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紫婚蛇姻

 亡くなった祖父は戦後の動乱期に財産を成した人で、田舎とはいえ屋敷もかなり大きく、私が幼い頃には住み込みのお手伝いさんが何人もいたりした。当然、遺産も多いので、父たちは相当に揉めるものだと考えていたが、祖父はきちんと遺産を均等に息子たちに分配し、膨大な量の蒐集品も亡くなる前に売却してしまっていたという。抜け目がないというか、流石の采配に親族一同驚いたものだ。
 その為、通夜も穏やかに進み、久しぶりに集まった親戚たちは昔話に花を咲かせていた。
 祖父には子供が四人、孫が八人できたが、私たち孫は全員女の子。叔父さんたちは男の子を切望していたけれど、結局跡取りになる男の子は生まれなかった。
 私以外の従姉妹たちは皆、成人していて大人たちと難しい話をしていた。高校生になったばかりの私は居場所がなくて、イヤホンを耳につけて座敷の隅で膝を抱えていた。
「ごめんください」
 その人は突然、中庭に現れた。座敷にいた全員が思わず言葉を失った。
 喪服姿の美しい女性なのに、一瞬、なんだか酷く恐ろしいもののように見えた。
 女性は頭を深々と下げて、小さな包みを胸に抱いていた。
「夜行堂から参りました」
 ああ、と孝二郎叔父さんが赤ら顔で立ち上がって縁側へ駆け寄っていく。
「父と付き合いのあった骨董屋さんですかね。いや、すいませんな。玄関の呼び鈴に気付かなかったようで。ご丁寧にありがとうございます」
「お気になさらず。こちらこそ不躾に申し訳ございません。この度はご愁傷様でした。実は、今夜は亡き御当主様よりお預かりしていたものをお届けに参りました」
 彼女はそう言って包みを解くと、小さな木箱が現れた。
「それは父の遺産ということですか」
「はい。園枝結衣さんに相続させるように、と」
 どきり、とした。
「証文はこちらに」
 叔父たちが証文を食い入るように見つめる。
「確かに親父の字だぞ、こいつは」
「ああ。間違いない。しかし、どうして結衣に」
 彼女は答えず、私に木箱を手渡し、親戚達に分からないよう微かに耳打ちした。
『——彼は君に選べと遺した。君の好きにしたらいい』
 言葉の意味がわからず、私は呆然と受け取った木箱を見つめた。
「開けろ」「そうだ、中身を見せろ」「なんで結衣だけなんだ」
 叔父たちに急かされて蓋を開けると、中には手鏡が一枚入っていた。
「この周りの装飾は金か?」
「いや、こいつは真鍮だな。金じゃないよ。なんの価値もない」
 安堵したように叔父たちは笑い、従姉妹たちも何処かほっとした様子だった。
「では、確かにお渡し致しました」
 叔父が焼香でも、と口にした途端、女性の姿が煙のように掻き消えてしまった。父達が慌てて中庭に降りて周囲を探し回ったが、彼女の姿は結局見つけられなかった。

 翌日、特に何事もなく祖父の葬式も終わり、弔問客もほとんど帰り、私たちも夕食を済ませた。夕食が終わるといつものように父たちが酒盛りを始めて、煙草と酒の匂いで座敷はいっぱいになる。
 母たちがバタバタと忙しく屋敷を右往左往している中、私は手鏡を持って離れの縁側に逃げていた。母には悪いが、親戚付き合いが好きではなかったし、デリカシーのない父と一緒にいるのも心底嫌だった。
 中庭を眺めると、母屋では男連中が酒を呑んでいて騒がしい事この上ない。男尊女卑の典型で、女は料理や片付け、男は酒盛りというのは観ていて気分が悪い。祖父が亡くなった今、これからはこうして集まることもないだろうが。
「お爺ちゃん。なんで、こんな物を残したんだろう」
 ひとりごちながら、手鏡をくるくると回す。これだけ価値がなくて骨董品として売れなかったのだろうか。それとも、何か私に伝えたかったとか。でも、亡くなる直前にも祖父は手鏡についてなんて触れもしなかった。
