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「スーツ=軍服!?」改訂版第31回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)第31回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
⑧007はなぜイタリアン・スーツを着るようになったのか?

◆ボンドは第2次大戦に従軍した海軍中佐

英国の紳士といい、スーツ・ファッションのお手本と言って必ず挙がるのが007(ダブルオー・セブン)ことジェームズ・ボンドの物語である、というよりも映画の中の007、そして、特に現代的な英国紳士の典型と目されるのが、初代ボンドであるショーン・コネリーのファッション、ということになる。グレーのタイトなスーツに、黒い細身のネクタイ、白いシャツに白いチーフ、ストイックと言ってもいいような着こなしが、知的でふてぶてしく、しかもセクシーな英国諜報部員、という役柄とあいまって魅力的に見えた。また賭け事の名人でもあるボンドはしばしばタキシードに身を包み、さっそうとカジノに乗り込む。そういう鼻につくような気障な要素が様になる人物像でもある。
007映画は今でも相変わらず人気を呼ぶ。六代目ボンドのダニエル・クレイグが主演し「カジノロワイヤル」でシリーズがリニューアルされたのは二〇〇六年のことである。007ストーリーの原点である「カジノロワイヤル」の再映画化……ただしデビッド・ニーブンやピーター・セラーズが競演したドタバタ映画の「カジノロワイヤル」は原作とはほとんど無縁の内容だったので、初映画化というべきなのだろう。
一九五一年に元英国特殊作戦部員イアン・フレミングの原作出版、六二年にショーン・コネリー主演で最初の映画「ドクターNO」が封切り。二〇一二年にはシリーズ五〇周年作品が公開され、二二年には六〇周年である。驚くべき生命力あるシリーズである。
原作によれば、ボンドはイートン校出身のアッパーミドル(上流中産階級)出身。貴族などではないがかなりいいところの出身である。そして第二次大戦中は海軍に所属、最終階級は海軍中佐だった。それ相応に出世もしていたことになる。企業で言えば部次長クラス、であろうか。大型軍艦の副長、駆逐艦や潜水艦なら艦長が務まる身分である。映画でもしばしば「コマンダー・ボンド(ボンド中佐)」と呼ばれる。
ボンドというMI6(情報部第六課)のスパイが実在したなら、戦中派の彼は、おそらく一九七〇年ぐらいまでに引退したはずである。だからショーン・コネリーの時期がおおむね一致するわけで、それ以後のボンド役者はなんとなく同じ007と名乗っていても、別人格のような気がしてならない。実際、ダニエル・クレイグまで役者も何人も入れ換わってきたし、ボンドの持ち物も、そして服装も変化しているのである。
 
ブリオーニのスーツは一着五十万円以上也

有名な話だが、英国情報部員であるボンドのスーツは、最初は英国のスーツ仕立ての聖地であるサヴィル・ロウ製のビスポーク(注文あつらえ)だった。
サヴィル・ロウは日本語の「背広」の語源かもしれないとされる地名で、そもそもはロンドン中心部メイフェアにある通りの名である。この周辺はバーリントン伯爵家が一七三〇年代に開発したバーリントン街と呼ばれる地区で、第三代バーリントン伯の夫人ドロシー・サヴィルの名にちなんで命名された。十九世紀初め、洒落者ボー・ブランメルが贔屓にしていたテーラーもここにあり、現在も二十以上のテーラーや紳士服関連業者が軒を連ねている。いわば英国スーツの代名詞がサヴィル・ロウという単語なのである。
そういうところで仕立てた、いかにも英国式スーツ、という服がジェームズ・ボンドのアイコンだったのはある意味、当然だったのだが、五代目ボンドであるピアース・ブロスナンの「ゴールデン・アイ」から、イタリアのブリオーニ・ローマンスタイル社のスーツに変更されて大きな話題を呼んだ。さらにダニエル・クレイグのボンドは、アメリカ人トム・フォードの手になる非常にスタイリッシュなスーツを身に着けるようになった。
つまり、五代目でボンドのスーツは「英国離れ」をし、以後もその流れが踏襲されたのである。
この点を不満に思う人もいたようだが、スパイというのは、かえって身元を明らかにしないために下着に至るまでわざと自国の品物を身につけない、ということもあるので、実は外国製を着るのはおかしな話ではない。
ビスポークとは、be spokenから出た言葉で、ファッション業界では紳士服の他に靴などでも完全な注文あつらえを指す。サヴィル・ロウで注文者に合わせた型紙から起こすビスポーク服ともなれば、生地にもよるが三十万円から五十万円、ものによって百万円は間違いなくかかる。
しかしながら、ブリオーニやトム・フォードなどのスーツも高いことで有名で、既製服、つまりプレタポルテであっても最低で五十万円以上は軽くする。たとえば工程で手縫いを多用しているブリオーニは、通常の既製服とは次元が違う「超既製服」である。身体に合わせた完全な注文あつらえもあるが、主としてメイド・トゥ・メジャー(採寸仕様)、イタリア語でス・ミズーラ、フランス語ではシュ・ムジュールという、袖丈やフィットを後で調整するオーダーが基本である。
ちなみに「オーダー・メイド」というのは日本でしか通用しない和製英語で、注文あつらえ全般を指すならカスタム・メイドと言うべきものらしい。


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