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箱洩穢呪

 クラスメイトの虻川千尋が苛められていたことを知らない生徒はいない。いや、生徒だけでなく教師陣の中にも知らない者はいなかったろう。それほどまでに虻川千尋への苛めは一般的なものであり、もはやそれは日常の一部だったといっていいだろう。
 話を聞いた限り、苛めの度合いは加速度的に凄惨さを増し、躊躇が消え、苛烈を極めた。話を聞いているだけでも気が滅入るほどだ。私は思わず依頼人に対して「下衆が」と口汚く罵ってしまったが、これは仕方がないことだろう。この娘も、そのクラスメイトや教師もすべてが下衆だ。
 とにかく、それほどの苛めがあった。
 当然の結末というべきか、虻川千尋は精神的・肉体的に病んでしまい、追いつめられ、自宅である団地の屋上から身を投げた。早朝のことだったので大勢が彼女が落ちてくる様子を目撃してしまい、現場は騒然となった。とりわけ集団登校をしていた小学生の一団は気の毒としか言いようがない。きっと一生忘れられないだろう。
 学校側は苛めの事実があったかどうか確認するだの、冷静な判断が必要だのお茶を濁すばかりで責任逃れに余年がないが、ともかくもクラスから苛められっこは消えた。被害者は消え、加害者だけが残った。彼らは困惑した。
 クラスメイトが抱いた感想は「まずいことになった」だ。依頼人も含めて誰一人として虻川千尋の冥福を祈ったり、罪悪感に押し潰されるような者などいなかった。誰もが己の保身を考えた。
 クラスメイト四十数名は団結し、苛めの事実はないと証言を一致させることにした。進学を控えた自分たちにとって、苛め問題が顕在化することは非常に都合が悪い。ますます下衆である。
 テレビ局も当初こそ騒いでいたが、学生も教師も一丸となって苛めを隠蔽したこともあり、すぐに世間の関心は苛め問題から離れていった。結果、虻川千尋の自殺は苛め問題とは無関係であると保護者に発表された。
 しかし、事件はそれで終わりはしなかった。
 いつの頃からか、学校のあちこちで奇妙なものが目撃されるようになった。
 それは犬のような息づかいで薄暗い所で息を潜めていて、驚いて見つけようとすると掻き消えてしまうというものである。見えない犬の目撃例は教師の間でもひっそりと報告されていたという。
 そして、体育館で行われた慣例の全校集会で事件は起きた。前触れもなく、唐突にクラスメイトの小野美幸が火がついたように悲鳴をあげた。彼女は虻川千尋を苛めていた人間の中でも特に肉体的な苛めをしていた生徒であり、哀れにも全校生徒が見ている中、悲鳴をあげながら全身を生きたまま噛み千切られた。バツン、バツン、と肉と骨を叩き割るような音が響き、血飛沫が舞った。生徒達はパニックになりながら我先にと出口へ殺到し、体育館内は阿鼻叫喚の地獄絵図のような有様になった。
 教師たちも恐慌状態で体育館を出たという。中には生徒を押しのけて出て行った者も少なくなかったというのだから、ほとほと腐っている。
 ようやく全員が体育館から逃げ出し、平常心を取り戻した教師の一人が体育館へ戻ると、そこには押し倒され、踏みつけられて重傷を負った三名の生徒と、血の海にまばらに転がる肉片と、制服の一部が見つかった。
 警察が調べた結果、残骸は小野美幸その人のものに間違いないということだったが、どういうわけか体の大部分が消えてなくなっていたという。

  ◯
 それから十日間の間に二名が死亡、一名が重傷を負った。
 死亡した二名の一人、吾妻浩一郎は虻川千尋の隣の席で目立たない生徒だったが、虻川の荷物の中から弁当箱を盗みだし、トイレへ捨てるのが彼の日課だったという。中学まで苛められていた経験もあり、苛められる側になりたくない気持ちから虻川を排斥していたらしいが、彼の最期もなかなかに酷い。
