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夜師葬送

 山の稜線に陽が沈む頃、ようやく私は目的の駅へと辿り着いた。
 木製の古い駅舎は無人駅らしく、改札はおろか駅前にすら人影ひとつ見当たらない。
 バス停の時刻表を見てみると、一日にたった二便しか運行していないらしく、すでに運行時間を終えてしまっている。どうやら目的地まで徒歩で向かうしかないらしい。
 ここで立ち止まっていても仕方がない。
 私は鞄を手に取り、電灯を灯し始めた駅舎をひとり後にした。
 未舗装の畦道。左右には棚田が広がり、水の張られた稲田が緋色の空を写している。鈴虫や蛙の鳴き声に背中を押され、畦道を歩き続けた。畑の縁にはまだ七月の初めだというのに、色鮮やかな彼岸花が狂い咲いている。
 あの花の季節は、秋口。本来なら文字通り彼岸の季節に咲く花だ。田んぼの傍に植えてあるのは、花の毒がモグラを退けるからだろう。かつては土葬する際に墓の側に植えられたという。
 緋色に彩られた畦道をひとり歩きながら、故人に想いを寄せる。

 帯刀老、と呼ばれた彼は県北部の山岳地帯に広大な土地を持つ資産家で、高利貸し、骨董蒐集家、歌人としても知られていた。所有する山の幾つかに歴史的価値のある史跡があり、私はその対応をする上で彼と縁を得た。
 はじめて出会った時、帯刀老は既に米寿を超えていたが、恐ろしい人だと思った。
『君は県庁に勤める役人でありながら、随分ときな臭い仕事をさせられているそうですね』
 大野木くん、と私が名乗る前に名前を言い当てた。
 帯刀老はいかにも好々爺といった風で笑顔を浮かべてはいたが、私には彼の心中を推し量ることができなかった。白髪に着物を着込んだ、眼鏡をかけた老紳士はこちらの胸の内を見透かすように私を見た。
『年寄りの妄言だと受け取ってもらっても構いませんが、あの骨董店の主人とはあまり付き合いをしない方がいい。あれは好んで人に害をもたらすものではないが、不吉なものであることに変わりはない』
 私は仕事の関係上、少し特殊な人物と知り合う機会が多い。そして、そうした人物の力を借りなければ解決できない事案が非常に多いのだ。
『闇を覗き見ないことです。君が思っているよりも遥かに、君はこちら側に立っている』

 それから幾度となく彼には助けられた。共に酒を酌み交わしたこともある。極度の人間嫌いだというが、私のような堅物にとても良くして下さった。彼の心中を推し量ることはできないが、少なくとも私は彼のことを敬愛していた。
 訃報を受けた時、流石に動揺した。もとより高齢だということは重々承知していたし、肺を患っているということも知らされていた。それでもやはり、訃報を聞いた時には言葉を失わずにはいられなかった。
 訃報を報せてくれた柊さんは、必ず通夜に参加するようにと厳命した。
 帯刀老を『先生』と呼び親しんでいた彼女も当然出席するのだろう、と思っていたが、きっぱりと出席しないのだと言った。
『私は招かれていないので、足を運ぶことは出来ません。変わりに貴方が先生を弔ってあげて下さい。正直、あの先生が人を葬儀に招くとは思っていませんでした。貴方は余程、好かれていたのですね』
 口惜しい、と柊さんは私のことをからかった。

