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中島敦『悟浄歎異』に見る鯖鱒wikiの八戒考

『悟浄歎異』について。
かいつまんで言うと『西遊記』の登場人物である沙悟浄の手記という体の小説で、沙悟浄の視点から三蔵法師、孫悟空、猪八戒について語られています。

中島敦 悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記― (aozora.gr.jp)
『悟浄歎異』は上のリンクから、ありがたいことに青空文庫で無料で読むことができます。

冒頭から驚かされるのはやはり、内容よりも先に中島敦の筆力です。
『西遊記』が馴染みのあるテーマやキャラクターが登場することを前提にしても、文章自体が読みやすく、すらすらとリズムが心地よい。
書き出しの一文でもう、次の文章を読もうという気になったのは私だけでしょうか。

そうして読み進めると、まず悟空が八戒に変化の術について教えている場面について語られます。
昼寝をする三蔵法師。術に失敗する八戒。それに怒る悟空。それを見ている悟浄。
キャラクターたちの性格・個性がそれぞれの行動の内容から、察せられます。そうそうこんなイメージ!

その中で変化の術の理(ことわり)についても述べられています。
なんかこの設定、そのまま型月設定として採用できそうなんですよね。
私は鯖鱒wiki要素を加味して、そういう視点で読みがちです。
中島敦さんは魔術についても詳しい方だった。

その後はしばらく、「客観的な」悟空像から沙悟浄の「あこがれ」が入った悟空の人物評が語られます。

この文章の生き生きとした具合から、どれだけ沙悟浄が悟空という人物に己の理想を見ているかがうかがえます。
自分を「脇役」と自認しているであろう沙悟浄から、「主役」として徹底的に悟空は賛美されます。

これは、ひいては作者・中島敦が孫悟空に見た、理想のヒーロー像についての文章なのやもしれません。

悟空の次は師父である三蔵法師について語られます。
沙悟浄が――ひいては悟空、八戒を含めた三人の弟子が三蔵法師に何を見ているのか、なぜ旅についていくのかという話。

内なる貴さが外の弱さに包まれているところに、師父の魅力がある

このように悟浄は語っています。

さらに、悟空と三蔵法師という天才のたった一つの共通点として、「必然と自由の等置」という言葉が出てきます。

私の解釈になりますが、これは「他からの影響(所与)を当たり前のこと(必然)として肯定する(完全と感じる)こと。この必然を自由と見ること」。
逆に、他からの影響を排斥し、否定する環境とは、現代で言えば引きこもりのことだったりすると思います。
「その環境は自由と言えるのかどうか?」という問いでさえあると私は考えています。(私としては答えを出せない)
――「外からの影響とは必要なものであり、その影響を受けられる環境こそが自由と言える」。

そんな結論を師父と兄弟子に見出し、悟浄の筆はいよいよ八戒について記します。

この世にかくも多くの怡しきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっている

つまり八戒とて、悟浄が持っていなかったものを持っている人物でした。
世の中を楽しむ術を持つ持つ人物であり、そこに見どころがあると悟浄は書いています。
そしてその裏に秘めた想いとして、最後にすがった希望が天竺へのこの旅であろうと悟浄は考察しています。

――――いや中島敦、猪八戒に理解が有りすぎる……。

猪八戒とは、享楽的とか能天気とかコミックリリーフである一面の裏に、なかなかな「重さ」のある生を送っている側面がある人物です。
八戒がやる賑やかしとは私が思うに罪滅ぼしの一面もあり、救いを求める自分なりの奉仕であると思うのです。
八戒には――「重い、想い」があるべし。あるべきなのです。

鯖鱒wikiのランサー・猪八戒にも同様のことが適応できると思っています。
そこがバックグランドにあると思うと、サーヴァントとしてのデータからも「吹っ切れたようでやり切れていない」、「等身大の英雄」のような感情の重みが出てきませんか? 出てきてほしい。

というわけで鯖鱒wikiの『西遊記』一行と『悟浄歎異』をよろしくお願いします。

もちろん『悟浄歎異』は沙悟浄の視点から、沙悟浄の感じたことが書かれた小説です。
沙悟浄自身についてのキャラ愛も深まることと思います。

鯖鱒wikiの悟空と悟浄のリンク
アサシン・孫悟空
ライダー・沙悟浄


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