 その日、吾妻浩一郎は最寄り駅のホームで電車を待っていた。通過の特急電車がやってきたその時、吾妻は引き込まれるようにして身を投げ、高速で通過した電車によって四分割され、胸より上の部分がホーム脇の自動販売機の上に落ちた。目撃者によれば、吾妻は腕を何かに噛まれようにして引っ張られていたという。
 ほぼ同時刻、もう一人の死者である長峰百合子が母親と車で買い物に出ていた。都市高速下のバイパスを走っている途中、急ブレーキを踏んでスピン、反対車線を走っていた大型トラックに衝突。助手席に座っていた長峰はフロントガラスを突き破り、ガードレールに顔面から突き刺さり、近代オブジェのような有様になって死んだ。奇跡的に軽傷で済んだ母親の証言によれば、黒い犬が突然車の前に現れ、ハンドルが勝手に曲がったという。
 依頼者によれば、長峰は虻川の頬に煙草の火を押し当てていたというから、これもまた自業自得という気もする。
 そして、重傷を負ったのは保健室勤務の中川祥子養護教諭である。彼女は虻川から苛めの相談を受けていた人物だったが、彼女を忌み嫌っていた。中川は「苛められる人間にも問題がある」という考え方の人間だったらしく、虻川の悲鳴はすべて黙殺された。苛められる人間が悪い、と遠回しに言っていたのだ。だが、彼女が保健室に引き蘢ることは黙認したという。
 彼女は放課後、資料を取ろうと机の引き出しに手を入れ、右手首から先を噛み千切られた。不思議と痛みは感じず、噴水のように血をふきだす右手首に小首を傾げ、引き出しの中を見やると、暗闇の中に血まみれの乱喰歯が並んでいた。悲鳴を聞いて駆けつけた他の男性教諭の証言によれば、保健室は鼻を覆いたくなるほど獣臭かったという。そして、どれだけ保健室を探してみても失くした右手は見つからなかった。
 生徒と教師達は恐怖に震え、誰というわけでもなく、自然とひとつの噂が流れ始めた。
「虻川千尋の祟りだ」
 次の犠牲者は自分かもしれない。それはクラスメイトの誰もが抱いた感情に違いない。中には墓参りをしたり、お守りを買ったり、お祓いをした者もいるというのだから身勝手な話だ。
 そして、依頼主はとある筋から紹介されて、私のもとへやってきた。
 依頼内容は単純明快。
『虻川千尋の祟りを鎮めて欲しい』
 遠野里香はそう言って泣いた。
 個人の意見でいえば、こういう手合いには大人しく祟られてしまえばいいと思うのだが、今回ばかりはそうも言っていられない。例え相手が反吐が出るような下衆でも、あいつが仲介に入っている以上、引き受ける以外の選択肢は私にはない。
「話はわかった。虻川千尋の祟りを鎮めればいいんだな。請け負おう。ちなみにさ、一つ聞いておきたいんだけど、君は虻川さんになにをしたわけ?」
 依頼主である遠野里香はその可愛らしい顔から涙を拭って、たいしたことじゃないんだけど、と前置きしてから。
「体操服を焼却炉で燃やしたりしていました」
 前言撤回。下衆というより、こいつは屑と呼ぶべきだ。

   ◯
 遠野里香を紹介してきた人物というのはとある骨董店の主で、私は彼女に多大な借りがあり、たまにこうして面倒な依頼人を押し付けられている。依頼人が彼女とどういう縁があったのかは謎だが、なんらかの縁があったのだろう。
 その日、私は依頼主と共に学校へやってきていた。彼女の学校で文化祭が催されているということもあり、彼女の従兄というスタンスで学内に入ったのだが、あれだけのことがあって文化祭を強行するという学校側もどうかしている。
 しかし、文化祭というにはなんだか雰囲気が暗く、どこかびくびくしている印象を持った。生徒達の活気も少なく、並ぶ露天も少ない。
