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月下鳥葬

 薄いガラスの窓を、尖った雨が叩く音で目が覚めた。
 顔に落ちた髪を耳の後ろにかけて、私は枕元の携帯電話に手を伸ばす。時間はもう昼をとうに回っている頃合いで、なんだか急に一日のやる気がなくなってしまったような気がした。
「ああもう。寝すぎた」
 携帯を適当に放り投げ、残り半日しかない休日をどう過ごそうかと思案する。あの子供のように手のかかる恋人と別れたりしなければ、今日も予定が詰まっていたのだろうか。私がいないと生きていけないと調子のいいことを言っていた彼は、いつの間にか他所の若い女に攫われていってしまった。別れ際、元恋人は自分といるのが苦痛なのだと言い訳のように繰り返した。
 思い出すと、目頭の奥が熱くなる。
「馬鹿みたい」
 つぶやいて、ベッドから体を起こす。
 冷蔵庫のなかには食料らしいものは殆ど入っていない。ミネラルウォーターを手に取り、洗面所へ向かう。歯を磨き、洗顔して、外出する予定もないのにコンタクトをつける。よく冷えた水を乾いた喉に流し込みながら、今日はどうしようかと思案する。カレンダーにはなんの印もついておらず、友人と遊びに行くという気分にもなれなかった。
 万が一にも、街で彼と鉢合わせしたくない。でも、この部屋にいたらきっと息が詰まってしまう。そうして、そのうちに電話をかけてしまうかもしれない。そんなのはごめんだ。
 パジャマを脱ぎ捨て、適当な服に素早く着替える。最低限のメイクだけをして、鍵と財布をバッグに詰めて、私は暗鬱な気分から逃れるように部屋を後にした。
 マンションを出ると、表通りを大勢の人がごった返していて驚いた。誰も彼もが浴衣を着て、下駄をからころと鳴らしながら楽しげに歩いていく。キツネや猿の面をつけた子供たちが傘もささずに、飛び跳ねながら石畳を駆けていった。
「ああ、今日は妙見祭か……」
 地元では妙見の名で親しまれる古い祭りで、他所からも観光客が多くやってくるらしい。幼い頃はいつも楽しみにしていたけれど、いつの間にかすっかり忘れていた。妙見祭は毎年、7月の満月の夜に行われる決まりがあった。
 他に用事があるのでもない。私は少しだけ祭りを見て回ることにした。
 石畳の路地を埋め尽くすように大勢の人が歩いている。両脇の民家の軒先にはずらりと提灯が並んでいて、とても綺麗だった。通行人の色とりどりの傘が紫陽花のように見えて、妙な味わいがある。
 露店の棚に並ぶそれを見て、私は思わず店主に声をかけた。
「あの、これひとつください」
 老齢の露天商は愛想よく頷いて、棚にかけてある白キツネの面を取った。
「ひとりで来ているのかい?」
「はい。ちょっと憂さ晴らしに」
「そうかい。悪いことがあったのなら、放生会に出てくるといい」
「ホウジョウエ?」
「妙見さんのご神事だ。囚われた鳥を放ってやる。そうすると御神徳が得られるのさ。他所の土地だと色々な生き物を放つそうだが、妙見さんは鳥と決まっとる」
「私、地元なのに知らなかった」
「若いもんは知らんなあ。氏子でないと話もこないしなあ」
「誰でも参加できるの?」
「本部に行って申し込んでくるといい。宮の森を通っていけば、そう遠くはないよ」
 店主にお礼を言って、紙でできた白いキツネの面を被る。こうしておけば、誰も私とは気づかない。幸い、妙見は獣面をつけて回るという古い習わしがある。地元の人は、大人から子供まで面を被って露店を回るのだ。
 私は宮の森へ足を向けた。露店のある通りからは外れているが、ここを通れば神社までは歩いて数分。あっという間に本部につけるだろう。
 人の波を掻き分け、私は裏路地へと逃れた。表通りの喧騒がほんの少し遠くなる。
 屋敷町と近衛湖疎水に挟まれた小道を宮の森という。森、と名前がついているが、実際には孟宗竹がひしめきあう竹林のなかを通る小さな石畳の路だ。今日は妙見ということもあって、道脇にずらりと竹灯篭が並び、灯りがゆらゆらと揺れている。
 綺麗だな、と思っていると前から籠を抱えた人が歩いてくる。顔に鳥の面をつけた男の人だ。真っ黒い浴衣を着て、やたらと背が高い。
