見出し画像

邂逅穢衰

 若い県庁職員の間でよく噂される藤村部長の渾名は「昼行灯」である。いつもぼんやりと庁舎内をうろつく姿は職員の間でも見知らぬ者はいない。いつもなにをしているのか不思議になるほど神出鬼没で、机について真面目に書類と向かい合っている姿など殆ど見たことがなかった。喫煙所でたまに顔を合わせても、へらへらとして益体のない話ばかりする、どこにでもいる中年のおじさんという印象しかなかった。
 あれは梅雨明けしたばかりの頃だったように思う。

 申請書類の作成をしていた私の元に、藤村部長が声をかけてきた。
「大野木くん。ランチに行かないかい?」
 藤村部長とはそれほど懇意にしていた訳でもないので、やや戸惑ったが、上司に昼食に誘われて無碍にするわけにもいかない。
「若い職員の意見が聞きたくてね。ランチしようよ、ランチ」
「はい。ご一緒させて頂きます」
「僕の行きつけの店に行こう。積もる話もあるからねえ」
 県庁から徒歩5分ほど歩いていくと、こんな場所に店などあったのかというような場所に寂れた喫茶店があった。店内は外から見るよりもずっと大きく、薄暗く落ち着いた内装はなんだか心地がよかった。いや、そもそも看板も出ていなかったような気がする。
「まずはコーヒーでも呑もうか。マスター、ブレンドふたつ」
 カウンターの奥で寡黙そうな老人が頷いて、ミルに豆を注いでいく。
「さて、大野木くん。君は特別対策室というのを知っているかね」
 聞き覚えのない単語だ。なんというか、警視庁やそういう場所でよく使われるような言葉だろう。
「いえ、聞き覚えがありません」
「一応ね、同じ課に属しているんだよ。対策室。まぁ、認知度も殆どないし、わざわざ明記もしてないから仕方ないか」
「はあ」
「ほら、住宅関係で奇妙なクレームを受けたりする時に、最終的にお鉢が回るのがそこだ。元々は10名に満たないくらいの人員がいたんだけどね。今は色々あって、人がいないんだ。困った事態だとは思わないかい?」
 なんだか風向きが怪しい気がする。
「部長。自分は採用されてまだ7年程度の人間です」
「なに、勤続年数は関係ないだろう。それに優秀な職員だと誰もが君を高く評価している。生真面目すぎる部分はあるが、責任感はこの仕事に必須事項だ」
 頭のなかで警鐘が鳴っている。まずい、話題を変えなければ。
「ところで、大野木くんは幽霊あるいは怪異のようなものを信じるかね?」
 話が変わり、思わず安堵しそうになる。
「いえ。自分はそういうオカルトめいたものは信じていません」
「ほう。それはどうしてだね」
「非科学的だからです。第一、私はこれまで生きてきて一度もそういう類のものを見た事がないのですから、信じていません」
「自分の目で見たものしか信じないと? リアリストだなぁ」
「オカルト好きがロマンチストだというのなら、そうなりますね」
「ふむ。では、面白い話をしてあげよう。57。これが何を意味する数字か知っているかな?」
 少し考えてみたが、心当たりがない。
「いえ、わかりません」
「これは昨年、この街で行方不明者となった市民の数だ」
「お言葉ですが、家出をする者や夜逃げする者などを鑑みれば、それほど奇妙な数字ではないかと」
「君は頭が硬いなあ。そうだな。例えば、ひとつの例をあげよう。とある女性が仕事帰りに自宅である県営住宅のエレベーターに乗った。彼女以外の人間はおらず、エレベーターは七階へ上昇する。その様子をしっかりと監視カメラが捉えていた。しかし、ちょうど六階に到達した瞬間に、彼女の姿が消えた。床が水に変わったかのように、女性を呑み込んだ。その一部始終がカメラにしっかりと記録されていた」
「…………」
 運ばれてきたコーヒーを飲みながら、部長は眠たげな半目を私に向ける。
「曰く付きの物件、曰く付きの事故というのは存在する。決して多くはないが、それらは決してなくならんよ。常に我々の悩みの種だ。公表できるものでもないからな。そういう苦情や相談を解決するのが、特別対策室というわけだ。苦肉の策だな」
 にっこりと微笑み、部長が私の両手を包み込むように握りしめる。
「宜しく頼むよ」
「……少し考えさせて下さい」
「辞令は夕方にも下る筈だ。荷物はダンボールにまとめて、対策室へ運んでおいてくれ」
「……時間を下さい」
「予算は潤沢にある。申請も承認も君一人でやっていい。ただし、表面上は特別対策室は市民課に属しているから、あまり大きな買い物は事前に相談して欲しい。被害が大きくなるようなら地域の土地ごと公共事業として買い求めても構わんよ」
 拒否権などないのだ。そして、おそらく今この瞬間に出世の道は途絶えたに違いなかった。
「ひとつだけ、教えてください」
「なんでも聞いてくれ」
「私の前任者は定年退職したのですか?」
 部長は笑い話でもするように肩をすくめた。
「彼が57人目の行方不明者なんだな、これが」
 当然、私はまったく笑えなかった。

ここから先は

8,858字

¥ 200

宜しければサポートをお願いします🤲 作品作りの為の写真集や絵本などの購入資金に使用させて頂きます! あと、お菓子作りの資金にもなります!