 依頼主は私の隣を歩きながら、学校のどこでどういう苛めが行われていたのかを仔細に説明した。それだけ彼女が苛めの中心にいたということだろうが、今はそんなことはどうでもよかった。
「あの、その右腕はどうしたんですか?」
 中身のない右の袖が気になっていたのだろう。説明すると長いので彼女には話さないことにする。話しておく必要もないのだし。
「昔、交通事故で亡くしたんだよ」
「大変なんですね」
「不便だけど、大変じゃないさ。そんなことよりも体育館に案内して貰えないかな。最初の犠牲者が出たっていう」
 案内されて体育館へ行ってみると、男子グループがステージで下手糞な演奏をしていたので辟易した。
「随分と古い体育館だな」
「学校で一番古い建物なんです。でも、来年には立て替えるらしいです」
「へえ。最初の犠牲者になった子が、どのあたりで亡くなったか分かるかい?」
「あの辺りです。梯子がある所のそば」
 はいはい、ごめんね、と生徒達の脇を通ってしゃがみ込む。そして、とっくに失くした右腕で床に触れると、なんだか髪の毛のようなものが指先に触れた。指で細かく触ってみると、なんだかザラザラしていて固い毛であることがよく分かる。
 私のこれは幻肢といって、実際には失われてしまった四肢の神経が残っているように感じるという病気だ。ただ、私の場合は十代の終わりに事故で右腕を失ったのだが、どういうわけか右腕の感覚に触れるものがある。いや、この幻の腕でなければ触れられないものがある。それは、俗にいう幽霊とかいうものだ。どうして触ることが出来るのか、理由はわからない。
「あの、どうしたんですか?」
「いや、ちょっとね。学校の噂によれば、その祟りは視えない犬なんだよね?」
「はい。私も何度か、その、見かけたことがあります」
「どんな風に視えた?」
「普通に生活している時に、ちょっとした拍子に視界の端の方に見えるんです。赤黒い大きな犬なんです。驚いて視線を向けると、そこにはなにもいなくって。怖いんです」
「そう。成る程。そういうことか」
「あの、なにか分かったんでしょうか」
「まぁね。校内でなにか奇妙なものを見たりしなかった? そういう噂でもいいんだけど」
「いえ、これといって視えない犬の噂以外には特に」
「そうか。じゃあ、君たちの教室に連れて行ってくれ。なにか出し物でもしているのなら日を改めるけど」
「いえ。縁起が悪いので教室は使っていないんです」
「そいつは好都合だ。虻川さんが生前に使っていた机はまだ残っているの?」
「ええと、はい。あります」
 彼女がどうして言い淀んだのか、それは教室で虻川千尋の机を目の当たりにしてすぐに分かった。
 教室の一番後ろの列の窓側。ちょうど掃除道具いれのロッカーの前に位置する虻川千尋の机の上には花瓶があり、枯れた菊の花がうなだれている。机の上には眼を背けたくなるような罵倒の言葉が刻み込まれてあった。
「こいつは酷い」
 思わず声に出てしまった。想像以上だ。ここまで他人への嫌悪を顕著にぶつけるというのは大人には理解しがたい。
「なあ。どうして自殺に追い込むほど苛めたんだ?」
 素直な疑問なんだけど。
「私は、その、直接は関係ないから、よくわかりません」
「でも、体育服を焼却炉で燃やしたんだろう?」
「それは、その、そういう空気だったから」
 空気を読むにも程があるだろう。正直、仕事なんて放り出したくなったが、なんとか割り切る。
「まあ、祟られるのを怖がる程度には関わってたわけだな」
 幻肢の掌で右目を覆う。すると、ぼんやりと靄のようなものが視える。この幻肢をかざして視ると、幽霊や怪異を視ることが出来るのだが、この靄はそういうものとは少し違う。これは人の思いの残り滓のようなもので、割とどこにでも視られるものだ。