   ◯
 山の稜線に陽が沈むと、群青色の空は瞬く間に漆黒の闇に変わった。
 緩やかな畦道を登りきると、小高い山の麓に裾を伸ばすように広大な屋敷が見えた。軒先に吊るされた提灯の明かりが、夜の闇の中に滲むように浮かび上がっている。
 私は小走りで駆け下りながら、門の前に一人の女性が立っていることに気がついた。黒紋付に身を包んだその女性を私はよく知っている。
「葛葉さん。この度はご愁傷様でした」
「遠路遥々、有り難うございます。旦那様も草葉の陰で泣いて喜んでいらっしゃるでしょう」
 ハンカチで目元を拭う彼女は長年、帯刀さんの身の回りの世話をしていた女性で、歳は私とそれほど変わらないというのにとても聡明で美しかった。他の奉公人たちと違い、彼女は来客の対応を役目としていたので親交がある。
「大野木様。今宵はこちらを決して外さぬよう、お願い致します」
 彼女が差し出してきたのは、口の部分が開いた鴉の面だった。
「旦那様の御遺言です。弔問客は必ず面をつけるように、と」
 そう言って、彼女は白い狐の面を顔につけた。口の部分が開いているのは、面をつけたまま食事をする為だろう。
「帯刀さんらしい趣向ですね」
「旦那様は殊更、大野木様のことを気にかけていらっしゃいました。くれぐれも粗相のないようにと言付かっております。これから屋敷へ入りますが、決して面を外されませんよう、お約束ください」
「わかりました。必ず守ります」
 そうして、私も鴉の面をつけた。その面はまるで私の為に誂えたようだった。
 木製の太い扉を開けると、中庭を埋め尽くすように彼岸花が狂い咲いていた。石灯籠の明かりがそれらを鮮やかに照らし、紅の色が目に焼きつく。
 飛び石を超えて玄関へ上がる。既に弔問客は大勢来ているようで、なんだかやけに騒がしい。まるで宴会のようだ。私は靴を脇へ寄せ、他の方の草履から離しておいた。
「大野木様。もしも宜しければ、お召し物を替えませんか?」
「礼服ではおかしかったでしょうか」
「いえ、そのようなことはありません。旦那様より大野木様の袴を誂えるよう言われておりましたので」
 そういえば以前、紋付袴くらい買いなさい、と言われたことがあった。帯刀さんは自邸にいる時も必ず長着に羽織という着方を好んだ。
「既にご用意しております。僭越ながら、わたくしが着付けさせて頂きます」
 断ろうか、とも思ったが、折角の行為を無碍にするのも気が引ける。なにより、私の為に誂えてくれた紋付袴を、ここで使わずにどうするというのか。
「有り難うございます。宜しくお願い致します」
「さあ、こちらへどうぞ」
 廊下を通る際、障子の向こうで騒ぐ声が聞こえてきた。とても通夜とは思えないが、田舎の葬儀とはこういうものかもしれない。
 通された座敷には、なるほど立派な袴が衣桁にかけられていた。家紋は丸に橘、まさしく私の為に誂えてある。
「なんだか、申し訳ない気持ちになります」
「旦那様は裏表のない大野木様のことを好いておられましたから。さあ、どうぞ上着をこちらへ」
 私は葛葉さんに言われるがまま、服を脱いだ。恥ずかしさなどないが、申し訳ないなと思う。葛葉さんの手つきは手馴れていて、私はあっという間に袴に身を包むことができた。
「しつらえが間に合って本当によかった。きっとお越し下さると信じておりました」
「葛葉さん。大変無礼なことをお聞きしても宜しいでしょうか」
「はい。なんなりと」
「帯刀さんは、苦しみましたか?」
 葛葉さんは首を横に振って、薄く微笑った。
「眠るように逝去なさいました」
「そうですか。それはよかった。心残りはないようですね」
「いえ、最後にひとつやり残したことがあると仰っていました」
「やり残したこと?」
「はい」
 それは何なのですか、そう尋ねようとして玄関で呼び鈴が鳴った。
「お話はまた後ほど。さあ、こちらへ」
 廊下へ出ると、ちょうど他の弔問客たちが大座敷へと移動している最中だった。誰も彼もが顔に獣面をつけていて、なんだか奇妙な光景だ。
 大座敷には十一人の弔問客がいた。もっと大勢いたように感じたが、こうして見るとやけに少ない。
 そして、座敷の中央にあるものを見て思わず絶句した。
 舟。木製の舟が中央にあり、祭壇らしきものはない。まさかと思って舟の中を覗き込むと、白装束に身を包み、顔に翁の面をつけた帯刀老の姿があった。御遺体の周りを彼岸花が埋め尽くしていた。
 私の知る葬儀とはあまりにも違う。
 そうこうしていると、梟の面をつけた住職らしき人物がやってきた。
 呆然とする中、奇妙な通夜が始まった。

