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祟祭祀贄

 県境にある中規模都市の歓楽街から程近い距離にある、この新築の賃貸マンション、レジデンス新都でその怪奇現象が目撃されるようになったのは、つい二ヶ月ほど前のことだ。
 最初の目撃者は204号室に暮らす大学生のカップルで、真夜中に異常な臭気で目が覚めたのだという。酷い血の匂いを撒き散らしながら、その匂いは次第に強くなっていき、やがてそれが部屋の中を徘徊しているのだと気がついた。ふっ、ふっと犬のような吐息が聞こえ、二人は息を止めて気配を殺していた。どれほどそうしていたのか、いつの間にか異変は去っていたのだという。
 当初、この話を聞いた管理人は特に気にも留めていなかったが、それから立て続けに同じような訴えが相次いだため、ようやく大家の吾妻氏に相談した。県内に十数箇所の賃貸用マンションを不動産に持つ吾妻氏はすぐに県庁の特別対策室へと依頼を出したのだった。
 そして、私たちがやってくるまでにマンションの住居者の間ですっかり噂が蔓延するようになっていた。
「霊能力者みたいなもんですかね?」
 差し出された私の名刺をひらひらさせながら、管理人の男性は不審そうに私たちを見た。無理もない。怪異現象の解決に県庁から公務員がやってきたなら、不審に感じるのは当然だろう。
「みたい、ではありません。訂正を」
「まぁ、どっちでもいいんだけどね。そっちの若いお兄さん、その腕どうしたの。右腕ないけど」
 千早くんは不機嫌そうに出されたお茶に一口も口をつけず、椅子にも座らずに管理人室の壁にかけられた地図を見ている。
「別に。落としただけだよ」
「大野木さんだっけ。オーナーから話は聞かされてるけど、俺はそういうオカルトみたいなのって信じてないんだよね。公務員がこういうことをして、俺らの血税を使うのって感心しないなあ」
「ご心配には及びません。これも福祉の一環ですから」
「いや、俺が言ってんのはそういうんじゃなくってさ」
「大丈夫です。そちらには一切のご迷惑はおかけしませんから。万が一、損害が出た場合にはこちらで弁償させて頂きます。勿論、吾妻氏にも管理人の方から大変よくしていただいたと好意的にご報告させて頂くつもりです」
「そう? それなら協力するのもやぶさかじゃないけどさ。さっき来た神主とかもアンタくらい愛想が良けりゃ良かったんだけど、無愛想でね。霊能者だかなんだか知らないけど、胡散臭い。誰があんなの呼んだんだか」
 千早君が壁に背中を預けて、ようやく真剣に話に耳を傾け始める。
「霊能者?」
「一時間くらい前かな。なんとかって神社か寺だかの坊主が来て、御祓をするとかなんとか言って上がってったよ。あれもアンタらのお仲間かい?」
 なるほど。どこかの入居者が個人で雇った霊能者か。
「大野木さん。だから言ったろ。急いだがいいって」
「案件を途中で投げ出す訳にもいかなかったじゃありませんか。仕方ありませんよ」
 立ち上がりながら、管理人の男性へ頭を下げる。
「作業の間、可能な限り外に出ないようお願いします」
「はあ。仕事の邪魔だけはしないでよね」
 管理人室を後にすると、千早くんが無言でロビーを睨みつけている。
「機嫌を直してください。ああいう方もいますよ」
「腹が立つのは腹が立つんだ。仕方ないだろ」
 右の目元に手を添えながら、ロビーの奥、エレベーターのあるホールを視た。
「狗じゃないな。前に視たのとは別物だ」
「狗神筋ではないと?」
「違う。これは呪詛だ。しかも相当に酷い」
 顔を顰める。忌々しいというよりも、嫌悪感に満ちた貌。
「大野木さん、あちこち不用意に触るなよ。あれが通った跡に触れると呪いを貰う」
「何が視えるのですか?」
「あー、聞かない方がいいと思う」
「報告書に記載が必要なのは千早くんもご存知でしょう。事細かにとは言いませんが、どのような怪異かくらいは教えて頂かないと」
「その報告書だけどさ、本当に書く意味あんのかな。前は書いてなかったのに」
「活動内容が不鮮明だと追及する声もあるようでして」
 馬鹿馬鹿しい、と千早君は一蹴してから、左眼の目蓋だけを閉じた。
「……人だよ」
「人? ですが、報告書には犬のようだと」
「目を潰された人間が、四つん這いになってる。口には猿轡、おまけに肘と膝の先がない。かなり古い、土地の穢れだ」
 頭の中ではっきりと想像してしまい、思わず血の気が引いていくのを感じた。
「土地の穢れ?」
「大野木さん。この辺りの古い地図とか出せる? なるべく古いやつ。ええと、明治とか大正くらい。世界大戦よりも前だと思う」
「分かりました。すぐに依頼をかけます」
 法務局の友人に電話で依頼をかけながら、二人でエレベーターに乗り込む。私には何も見えないが、千早くんには相当に気味の悪い風景であるらしく、時折、足が止まったり、天井から落ちてきた何かを避けるような仕草をしていた。
 二階に着くと人だかりが出来ていた。通路の奥、206号室のドアが空いている。先ほどの管理人の話によれば、206号室は空き部屋の筈だ。鍵が空いている筈がない。

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