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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第52回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載52回 辻元よしふみ、辻元玲子

オーストリア軍人が右の手袋をしなかった理由

冬ならではの防寒オシャレといえば手袋だ。手袋と呼べばいかにも防寒用、という響きだが「グローブ」というと、なぜかダンディズムが漂う気がする。実際、このアイテムは古来、貴族性や高貴な自尊心の象徴として、欧州では重視されてきた。ギリシャ、ローマの時代から手袋やミトンはあったが、やはり温暖な地では軍用など特殊な使用に限られ、一般には広まらず、ゲルマン人やヴァイキングなど周辺民族が欧州に持ち込んだものだ。
その後、中世に入ると、まず教会で儀式の時に聖職者がはめるものとなり、十二世紀には国王や貴族の権威の象徴と見なされるようになった。ぴったりと仕立てられ、高貴な手を象る三本の血管を示すステッチが加わった。ヒジまで長く、宝石や刺繍で豪華に飾られたロンググローブが使用され、十六世紀、英国のエリザベス一世女王が特にそういうもの愛用した。
この頃になると、一般にも手袋は防寒用というよりプライドの証しという要素が強まり、決闘の際に相手に投げつける、という作法も広まる。
オーストリア軍は十七世紀の七年戦争のさなか、プロイセンの首都ベルリンを一時的に占領した。占領軍はプロイセン側に、豪華な手袋を二十四組、敗北の印としてマリア・テレジア女帝に献上するように要求した。プロシャ側は要求を受け入れたが、しかし、贈られてきた手袋はすべて左手用ばかりで、使い物にならない。
以来、オーストリア軍士官は女帝の前では、右の手袋を脱ぐ習慣になったという。女帝も手に入れられなかった「右の手袋(それはプロイセンへの完全勝利を意味する)」を御前で着用するのは畏れ多い、ということだった。と同時に、見事にフリードリヒ大王の裏をかいて成功したのだ、という意味でもあった。
十九世紀以後は、手袋は王侯貴族の専有物ではなくなり、むしろダンディな紳士の御用達品となった。イタリアなどでは、今でもオシャレな紳士は寒くなるとコートより先に手袋をはめると言う。またコートの胸ポケットにポケットチーフ代わりに手袋を挿すのも今や定番である。
内張りのないタイトな手袋としては一八七〇年創業のローマのメローラのものが有名だ。
また、一七七七年創業の英国のデンツの手袋は、イノシシの仲間ペッカリーの革を用いた最高級品になると既製品でも四万円を超え「手袋界のロールス・ロイス」として君臨している。

礼装に手袋は必携

手袋は十八世紀頃から欧州では礼装に必須のものとなった。結婚式の際に手に持たされた方も多いと思うが、フォーマルな服装には本来、手袋は必携である。
フォーマル向けの最上の色は白。これも十九世紀までは鹿革の生成りの黄色っぽいもの、二十世紀に入ると明るいグレー、一九二〇年代の「ギャツビー」の時代に、アメリカで白い手袋が流行して今に至っている。
以来、ホワイトタイ(燕尾服)の手袋は白が定着したが、モーニング用は今でも古風なグレーを用いることも多い。一方、ブラックタイ(タキシード)の場合は黒色を合わせるのが普通だ。素材は鹿革が本来で、よく見られる布製は略式である。
一般のダークスーツの場合、やはり黒い靴に黒いベルト、となると手袋も黒色が最もフォーマル度が高いといえる。もう少しくだけた、あるいはオシャレなコーディネートを楽しむ場合なら、とにかく靴やベルトの色と革の手袋の色をそろえると決まる。近年は、かつてのように紳士向けは黒と茶しかない、という時代ではなく、黄色や赤、パープルや青などさまざまな色の手袋が売られている。全身の革物の色をそろえる、というのはオシャレの基本技である。
素材でいえば、まずは鹿革。バックスキンのバックBuckというのは雄鹿のことだ。また防寒用にはペッカリーが最上である。ペッカリーは南米産のイノシシの仲間の革で、今では稀少。手袋一組で五万円前後はするが、その保温性は高く、長持ちするので、それだけの値打ちはある。くだけたカジュアル向けにはニットの手袋もいい。しかしあえての外しを狙うのでない限り、基本的に、スーツ姿ならフォーマル度の高い皮革製の手袋の方がふさわしいだろう。


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