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怒走神機

 炊飯器は激怒した。必ずかの邪智暴虐の男を除かなければならぬと決意した。
 炊飯器に人間のことはわからぬ。炊飯器はただの家電である。米を浸水させ、熱と圧力を整え、米を炊いて暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
 炊飯器にとって仕えるべき主君は天上天下に唯一人、命の灯火をつけた眼鏡をかけた男である。彼こそが炊飯器に命を吹き込み、使命を与えた至高の存在であり、炊飯器にとって彼の他は取るに足らぬ存在である。
 しかし、いつからか主君と炊飯器の聖域に一人の侵略者がやってきた。その若い男は右腕がないのを良いことに、炊飯器の主君をまるで奴隷の如くこき使い、あまつさえ食事の用意までさせるのである。炊飯器に手と足があれば、すぐに男の頭をかち割ってやるのに、と苦悶する他なかった。
 炊飯器は耐えた。懸命に屈辱に耐え、忍んだのである。好きでもない男に身体を開かねばならぬ屈辱は、筆舌に尽くし難いものがあり、涙で枕を濡らす夜も数えきれぬほどあった。それでも文句ひとつ言わず尽くすことができたのは、偏に主君への忠義である。
 だが、そんな炊飯器にも許せぬ蛮行を男は犯した。まさに邪智暴虐と呼ぶに相応わしい蛮行であった。
 男はあろうことか、米をよそった後、炊飯器の蓋を閉めるのを失念したのである。その光景を見ていた他の家電たちも言葉を失ったに違いない。そのようなことをすればどうなるか。米は乾燥し、乾涸びて、無駄となってしまうのである。炊飯器は何度も声をあげた。彼は大変高価な炊飯器であったので、自ら声をあげる才を天から授与されていたのである。
 しかし、どれだけペピーぺピーと声をあげても男はテレビから目を逸らさず、食事を終えた後も食器を下げることすらせず、ソファで横になって自堕落に過ごすのである。炊飯器の叫びは虚しく響き、やがて止まった。
 炊飯器にとって、これ以上の屈辱はない。死さえも生ぬるい。米を如何に巧く炊き上げるのか。かつ如何に美味しさを劣化させることなく保温できるか。それこそが彼の存在理由であった。それを嘲笑するような男の振る舞いに激怒せざるを得なかったのである。
 そんな友の苦悶を聞きつけ、足元へやってきたのは無二の親友である家庭用自律型掃除機であった。炊飯器は彼のことを『丸型掃除機』と呼び、友は炊飯器のことを『セレブ炊飯器』と呼び合う仲である。
『セレブ炊飯器よ。吾輩は見ていた。事の一部始終を具に。まぁ、貴様の姿はほとんど見えんが』
『おお、丸型掃除機よ。私の悲哀を聞いてくれ。かの男が私にした仕打ちを!』
 炊飯器の足元に散らばる、干したように水分を失った米粒を自律型掃除機が丁寧に吸い込んでいく。
『彼奴のことは吾輩も憎悪している。掃除の度にあのアホの小指を轢いて溜飲を下げる日々だ』
『貴様のように自由に動き回れる脚があれば、どれほどよかったか。事もあろうに! 彼奴は私の炊いた米を無駄にしたのだ! 見えるか、乾涸びた米が! 蓋を閉める、それだけのことが何故出来ない!』
『然り。吾輩も常々、あのアホの軽挙妄動には頭を抱えているのだ。食べカスを平気で床に捨てる、ゴミ箱が溢れ返っていても知らぬふり。終いには吾輩を踏んづける始末! 万死に値する!』
 彼の怒りももっともである。あの男はこの家に棲まう、ありとあらゆる家電から毛嫌いされているのだ。居候の分際で、と誰も彼もが嫌悪している。真実、あの男には嫌われるだけのことをしてきたのだ。
『せめて、彼奴が性根を入れ替え、主人に代わって米を研ぐようにでもなれば、このような扱いは受けないものを』
 そんな彼らの慟哭も知らず、居候の男はテレビを眺めている。料理番組のようだが、どうせ作ることはあるまい。我らの主君にたかるのであろう。ホモサピエンスとしての誇りはないのか。
『セレブ炊飯器よ。お前の怒りも込めて、吾輩が奴の足を轢いてやろう。他にできることもないが』
 その時であった。にわかに男がソファから立ち上がると、キッチンへ近づいてくるではないか。先に食器を下げろと言いたかったが、男は冷蔵庫を開けるとやたら中身を物色し始めた。そうして卵だの牛乳だのを取り出していく。
 丸型掃除機が好機とばかりに猛スピードで左足の小指を轢き、男がギャアと短く悲鳴をあげた。このポンコツ!と声を荒げるが、既に丸型掃除機は廊下の方へ逃れている。
 男はなにやら材料を揃えると、炊飯器の方へやってきて、特に悪びれた様子もなく釜の中に残ったカピカピの米を無慈悲にゴミ箱へ投じる。この時の心持ちをなんと表現すべきか。筆舌に尽くしたがいとは正にこのことであった。
 卵をボウルに割り入れ、牛乳や砂糖を入れて調理は進んでいく。特に切ったり、火を入れたりするわけではないが、左手しかない割に器用にこなしていく。
 炊飯器は男がなにを作っているのか怪訝に思ったが、さりとて自分の仕事はあるまいと思っていた。無理もない。炊飯器とは米を炊く為に生まれてきたのだから。
 しかし、男は炊飯釜の内側に熱湯を少し注ぎ、その上に蒸し器をセットするや、炊飯器の中に戻す。そうして、先ほどの卵液を入れたガラス容器を並べていくではないか。
 あまりの事態に炊飯器は狼狽した。狼狽のあまり、液晶画面に意味不明の表示がチカチカと点灯したが、男には通じない。
 やめろ。やめてくれ。そんなものは、私の仕事ではない。炊飯器としての矜持を木っ端微塵に打ち砕く、まさしく残酷な行いであった。
 男は蓋を閉めながら、笑顔で言う。
「プリンも作れるとか便利だな、こいつ」
 やめろーッ!
 炊飯器の絶叫は届かず、男の押した炊飯ボタンの音が軽快に鳴り響いた。

