漫画におけるオモシロと叙情
漫画を描くにあたって、自分の中に大きく二つのパートがある事に気付いた。
「オモシロパート」と「叙情パート」。
俺はいつもキャラの心を描きたいので、基本的に「オモシロはおまけ」で「叙情メイン」なんだけど、
感想を聞いていて、ここイイネと言われた部分は「オモシロパート」が多かった気がする。
心を描くのが難しいという事でもあるか?というか、人間と同じで、心を感じるとか共感をするには
長い長い時間が本来は必要で、短編ってその点で言うとちょっと短い、ってことでもあるだろうか。
恐らくだけど、自分の漫画の数がもっともっと蓄積して、
この作者はこの傾向にある、という前提条件が整ってきた時に、
俺の漫画はもっと気軽に楽しみやすいものになると思う。
この時この人(キャラ)は何を考えているのだろう、と
想像する時間が省略されるからだ。仲良くなる、ということだ。
今は、蓄積が足りなくて、読み手に負担を強いている、
読み手への信頼において漫画が成立している、と思う。
ある程度わかっていたことだが。まあ。
漫画の可能性は無限にあるから、工夫を凝らしていく事で、
初めましての段階で瞬時に仲良くなれるような、そんな仕組み作りを模索したい。
言い換えるなら魅力的なキャラを作れということ。それはそれ。
気付いたのは、オモシロパートメインで描いたことが一度もないということだ。
というかオモシロパートを意識した事がそもそもあまりなかった。何故?何故って…なんでだろう?
俺はコミックというものは、読んで何も得なくていいと思っている。
ワハハ!最高!の瞬間の体験で終わっていいと思っている。
そういう作品は心の負担にならないし、美しくて、好きだと思う。
他者への癒しとエンターテイメントに従事していると思う。
一応書いておくが、心にズドンと一生残り続けるトラウマみたいな漫画も大好きだ。
というか主食はそっちの方だ。俺は苦しみに快楽を覚えるタイプなので。
で、俺の漫画はどういう位置か。どういう扱いであるか。それはもちろん
「なかなかええ漫画やん?ほな!ポイー」でいいんだと心の中ではそう思っている。
しかし、そう考えてるにしては少し作風がチグハグだった。
何度も読んで欲しいとか、ずっと大切にして欲しいとか、心を分かち合いたいとか、
じめっとした感情が見え隠れしていた。カラッとしていなかった。
俺は少し、漫画を描くのが好き過ぎるというか、心を溶かして書いてる。自覚がある。
生活の中に漫画があるのが好きだし、漫画を描く時間が長いのが好きだし、
俺の漫画に対するどろっとした感情、依存が、読者への依存として現れている。
それがダメってわけじゃない。俺の活動エネルギーだし、
俺はキャラとの心の対話において、慰められていたんだ。
ただ、今回、オモシロに対してイイネをしてくれる人がいるとわかった。
俺にとってオモシロは、漫画においての重要項目ではあったが、
自分の中のコミカル成分に自信がなかったが故に、
トッピング以上の使い方をしてこなかったと気付いた。
結論、今度オモシロだけをメインに描いてみたら?次の次くらいで。
ボボボーボ・ボーボボ!!(決意表明)
※オモシロに生きている人間は、頭の中がオモシロでいっぱいな気がします。脳みそを入れ替えるような大きな手術になりそうですが、ちょっとだけワクワクします。
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