「おかしいなあ。別に祟りなんて見当たらないけど」
「そんな。もっとちゃんと視てください」
「いや、でもホントに何にも残ってないんだよ。憎悪や怨みっていうのは穢れとして場所や人に憑くんだが、ここにはそういう類いのものはなにも残っていないよ」
 本当になにもないのだ。祟るほどの悪霊ならくっきりと視える筈だ。
「もしかして、この中かな?」
 机の引き出しに手を突っ込んでみるが、特になにも見つからなかったので私は小首を傾げるしかない。
「ないなあ」
「なにを探しているんですか?」
「いや、ちょっとね。あのさ、学校の中に綺麗な箱ってない?」
「箱?」
「そう。箱。大きさはよく分からないんだけどさ。たぶん持ち運びできる程度のものだと思う」
「いえ、そういうものは見たことがありません」
「そっか。仕方ない。なら、地道に校内を視て回るしかなさそうだ。学校の何処かにあるだろうから」
 こういう時、幻肢は他人には一切見えないのでありがたい。さすがに片目に手を当てたまま校内を歩き回る男というのは不審者に近い。
 教室を離れ、幻肢を通した視線で辺りを見回ると、どういうわけか教室よりも廊下の方が酷い有様になっていた。真っ赤な血飛沫があちこちに飛び散り、そこかしこをなぞるようにして血痕が続いている。よくよく観察すると、大きな犬の足跡がいくつか見つかった。
「これはもう間違いないな」
「あの、箱ってなんなんですか?」
 放っておくとうるさそうなので、とりあえず人気の少ない階段脇で立ち止まる。
「外道箱あるいはマガツバコなんて呼ぶらしいが、地域と継承する家で呼称は異なるからなんとも言えない。ただ、共通しているのはその家で祀る神様を箱の中にいれているという点だ。この神様は少し他の神様と違っていて、箱の持ち主の願いを叶えてくれる。それも物理的に相手を排除したりするという点のみにおいて。作物を育てるだの、子宝に恵まれるだのといった願いは一切きかない。ただ、どこぞの誰それを祟り殺せ、といった内容は確実に叶えてくれる。そういう類いの呪具は日本全国探せばそれなりに出てくるんだそうだ」
「それって、どういうことですか」
「だから。呪具だよ。人を呪う道具だ。聞いた話によると、曰く視えぬ獣に八つ裂きにされる、と。今の状況にそっくりだろう」
「ハエが、そんなの持ってたなんて……」
「ハエ?」
 しまった、という表情を一瞬浮かべ、遠野は女子高生らしく愛らしく誤摩化した。
「いや、そういうあだ名もあったなあって。でも、そんなものを持ってただなんて知りませんでした。そっか。そういう道具で私たちを呪っていたんだ」
「それは違う。この学校には彼女の霊や思いなんてものは一切残っちゃいない」
「嘘! でも、なら他に誰が祟るっていうんですか」
「知らんよ。心当たりはないか?」
「ありません。他に苛められている生徒なんていませんでした」
「そうか。だが、このまま放っておくわけにもいかない。外道箱を見つけないとあの女がうるさいからな」
「あの女って、あのボロい骨董店の?」
 この娘は簡単にいうけれど、残念ながらあの店は簡単に出逢える場所じゃない。まあ、尤もあんな店とはかかわり合いを持たない方がよいのだけれど。
「そうだよ。夜行堂の主人だ。彼女に外道箱を持って帰るよう頼まれていたんだ。きっと見つかるだろうからってね」
「そうだったんですね。それじゃあ、すぐその箱を見つけましょう」
「いや、きっと箱はここにはないな。自殺した虻川千尋が箱の持ち主だったんだろうと思っていたんだけど、当てが外れた。最初から彼女は君たちを呪ってなんていなかったんだ」
「つまり、死んだ人たちは全然違う人から呪われて死んだっていうことですよね? 虻川さんの祟りじゃないんですから」
