寂しくて」

私もいつか、老老介護になり、同じセリフを吐くのだろうか。

長寿は人間の願望だが、ほどほどの時が来たら死ねるというのも悪くない。
怖いだけではなく
生まれるのと同じくらい
命が終わるのも尊いと思えてくる。

そうか、だから一生懸命生きなきゃだ。
それが今の役目なんだ。

侍ジャパンが世界一になった余韻もあり、いま、絶賛「一生懸命」が頭の中で響いている。


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