 雲の切れ間から、月の光が中庭に差す。池の鯉が驚いたように跳ねた。
「こんにちは」
 声に振り返ると、背後に喪服姿の女性が立っていた。
「わっ!」
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」
「い、いえ」
 年齢は従姉妹たちよりも上だろう。喪服を着ているから弔問客のひとりだろうか。とても顔立ちの美しい人で、見ていると少しドキドキした。肌が透けるように白くて、何だか同じ人間とは思えない。
「どうしたの? こんなところで一人でいるだなんて」
「別に、なんでもありません」
「でも分かるわ。ああいう親戚の集まりって女には楽しくないものね。ほら、敦子さんなんか長男のお嫁さんだから大変よね。口うるさいから他のお嫁さんからも嫌われているし、責任もあるからギスギスしてて」
「は、はあ」
 誰なんだろう。敦子おばさんのことを知っているのなら、遠い親戚なのかもしれない。
「隣、良いかしら?」
「あ、はい。どうぞ」
 言いながら、私はもうここから離れたくて仕方がなかった。この何とも言えない図々しさが嫌だ。子供が相手だから何を言っても良いと思っているのかもしれないが、冗談じゃない。
「あの、当家の方ですか?」
「そうね。一応、そういうことになるかしら。でも、私のことを覚えている人はいないんじゃないかしら。小さい時、あなたにも会っているのよ? 覚えてないでしょう?」
 全く記憶にない。祖父の家には年に一度帰れたら良い方で、大きくなるにつれ疎遠になっていた。それに人の出入りも激しかったから、いつも誰かが訪ねてきていたという記憶しかない。
「すいません」
「いいのよ。でも、またこうして貴方に会えて嬉しいの。あの人は子供も孫もたくさん出来たけど、貴方しか駄目だった。時代の流れのせいかしら。それとも血筋の問題なのかしらね」
 彼女の言葉の意味が理解できない。そっ、と触れる彼女の指先がびっくりするほど冷たかった。
「あの」
 声をかけようとして、気がついた。月に照らされた彼女の足元に、鎌首をもたげた長い蛇のような影が伸びていた。チロチロと舌を出し入れする様子に息を呑んだ。
「あのね、今日は貴女にお願いがあるの」
「お、お願い?」
「そう。私の息子のお嫁さんになって欲しいの」
「へ?」
「母親の私が言うのもなんだけど、良い男よ? 若い頃のあの人に似て顔も良いし。他の子たちじゃ見えないからどうしようもないけど、貴女なら申し分ないわ。どうかしら、考えてみてくれる?」
 突然の話に頭がまるでついてこない。お嫁さん? なんの話なんだろう。
「あの、」
「なぁに?」
「あなたは、人じゃないんですか?」
 思わず聞いてしまっていた。
「そうよ?」
 逆に問いかけられるように答えられて、なんだか呆然としてしまった。
「あなた、私のことが視えてるでしょう?」
「え、はい」
「普通の人には私たちの姿が視えないの。あの人の血を引いてるのに、貴女以外の人間には誰も見えなかった。皮肉な話ね。貴女のお爺さんはね、私と婚姻していたの。この家は代々、家を栄えさせる為に私たちのようなものを人間の嫁とは別に貰うのよ。この離れは私の住まいなのよ?」
 そういえば、この離れは少し奇妙だった。
 まるで人が生活していけるような母屋そっくりの間取り。長男のお嫁さんの敦子さんは毎日、ここへ供物に来ていた。守り神がいるから、と言って。
「昔はこんなことは別に珍しいことじゃなかったわ。あちこちでそういうことをしていたの。でも、私たちの姿が視える人間が次第に少なくなって」
 彼女は寂しげに溢すように言った。
「貴女が私の息子と婚姻をしたなら、この家は益々栄えるわ。勿論、人間の旦那様を作ってもいいの。それくらいは私たちにはなんてことないことだから。あの人みたいに、死ぬまで愛してくれるのなら、それでいいの。私もおハナさんのことは嫌いではなかったわ。同じ人を好きになったんだから」
