『君たちはどう生きるか』感想の補足

 あのー、前回の感想についてなんですけど。昨日(今日?)映画見たあと終電がなくなってたせいで、新宿から歩いて帰る羽目になったんですよね。深夜三時に家に着いてへとへとになりながら感想を書いたので、なんか全体的にぽやぽやした文章になってる気がする。ただ、今さら長文を書いたところで本来の感想からかけ離れていきそうな気もするので、ちょっと補足だけしておきます(追記:結局こっちの感想もぽやぽやしてるので、前の記事の方が箇条書きの分読みやすいかもしれません)。

 前回「アクロバット」って評したのはミステリにおける「論理のアクロバット」という用語を意識しての表現だ。個人的には「ロジックの堅実な積み重ねによってとんでもない事実を明らかにする」技巧のことだとざっくり解釈しているが、まさに今回の映画はそんな感じだった。前に「パプリカ」的と表現したように、展開が急というよりは知らない世界と次々に出逢わされるイメージが近い気がする。異界を渡り歩く中盤以降は映像表現が目まぐるしく移り変わり、世界の未知性・多層性を肌で感じさせられた。

 それでも支離滅裂に感じないのは、受け手たる僕たち(クソデカ主語)が無意に見えない脈絡を読み取っていたからだと思う。うまく言葉にできないけど、僕たちはこういう論理の飛躍をどこかで目にしたことがある。この展開を身体で受け止めるための構造が既に内部で組み上げられていて、それが今まさに展開している。そうした暗黙知としてのコードに対する嗅覚が、今までの宮崎駿作品によって培われたのではないか、というのが言いたかったことだ。まあ、この点については昨日も書いた通り、単に宮崎駿が気持ちよくやった結果かもしれない。もしそうだったらなおのこと怖いな。

 久しぶりにジブリ映画を見たから今更な感想かもしれないけど、めちゃくちゃ描き込まれてるな、と思った(不遜)。わちゃわちゃした背景を含めるとあまりに情報過多で、一回きりの映像で世界観の全てを理解することはどんな考察厨にも不可能だろう。実際、IMAXの大画面で見ていた僕は映像に呑まれてばかりで考察を試みる余裕すらなかった。

 でも、わかる。いま何が起こったのか、なんで主人公はそんな行動を取ったのか、この登場人物は何を望んでいるのか、今から何が起ころうとしているのか、物語の勘所がきちんと腑に落ちてしまう。見えたもの、聞こえたものを足掛かりに無心で物語を追っていて、気付けばひとかけらの石を手に入れている。否、既に手にしていたことにようやく気がつく。ある意味でそれは「悟り」の感覚に近いんじゃないかと、今になって思い返している。

 また抽象的になってきたのでここらへんで終わりにしたいんだけど、タイトルの話も。メッセージ性はそんなに強くなかったと思う。とりあえず情報だけ提示して、持ち帰りたきゃご自由にどうぞって感じ。
 ただ異界から帰ってきたマヒトがおばあちゃんの人形と石を取り出すラストシーンには鳥肌が立った。物語が綺麗に閉じたことにも感動したし、漠然と「ああ、降りられないんだ」と思った。どんな世界でも人は絶えず生死と携わりながら生きていて、自分はその遠大な連関のただ中に立っていて、認めようと認めまいとそこから降りることはできない。結局、ままならない世界を生きていくしかない。それは諦念かもしれないし、見ようによっちゃ希望と捉えられるかもしれない。

 さて、君たちはどう生きるか。
 

 でもそんなに説教臭さは感じませんでした。いい映画だった。あと滝沢カレンどこに出てたんだよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?