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【小説】私の明日はどっちだ?4-③

おばさんだって働かなくちゃ食べていけない。やっと仕事は決まったけれど、本当にこれでいいのか。自分の選択になんて全然自信が持てない。私はいったいどこへ向かっているのか…。

これまでのお話はこちらからどうぞ。

こんなはずじゃなかったのに

今年はセミが鳴かない。

梅雨は明けたはずなのに、いつもより涼しい日が続いているからか。
病室の窓から見える空は、今日もだるそうに曇っていた。

「あさってには退院できそうですね」

「え、あさってですか?」

朝の健診でやってきた担当医にそう尋ねたのは、退院が待ち遠しいからではなかった。長く続いていた転職活動にいい加減疲れ切って、ほっとしたのもつかの間、これから自分が何をするのかよくわからないまま職場に向かっていた現実を思い出してしまったのだ。

「検査の結果も出ましたし、もう大丈夫ですよ」

気になることがあったら何でも聞いてくださいね、と言い残し、医師は次の患者の元へ移った。

入院して今日で5日。ニワカさんは2度もお見舞いに来てくれた。特にケガらしいケガもなかったので、私はいつも申し訳ない気持ちになった。あの時のことは本当にほとんど記憶がなくて、やっぱりどこか落ち着きがなかったのかもしれないと思う。人生では、いいことがあったら同じ割合で悪いことが起きる、と心のどこかで思っていて、仕事が決まったからその代わりだったのかな、などと考えたりもした。

その日の午後、ご飯を終えてすることもなくぼーっとしていたらニワカさんがやって来た。

「こんにちは。今日はどう?」

「はあ、悪くないです。あさって退院だそうです」

「そう!よかったね。あさってか。じゃあ週末は家で休んでもらって、来てもらうのは月曜からかな。もちろん体調見て、だけど」

「すいません」

「いやだ、謝ることじゃないわよ。無事でよかった、それが一番。ボンちゃんさまさまね。あの子ってばそういうとこ本当によく気がつく」

「すいません」

「だから…。まあとにかく、ゆっくり休んで。焦らなくていいから。みんな待ってるからね」

「はい」

また思わずすいません、と言いそうになって、でもほかにどう言ったらいいのかわからなくて私はそう答えた。

「じゃあ私、今日は帰るね。お大事に」
今度は黙ってこくん、とうなずいた。ニワカさんが帰った後、病室には、ほわんとした柔軟剤の香りがやさしく残っていた。それが、この5日間忘れていた日常に戻る扉を開けたような気がした。

ボンちゃん。ボンちゃんて誰だろう。さまさまって、どういうことだろう。モヤモヤしたけれどそれ以上追いかける気力もなくて、熱は下がったけど大事をとって休んだ小学生みたいな気持ちで残りの2日間を過ごし、そして私は退院した。

*****************

何が何だかわからないまま週末を迎え、今日は本当の意味での初出勤になる。念のため、今度はおとなしくバスで行くことにした。いつもは、緊張しすぎてどんなに早く準備ができていても約束の時間に遅れてしまうことが多いのだが、初めにやらかしてしまったことで逆に安心したのか、ふつうにバスに乗ることができた。

どんな顔で入っていったらいいんだろう。恥ずかしいし情けないし、でも採用取消とはならなかったのだから、許される範囲の失敗と思えばいいのか。そうでも思わなければ、とてもじゃないがのこのこと出勤するなんてできなかった。ときどきはニワカさんの顔を見られたこともあって、思ったよりドキドキせずに入口までたどり着いた。

「おはようございます!ご心配をおかけしてすいませんでした!」
精一杯のカラ元気をふりしぼって、私は入っていった。

「あー、薮田さん、おはよう!もう大丈夫なの?」

真っ先にニワカさんが出てきてくれた。

「はい。お見舞いに来てくださってありがとうございます。いろいろすいませんでした」

「初めましてー、琴音ですー。よろしくお願いします!」

「ハルカです!よろしくです!」

声を聞いて、すぐに2人が出てきた。琴音さんは、しばらく私の教育係の担当だそう。看護師の資格を持っていて、30代後半って言ってたけど見た目はずっと若い。ハルカくんはまだ22才らしいけど、すごく落ち着いた感じがする好青年(に見えた)だった。この人たちとやっていくのか。

「ちょっとー!ご飯まだなの!お腹すいたよ!早くしてよう」

「ごめんごめん、トミさん。ほら、今日から来てくれることになった薮田さん。トミさんよろしくね」

「お腹すいたー!ああ、お腹すいたー!」

「はいはい、今持っていくね」ニワカさんが台所へバタバタ走っていった。

「すいません、こんな時に来ちゃって。私、何からしたらいいでしょう?」

「そうね。じゃ、トミさんのお箸出してもらえる?」

琴音さんが、こっちこっち、と手招きして奥にある棚の引き出しを開けた。

「ここは、決まった人のお箸とかスプーンとか。で、その下の段に誰でも使っていいやつが入ってる」

「わかりました。あ、カバンとか自分の荷物はどこに置いたらいいんでしょう」

「そうだよねー。まずそれだよね。失礼しました!トミさんにお箸渡したら案内するよ」

「はい。渡してきます」

「ちょっと!箸がない!箸なかったら食べられないじゃない!箸!」トミさんは、さっきよりもっと大きな声で怒鳴っている。

「すいませーん!今持っていきます」つられてわたしも大声で答えた。

予想して準備して、なんていうこれまでのやり方と全く違う形で、私は新しい世界へ投げ込まれたのだった。









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