  ◯
 滞りなく通夜が終わると、弔問客たち数人が舟の傍に木棒を通して担ぎ上げた。
 何をしているのだろう、と疑問に思っていると傍に葛葉さんがやってきた。
「これから埋葬に行くのです」
「え? 明日、葬儀なのでは?」
「いえ。葬儀は行いません。元より通夜の報せも限られた方にしか伝わっていないのです」
「これから火葬場に行くのですか? こんな時間では開いていないのでは?」
「火葬場にも行きません。これから裏山へ向かいます」
 どうか、と葛葉さんは小声で囁いた。
 私は頷いて立ち上がり、彼らの後に従って屋敷を出た。そうして、他の弔問客がしているように行燈に火を灯し、一列になって歩き始めた。男も女もめいめいに行燈を持って畦道を歩いていく。狂い咲く彼岸花が、裏山の古道へと続いていた。他の弔問客は互いになにか話しているようだが、私の場所からは内容までは聞き取れない。
 苔生した石段を照らすように、石灯籠の火が揺らめく。
 虫の音色で、山は騒がしいほどだ。赤い鳥居をくぐり、また赤い鳥居をくぐる。もうさっきから何度も同じ場所を通っている気がしてくる。
 不意に、最後尾を歩く私の隣に、狐の面をつけた葛葉さんが並んだ。
「彼らは皆、わたくしと同じ奉公人でございます。旦那様と交わした契りに従い、今日までこうして仕えて参りました。旦那様が亡くなれば、もうここに残る理由はございません」
「そうでしたか。あの方々も、奉公人の方だったのですね。あれだけの人脈を築いてきた方だ。もっと大勢の人が弔問に訪れると思っていましたが、最期は身近な方々に見送って欲しかったのですね」
 石段を登りきると、開けた場所に出た。そこには巨大な一枚岩が地面から生えていて、大きな注連縄がぐるりとその周辺を囲っている。その中央に舟は下ろされた。
 これからなにをするというのだろう。
 近づこうとして、葛葉さんが私の手を握って止めた。
「旦那様と我々が交わした約束は、あの方の霊力と引き換えに、あの方に仕えることでした。身の回りの世話をし、この土地を守り、仕えよと」
 闇の奥、行燈の灯りに淡く照らされた彼らが舟のなか、横たわる遺体へと手を伸ばす。
「死後、旦那様の血肉を喰らうことで、我々の契約は終わるのです」
 ごきり、と。
 闇の奥で音がした。その音を皮切りに、それらが手を伸ばし、顔を突っ込み、骨を砕き、肉を咀嚼する音が闇に響いた。帯刀さんの体は目の前で引き裂かれ、無残に喰われていく。
 思わず後ずさった足元で小枝が折れた。微かな音。しかし、その音にまだかろうじて人の姿を保っているそれらが振り返る。十一もの異形の双眸が、闇の中からまっすぐに私を視ていた。
 獣の面をつけた理由。それは、私が人だということを隠すためだ。
 悲鳴をあげようとした私の手を、葛葉さんが引いた。
 気がつくと、屋敷の門の前に戻ってきていた。あの道程をどうやって戻ってきたのか、まるで思い出せない。
 狐面をつけた彼女の瞳が、金色に輝いていた。
「旦那様は本当に貴方のことを好いてらっしゃいました。本来なら、貴方をここへ呼ぶべきではなかったのです。それでも旦那様は貴方に見送って欲しかったのでしょう。そのためにわたくしに最期のお役目をお与えになった」
 呆然としている私の前で、彼女は懐から小さな袋を取り出し、愛おしそうに頬ずりした。
「わたくしが一番欲しいものはもう頂きました。さあ、これでお別れでございます。決して後ろを振り向かぬよう。まっすぐにこの道を戻ってくださいまし」
 私は何か言おうとしたが、結局なにも言うことができなかった。ただ彼女に向かって頭を下げ、それから踵を返して道を戻った。

 行燈を手に畦道を歩きながら、闇夜に淡く光る彼岸花を見やる。
 不意に、気がついた。
「ああ、そういうことか」

 葛葉さんのつけていた狐の面。
 彼岸花、又の名を、狐花。

 この時期に、咲くはずがない花。

 狐花、それは別名を狐火という。

 これは、彼女からの手向けなのだろう。

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