 道を譲ろうと脇へ避けた私の前で、男の人が立ち止まった。じぃ、こちらの顔を見てくる。どうやら鴉をモチーフにした面のようで、漆塗りの黒光していて如何にも高価そうに見えた。
「おや? 君、もしかして……」
 唐突に名前を言い当てられ、さすがに驚いた。面を外すと、ひんやりとした風が頬を撫でた。
「あの、どうして私の名前を?」
「小さい頃、よく神社に遊びに来てただろう? ほら、前にクッキーをくれたじゃないか」
 そんなことがあっただろうか。なにぶん、幼い頃から遊んでいた場所なので記憶が曖昧だ。近所の子供達の遊び場だったから、年上のお兄さんたちに遊んでもらうことは少なくなかった。
「すいません。覚えてません」
「まあ、こんな格好じゃわからないか。小さかったしね。まぁ、久しぶりに顔を見れたのは何よりだよ。元気にやっているみたいでよかった」
「はあ。まぁ、元気ですかね…」
 曖昧に笑ってごまかしたかったが、脳裏を別れの言葉がよぎった。
「そうか。まぁ、色々あるよね」
「あの、その籠はなんですか?」
「ああ、これ? 中を覗いてごらん」
 籠にかけられた布をそっと捲る。そこには全身真っ白い羽を持った鳥が何十羽と入っていた。
「これって、鴉? 白い鴉なんて珍しいですね」
「この子たちには、これから働いてもらう」
「あ、私それに参加させてもらおうと思ってきたんです」
「そりゃあいい。若い子が参加してくれるなんてどれくらいぶりだろう」
 彼は嬉しいなあ、と繰り返しながら私を先導して歩き出した。

   ◯
 彼の後をぼんやりとついていきながら、私はなんだか違和感を覚えていた。
「そうか。もう好いた人ができるような歳になったんだね。年月が経つのは早いなあ。光陰矢の如しというけれど、本当にあっという間だねえ」
「はあ」
 楽しそうにお喋りを続けている彼と歩き始めて、もうかれこれ三十分近く。私の幼い頃の記憶が正しければ、もうとっくに神社についていておかしくない。それに、この竹林はこれほど広く大きいものだったろうか。
 竹林の小道を挟むように、奇妙な露店がずらりと並んでいる。食べ物や古書など様々なものを売っているようだが、店主の誰もが顔に獣の面をつけていて、なんだか薄気味悪い。
「あれらの店に入ってはいけないよ」
「どうしてですか?」
「人を惑わせるものばかりだ。あんなものと取引をするものじゃない」
 私たちの視界の先、猿の面をした男の人が露店の店主となにか揉めているようだった。その様子はなんだか切羽詰まっていて、なにかを取り返そうとしているようだった。
「ああいう類が集まってくるから困る。追い払ってやりたいけれど、今はそんな余裕がない」
 通り過ぎながら、猿面の男の人は肩を震わせて泣いているようだった。
 竹灯篭の灯りが、風に揺らめく。
 息を切らしはじめた私の様子を伺いながら、彼は歩みを進める。
「大丈夫かい?」
「はい。大丈夫です」
「もう少しだよ。ああ、ほら先客がもう来ている」
 急に竹林が開け、小さな池の前に出た。池の畔には浴衣姿の若い女性と、赤い鴉の面をした男の人が籠を抱えて立っているのが見えた。その二人の他には人影はなく、お祭りという雰囲気はまるで感じられなかった。
 空をみあげると、夕暮れの空に白い月が真円を描いている。
「やあやあ。遅くなってすまない」
「遅い。間に合わんかと思ったぞ」
 赤い鴉の面をした男が声を荒げた後、私の方を見て、おお、と声をあげた。
「しばらく見ない間に大きくなったな」
「あの、すいません。全然覚えていなくて。昔、どこかで会ってたことがありますか?」
「境内で何度となくな。まあ、この格好じゃわからんだろうな。いや、しかし成長したもんだ」
「まったくさ。まさか境内で遊んでいた子が神事に参加してくれるなんて。こんなことは、もうないことだと思っていたよ。昔に戻ったようだ」
 二人が盛り上がっているのを他所に、私は傍らに立つ女性に目が釘付けになった。
 鴉の羽のように艶やかな黒髪を頭の上に結い上げ、悠然と藍色の浴衣を着こなす美女。身に纏う雰囲気も神秘的で、同性の目から見ても息を呑む美しさだった。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
