【つながる旅行記#234】元寇の歴史を辿る福岡散歩
前回は福岡市博物館で福岡知識を補充した。
では今回はその知識の中から、元寇関連のものを実際に見ていこう。
福岡の桜を見つつ、街を歩く。
そして唐突にそれは現れた。
『防塁』である。
歴史の教科書で「元寇では防塁を作って敵の襲来に備えたんだよ」なんてことを教わったが、そんな元寇防塁がまさか地名になっていたとは……!
そんなこともあるんだなと思いつつ、たどり着いたのは祖原公園。
小さな山が公園になっているこの場所だが、実はここが元寇での激戦地の一つだったらしいのだ。
なんだか視界も開けた上に桜も綺麗で素晴らしい場所だが、こんなところが戦場になったのか……。
というかここまで攻め込まれてたの!?
いや当時の海岸線が今とは違うことはもう流石に理解しているが、自分の中の元寇のイメージは船からやってくる元軍と海岸辺りで争ってるイメージだったのだ。
だがこの祖原公園(麁原山)に陣取っていたのは、なんと元軍なのである。
(日本側は上陸を許していたのか……)
経緯を見ると、元軍は対馬や壱岐、能古島や志賀島を襲撃したのち、いよいよ博多の沿岸部をあちこちから盛大に襲撃。
百道に上陸した部隊は祖原山を取りつつ、東の赤坂へと侵攻した。(赤坂は今の福岡城跡の辺りの高台で、当時の防衛ライン)
だがそこで肥後の御家人・菊池武房の軍勢による攻撃を受けて元軍は敗走。その結果、元軍は陣取っていた標高33mの麁原山(祖原公園)に撤退したのだ。
他にも蒙古襲来絵巻の竹崎季長が大濠公園の辺りで苦戦したり戦果を上げたりしつつ、どんどん博多へ援軍にくる御家人たち。
一方、なんだかもう矢などの補給も追いつかずに追い詰められる元軍。
そして夜になり……!!
朝になったら元軍が撤退していた。
(あと暴風が凄かったらしい)
これが文永の役だ。
「いや最後の急展開は何?」と思ってしまいそうだが、なんだか文永の役は諸説あるのでこんな感じにした。
他の資料では、「日本軍は哀れにも敗走して水城まで逃げたけど、”八幡様の化身”が現れて元軍を攻撃して、神風も起きてうんぬんかんぬん」という感じで、ちょっと個人的に「うーん…」と思ったのだ。
当時は加持祈祷が敵への攻撃になると信じられていた時代なので、この説は寺社の宣伝をするための資料な感じが強い気がする。
実際には元軍の補給問題(船縛り)や、続々やってくる御家人の援軍とかの絡みで「こりゃ無理だな…」という流れになったんじゃないだろうか。
そして日本側は防衛ラインの赤坂すら突破されていないのに、遠い水城まで逃げる必要もないだろう。
なんというか、神風に頼ってる感じでもなかったんだな……。
そして公園から歩いていくと、元寇防塁を発見。
これが文永の役の後に作られた防衛機構だ。
いまだに残っているだけでも結構あちこちにある。
実際に元寇防塁を見ることになるとは思わなかったが、なんだかちょっと感動である。
石積みなんてそこらへんでもよく見るのに。
やっぱりこう……歴史の重み……みたいな?
まあそんなこんなで目的は完遂した。
元寇への知識の補充もできたし、良かった良かった。
それじゃあまだ時間もあるしもうちょっと福岡を歩こうか。
次回へ続く……!
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