 話についていけないでいると、不意に庭先に誰かが立っていた。
「あら、まだ顔を出すなって言っておいたのに」
 その男の子の顔を見た瞬間、心臓を握り締められたような気持ちになった。学ランに身を包んだ背の高い美少年。その紅い瞳にはなんだか見覚えがあった。
「息子よ。どう? イケメンでしょう」
「はい……」
 思わず首を縦に振ってしまった。彼は照れ臭そうにそっぽを向いているけれど、その仕草になんだかキュンキュンする。なんだかこちらも恥ずかしくなって、手鏡で顔を隠してしまった。
「その手鏡」
「へ? あ、ああ。これ、祖父から遺産として貰ったんです。なぜか、私だけ」
「懐かしい。もう失くしたとばかり思っていたわ。何も言わない人だったから」
「この手鏡は、もしかして」
「……彼は、貴女に何か言い遺していない?」
「私の好きなようにしろ、と」
 彼女の顔色が変わる。笑っているような、泣いているような表情だった。
「そういうこと……」
 手鏡を彼女に手渡すと、それを愛おしそうに胸に抱いた。
「これはね、私達の祝言の際に持たされた花嫁道具なの。いわば婚姻の証ね。私にとって契約の証明のようなものよ。反故にしてしまうのなら、死の間際にでも言ってくれたならよかったのに。孫娘に選ばせるだなんて、やっぱり残酷だわ。でも、そうね。あなたが決めればいい」
「私は、」
 照れ臭そうにそっぽを向いている彼の横顔が、なんだか気恥ずかしくて見れない。
「すいません。その、やっぱり決められません。嫌って訳じゃないんです。でも、どうしてもこの場ですぐには決められない……」
「なら、それが今の答えよ。手鏡は返して貰うわね。縁があればまた会えるでしょうし、その時にお婿を取ることになったら、改めて結納を交わせばいいのだし」
「ごめんなさい」
「いいのよ。ほら、あなたもしょげないの。——でも、あの人もつくづく馬鹿な人ね。…同じ墓には入ってあげられないけど、お墓を守るくらいのことはしてあげようかしら。あなたもごめんなさいね。驚かせてしまって。お墓参りに来た時に、また会いましょう」
 そう言って彼女が微笑んだ瞬間、凄まじい悲鳴が中庭にこだました。
 振り返ると、縁側で敦子おばさんが腰を抜かしている。悲鳴に気づいたおじさん達が出てくると、これまた悲鳴をあげた。そして逃げろ逃げろと大声で叫んでいる。
 視線を親子に戻すと、目の前で夜に溶けるように地面に落ちて、巨大な白蛇が二匹、中庭の奥にある巨木へと巻きついて登って逃げていってしまった。
 あまりの出来事に呆然と立ち尽くしていると、父親が転がりながら走り寄ってきた。
「大丈夫か! 噛まれてないか!」
「う、うん。大丈夫だよ」
 ぎゃあぎゃあと親戚達が次々と集まってきて、なんだか大騒ぎになってしまった。
「あんな大きな蛇、只事じゃないぞ!」
「うちの守り神じゃないのか?」
「そういや、親父がうちは代々、白蛇の守り神がいるとか言ってたなあ」
「そうそう。ごっこで祝言をあげるってな。親父の代でやらなくなったと聞いてたが、こりゃあ本当に護られてたのかも分からんな」
 親戚たちは凄いものを見たな、と興奮覚めやらぬ様子だったが、父と母は心の底から私のことを心配してくれていた。
「本当に怪我はないのか? 蛇は毒がなくても破傷風にかかるんだぞ。何処か噛まれてないか?」
「お父さん、しつこいよ。どこも噛まれてないったら」
 いつもなら子供扱いされて腹が立つのに、今はなぜかそうでもない。
「おい、結衣。お前、あの手鏡はどうしたんだ?」
「あれね、返しちゃった」
「返した?」
「でも、惜しいことしたかなぁ」
 ぼそり、と私が呟くと父は心底不思議そうな顔をして、母と顔を見合わせた。
 
 

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