「そうなるな」
「よかったあ」
 安心したのか、その場にへたりこむ彼女に私は前金で貰った料金を返した。
「彼女の祟りじゃなかったからな。お金は返すよ」
「ありがとうございます。あの、ご迷惑をおかけしました」
「礼を言われるようなことはしてない」
 依頼主は曖昧に笑って、そうだ、と手を叩く。
「あの、よかったらこの後の演劇を一緒に観ませんか? うちの学校の演劇部、すごくレベル高いんです」
「いや、遠慮しとく。まだ仕事があるから帰るよ」

 ハッ、ハッ、ハッ

 荒い吐息。
 校門の所で振り返ると、そこには血膿色をした人面犬が立っていた。その顔を視て、思わず苦笑が漏れた。
「そういうことか」

   ◯
 足跡ははっきりと視えた。
 学校から続いている、この引きずったような血の跡を辿り、ようやく血の跡の大元へと辿り着く。
 そこは学校から一キロほど歩いた海沿いの工業団地で、どこか寂れた雰囲気のある場所だった。夥しい血の跡を辿り、そのうちの一棟へ入ると、階段を上っていく。
「ここか」
 表札には『虻川千佳・千尋』とある。母子家庭だったらしい。
 電子ブザーを鳴らすが、応答はない。しかし、このまま帰るわけにもいかず、ドアノブを引いてみると、難なく重たい金属の扉が開いた。
「お邪魔します」
 断ってから靴のまま上がると、リビングの方からブブブブと奇妙な音がする。曇りガラスの向こうの部屋は薄暗く、点けっぱなしのテレビの光と音だけが響いてきた。
 ドアを開けると、案の定、真っ黒い塊のようになったハエが部屋から出て行った。同時に凄まじい臭気に顔が歪む。
 リビングのテーブルに突っ伏すようにして絶命する中年の女性。その頸椎あたりから刃先の欠けた包丁が顔を覗かせている。あたりをぶんぶんとハエが八の字を描いて飛び回り、ラグや壁にまで飛び散った血飛沫は赤いというよりも黒い。あの犬と同じ血膿色だ。
 絶命している彼女はおそらく、自殺した虻川千尋の母親だろう。損傷が激しいので断言は出来ないが、まず間違いない筈だ。自殺したのはおそらく娘の葬儀のすぐ後だろう。
 棚に飾ってある写真立てを見ても、すべて母親と娘のツーショットばかりで他に親戚がいなかったのかも知れない。
 そして、案の定、彼女の目の前には小さな掌サイズの正方形の箱があり、その蓋が外れている。表面には古い和紙が何枚も何枚も張り重ねられ、あちこちに血がこびりついたような跡があった。
「これか」
 手に取ろうとした瞬間、不意に、テレビのチャンネルが切り替わった。当然、私はなにも操作していない。
 『速報 文化祭で大惨事!』との大きな文字が映し出され、朦々とたちこめる土煙の向こうに、倒壊した体育館の姿が映し出された。どこかで見たな、と思ってよくよく見てみると、ついさっきまでいた例の学校での出来事らしい。
 画面が切り替わり、真っ青な顔のキャスターが原稿を読み上げる。
『老朽化した体育館が倒壊したものと思われており、救助隊による必死の救助活動が続けられていますが、既に数十名の死者が出ていると確認され、現場は大変凄惨な有様となっています。瓦礫の下敷きになっていると予想されているのは体育館に集まっていた全校生徒と教師陣、また観覧に来ていた保護者です。倒壊当時、体育館では文化祭の演劇が行われていたようです』
 また画面が切り替わり、校門に殺到する人、救助隊や警察官でごった返すなか、悲痛な悲鳴が聞こえて来た。
「なるほど。間に合ったみたいだな」
 箱を手に取り、蓋を閉める。
「回収完了」
 ポケットに箱を入れて、私は虻川邸を後にした。

   ◯
 夜行堂は相変わらず薄暗く、薄ら寒い。とりわけ埃の匂いと、どこからともなく幻肢に触れてくるものがいるので落ち着かない。ここの店主と、モノたちにとって私はていのよい玩具だ。