「良い黄昏ですね。わたくし、柊と申します」
「はじめまして」
「地元の方ですか?」
「はい。親は引っ越してしまって、もうこちらにはいませんけど。昔はここの氏子でした」
「そうなのですね。神事に参加するのは初めてですか?」
「そうなんです。恥ずかしながら、放生会のことを今まで知らなくって」
「放生会?」
 彼女は一瞬、きょとんとした顔になり、すぐになんだか困ったような顔をして笑った。
「あなた、ここは放生会の会場ではありませんよ。ここは神事をする場所。宮司でさえ忘れてしまった、本当の神事を執り行う場所です」
「え? 私、てっきりここが放生会の会場だと思って」
 そうだ。考えてみればおかしい。あれだけの人間がいながら、参加者がたった二人しかいないだなんて。
「せっかくだから見届けてあげてください。他でもない彼らが連れてきたのだから、あなたにも知る権利があります。本来、これは宮司が執り仕切らなければならないのだけれど、当代の宮司にはあれが視えないようですから」
 あれ、と指差した先、池の水面が盛り上がった。黒い、澱のようなものが蠢いて、なんだか人のような形になる。
 一目で、あれはよくないものだとわかる。あれに触れたら祟られる。理屈でなく、本能的にそう思う。おぞましい、汚らわしいなにか。
 少しずつ形が判然としていく。人の顔が浮かんでは砕け、また違う顔が浮かんでは消えた。
 顔の口の部分にぽっかりと深い穴が落ちて、低く罅割れた音が漏れた。
 背筋が凍る。酷い臭気に顔が歪んだ。
「あれはこの土地に溜まった穢れ」
「あ、悪霊みたいなものですか?」
「穢れは、人の営みのなかで必ず生じてしまうものですが、そのままにしておくと災禍を呼びます。だからこうして禊を行って祓ってやらなければなりません」
 池の水面は闇を溶かしたように黒い。それが泡を立てて、地獄のような有様になっていた。漆黒の泥が盛り上がり、砕けて落ちる様は、まるで悪い夢でも見ているかのようだった。
「さぁ、始めよう」
「あ、あの私はなにをすれば」
「君は見ているだけでいい。誰かが見ていてくれないと禊はできないからね。君はこの土地と縁が深いから、そこにいてくれるだけでいい。これは葬儀のようなものだから、見送ってくれる人がいるのだよ」
「葬儀……」
「見届けてくれたらそれでいい。そうして、忘れないでいてくれたら私たちは嬉しいんだ」
 黒い鴉の面をした人がそう言って、二人は同時に鳥籠を地面の上に下ろした。
 布を外した瞬間、籠が内側から弾けるように砕けた。白い鴉が数え切れないほど飛び立ち、黒い穢れへと群がっていった。あっという間に水面の上が白い鴉で埋め尽くされる。鋭い嘴が、黒い穢れを啄ばみ、引きちぎっていく。食べているのだ。
 鳥葬だ。
 昔、本で読んだことがある。鳥は神の使い。亡くなった者の魂を、天空へと連れて行ってくれると信じられてきた。外国には今でも鳥葬を続けている国が幾つもあるという。
 私が見ている目の前で、白い鴉たちが少しずつ黒くなっていった。まるで穢れを引き受けるように、白い羽毛が滲むようにして黒く染まっていく。やがて、鴉たちが一斉に飛び立った。
 池の水面は浄化されように清らかで、夕陽を受けて煌々と輝いて見えた。
 私は、不意に思い出した。
「あ」
 振り返った瞬間、鴉の面をつけた二人の姿が溶けるようにして消えた。そうして、大きな二羽の鴉が黄昏の空に舞い上がった。一瞬、こちらを一瞥したけれど、もう言葉を発してはくれない。
 手を伸ばしたけれど、もう届きはしなかった。
「なにか思い出したましたか?」
「はい」
 小さなころ、神社の境内に大きな鴉が二羽棲んでいて、友達とお菓子をあげたりしていた。とても人懐こくて可愛くて。大きなるにつれ、いつの間にか、すっかり足を伸ばさなくなってしまったけれど、向こうは忘れずに覚えていてくれたらしい。
 彼女は薄く微笑んで、足元に落ちた白い鴉の羽を摘み上げた。
「それ、頂いてもよいですか?」
「きっと貴女に受け取って欲しくて残していったのだと思いますよ」
 鴉の羽を受け取りながら、私は瑠璃色の空に浮かぶ夕月を眺めた。

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