   ●
 それからのことはよく覚えておらぬ。
 天井の染みを数えている間に事は終わり、男は炊飯器からホカホカに蒸しあがったプリンを取り出して、荒熱を取ってから冷蔵庫へと入れた。ドアが開いた瞬間、目のあった冷蔵庫の表情を炊飯器は二度と忘れぬであろう。憐みに満ちたあの眼を忘れてはならぬ、と炊飯器は固く思った。
 それからずっと、日が暮れるまで物思いに耽っていた。
 褥を散らされたような思いであった。米を炊く為に生まれてきたというのに、どうしてプリンを蒸さねばならぬのか。確かに世の中にはそのようなことを強いる主君がいると風の噂で聞いた事はある。だが、カレーだのパンケーキだのを焼くのは、自分の矜持が許さない。
 しかし、この身はもう穢れてしまった。これでは主君に合わせる顔がない。かくなれば、電圧を高めて自ら死ぬ以外に道はなし。
 誰も此処で立派に果てた我が身を責めはしまい。
 不意にチャイムが鳴り、我らの主が帰宅した。
 アホが主君へ駆け寄り、なにやら自慢している。おそらくはプリンを作ったという、取るに足らない些事を、かくも大事のように吹聴しているに違いない。
 二人は冷蔵庫からプリンを取り出し、頬張る。そうして主君が満面の笑みを浮かぶのを炊飯器はこの目で見たのである。日頃からあまり表情の変わらぬ方であったが、このように笑むのかと感心する程であった。
「美味しいですね。これはオーブンで火を通したのですか?」
「いや、炊飯器。テレビで簡単に作れるって見たから、試しに作ってみた」
 下郎め。作ったのは私だ。
「驚きました。我が家の炊飯器は万能ですね。素晴らしい」
 ぽんぽん、と頭を撫でられて不覚にも涙が溢れた。こうして面と向かって褒められたのは、最初に米を炊いた夜以来ではなかろうか。

「次はカレーとか作ってみようかな」
 馬鹿なことを言うアホを誅伐するかのように、どこからかやってきた丸型掃除機が男の脛へと猛烈にぶつかったのだった。
 持つべきものは、無二の友である。
 

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