 カーディガンを着た店主は帳台で薄い笑みを浮かべて、うっとりとした様子で回収した外道箱を眺めている。
「またひとつ、狗が増えた。見てくれ。輝きが増しただろう」
「分かんないですよ。そんなの」
 まぁ、でもこれで五十万の報酬を貰えるのだから悪くはない仕事だ。
「結局、外道箱を渡したのはあなただったんですね」
 そうだよ、と彼女は歪に微笑んで、手の中の外道箱をくるくると指で弄んだ。私は蓋が外れないかと気が気ではなかったが、彼女のことだ。自分でどうとでもするだろう。
「私が仕組んだことではないよ。千尋ちゃんがここへやってきたのは彼女の縁だ。私はその縁を結んだに過ぎない。それに、この外道箱は大戦前に彼女の祖母が喪失したものだったのだから、持ち主の下へ戻ったというのが正しい」
「それって、喪失したんじゃなくて捨てたんじゃないのですか」
「さて。ともかく、外道箱は千尋ちゃんの手に渡った。あれを使えば自分を排斥したモノたちに復讐ができる。けれど、千尋ちゃんはそうはしなかった。疲れ果てていたのだね。彼女には復讐をするほどの魂の力は残っていなかった」
「実際、彼女の魂はどこにも見つけられなかった」
「その点でいえば、彼女は誰も怨んでなどいなかった。そういう段階にはもうなかったんだな。なにもかもから解放される。その為に死んだ。それだけだ」
 しかし、復讐を願うのは何も当人だけではない。場合によれば、当人よりも強い怨みを持つ者も存在するのだ。
「虻川千佳。外道箱は、母親が使ったんですね」
「そう。それも自ら咽喉を突いて、あの箱に憑いた。こうして自らも狗神になった訳だ。かつての術者たちがそうしてきたように、彼女もそうしたのだよ。おかげでこの中には合計、八十八体の狗神が棲んでいる」
「そんなもの適当に世の中にばらまくのは止めて下さいよ」
「私は物と人の縁を結ぶことしかしていないよ。何度も言っているだろう。人が物を選ぶのではない。物が持ち主を選ぶのだと。君はそういう体質だからな。うちの品にも君を主にしたいと思っているものは多いのだよ?」
「遠慮します」
「そうかい? 例えば、これなんかどうだろう」
 そういって彼女が帳台の下から引っぱり出したのは、乾涸びた植物もとい、よく見ればそれは乾涸びた何かの右腕だった。やたらと手が大きく、爪がナイフのように鋭い。
「なんすか。それ」
「さぁ、なんだろうね。どうだろう? 試しに断面に付けてみないか? なに、ほんの少しでいい」
「遠慮します。そもそもなんの腕なんですか。人間のものじゃないでしょう」
 彼女は応えず、私に腕を差し出す。
「右腕がないのは不便だろう。この腕なら日常生活もできるし、他にもいろんなものに触れることが出来る。扱いが少し難しいが、慣れればどうということはない」
「これ、出所はどこです?」
「木山氏の土蔵」
「絶対に嫌です。お断りします」
 故人とはいえ、あの人物の持ち主だったというだけで充分に不吉だ。絶対にろくなものではない。
「帰って寝ます」
「そうか。残念だ。ああ、そういえばあの娘はどうなった? 私の紹介した少女だ。少なからず外道箱に縁があるようだったが」
「さぁ、瓦礫の下ですから分かりません」
 立ち上がり、曇りガラスの戸を開ける。いつの間にか雨が降り始めていた。
「生きていると思うのかね?」
 彼女がそういって残酷に微笑むので、私は思わず顔を逸らした。
「遺体さえ出てこないと思いますよ」
 
 帰り際、校門の外から眺めたあの学校には、夥しい数の血膿色をした巨大な人面犬が闊歩していた。
 きっと、ただの一人も生き残れないだろう。
 

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