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小噺《鶯桜》

 屋敷の中でも一番大きな座敷で帯刀老の講義に耳を傾けていた。座学は帯刀老から、実学は柊さんから習うというのが常で、午前と午後で修行の内容が違う。
「一言に神といっても、この国における神は海外における定義とは全く別のものであることを忘れてはいけない。唯一絶対の創造神はおらず、天土に在る万物に神が宿る、というのがこの国における神性というものだ」
 机を挟んだ向こう側に正座して、丁寧にゆっくりと話をする帯刀老は鳶色の着物を着ていた。この屋敷では基本的にみんな着物を着ている。葛葉さんが俺の分の着物も用意してくれているが、動きにくいので作務衣で済ませていた。紐さえ結んでおけば、右腕がなくても頭を突っ込んで着ることができるし、裾も気にしなくていい。
「はいはい、質問」
「どうぞ」
「仏さんはいないの? こう、仏教の神様だろ?」
「当然いらっしゃるとも。ただ、まず会う機会はないだろう。そうだね、アバターのような存在になら感じ取れるやも知れない」
「アバター?」
「仏像のことだよ。あれは現し身の意味もある。千早、君の眼になら見えるかも知れない。だが、仏と神は別物であることを忘れてはいけないよ。これらを混同すると、痛い目に遭う」
 やけに実感のこもった言葉だ。きっと本人の実体験だろう。
 帯刀老は過去のことを殆ど話さないが、葛葉さんがたまにポロッと溢す言葉から察するに若い頃は相当ヤンチャだったらしい。酒に女遊び、ギャンブルもしていたとか。今の好々爺とした印象からは想像もできなかった。
「んー? 何が違うんだろ」
「簡単です。仏と違って、神は祟る」
 ぞわり、と背筋が震え上がった。思わずノートを取る手を止めて湯呑みに手を伸ばすと、庭から吹き込んだ春風が桜の花びらを座敷の中へ運んだ。ひらひら、と舞い落ちた一枚が湯呑みの中に落ちる。桜色の花弁が、いかにも春という感じがした。
「ふむ。もうすっかり春となったな」
 庭へ目を向けると、縁側の向こうに桜や梅の花が咲き誇っていた。季節に依らず、この庭園の草花は常に花開いているのだが、その向こうに見える山々も桜で化粧をしたように色づいている。
「師匠。花見とかしないんですか」
「そういえば、ここ暫くはしていないね。柊が小さかった頃には毎年のようにしていたのだが、いつの間にか縁側から眺めるばかりになってしまった」
 帯刀老は、とある呪をかけられていて自分の山から降りることが出来ないという。一体いつからそうなのかは知らないが、ずっと屋敷とその周辺で生きていかなければいけないというのは窮屈だろう。
「まあ、ここからでもよく見えますけど。少し歩けばもっと開けた所もありますよね。そこからの景色の方がきっと綺麗すよ」
「千早は花見が好きかい」
「俺は花より団子ですね。俄然、食べる方が好きっす」
「ふふ、そうだろう。若いうちはお腹が空くものだ」
 帯刀老は温和に微笑んでから、広げていた書物を閉じた。
「今日はここまでにするとしよう。せっかくだ。昼餉は花見をしながら頂くとしようか。葛葉に支度をするよう伝えてきておくれ。それから柊を呼んでくるように」
「ええー、俺が行くんですか」
「嫌か」
 温和にそう聞かれると、なんとなく断り辛い。
「柊さんの所には師匠が行ってきてくださいよ。自分の娘じゃないですか」
 昨日は夜遅くまで起きていたから、まだ眠っている筈だ。あの姉弟子を起こすのは、ある意味修行よりも大変なことだ。
「姉弟子を起こしてくるのも、お前の仕事だよ。千早」
「へぇい」
 これも修行の一環だと割り切るしかない。
 小走りに廊下を駆けて台所へ顔を出すと、葛葉さんが昼餉の準備をしている所だった。数枚の小皿の上には色んな具材が並んでいる。
「桜様、お勉強は終わりになりましたか?」
「ああ。ちょうど今終わった所なんだけど、師匠が花見に行こうって。お昼ご飯、外で食べるらしいです」
 支度をしている最中に、こんなことを言ったら怒られるかも知れない。しかし、葛葉さんはいつものように優しく微笑んでいる。
「そんなことだろうと思っておりました。大方、庭の桜でも眺めている内にお花見がしたくなられたのでしょう。ちょうど、おにぎりの具を用意しておりましたの」
 皿に目をやると、右から梅干し、おかか、野沢菜、牛肉の大和煮、いくらの醤油漬け、鮪の漬け、焼き鮭と様々だ。見ているだけでお腹が空いてくる。
「すげぇ豪華」
「ふふ。卵焼きとお漬物のご用意もありますよ」
「もしかして葛葉さんには帯刀老が花見に行こうって言い出すのが分かってたの?」
「確信はなくとも、予感はございました。急に思い立って何かを言い出すことは、いつものことでございます」
「葛葉さんってどれくらい昔から師匠に仕えてんの?」
 俺の質問に葛葉さんは、ふふ、と微笑むばかりで答えてくれない。こんな美人にこうやって微笑まれたなら、これ以上追求する気にはならないというものだ。
 釜から湯気の立ち昇る白米をしゃもじで掬い取ると、手水をつけてから塩を手に取り、とても慣れた様子でおにぎりをこさえ始めた。
「具材はたっぷり、惜しんではいけません」
 梅干しを中に詰めて、ふわり、と軽く握ってから海苔でくるんと包む。そうして竹で編んだ籠におにぎりを並べていく。
「前から思っていたけど、葛葉さんって料理上手だよな」
「田舎料理ばかりで恥ずかしゅうございます」
「いや、俺は好きだよ。此処にくるまで、碌なもの食べてなかったし。カップラーメンって食べたことある?」
「いいえ。でも、名前だけでしたら存じておりますよ」
「アレさ、たまに食うと美味いんだけどさ、しょっちゅう食っていると飽きるんだよな。バイトしている時には賄い食ってたけど、辞めてからはそれもなかったし。修行はきついけど、葛葉さんの飯を食うのが唯一の楽しみだよ」
「まぁ」
 にっこりと微笑むと、葛葉さんは別の皿に切り分けた卵焼きを一つ摘んで俺の口へ投げ入れた。甘くて柔らかい卵焼きは、噛めば出汁が口の中に広がって思わず笑ってしまう。
「如何ですか?」
「おいひい」
「それはようございました。支度は済ませておきますから、柊を起こしてきて下さいますか? 私が起こしに行くと機嫌を損ねてしまいますから」
 あの姉弟子は葛葉さんに対して少し厳しいというか、反抗的な所がある。しかし、別に嫌いという訳ではなくて、反抗期のようなものだと俺は踏んでいる。
「俺が行っても起こせるかどうか」
「どうぞ、ご無事で」
 なんとも不穏な送り出し方だ。
 けれど、あの姉弟子を放って自分たちだけで花見になど行けば、機嫌を損ねるのは間違いない。もちろん、表立って腹を立てたりはしないだろうが、修行の険しさは段違いに厳しいものになるだろう。ただでさえ生死の狭間を彷徨うような修行をしているのだ。そんなことをすれば、間違いなく寿命を縮めることになる。
 俺は観念して台所を離れると、姉弟子が寝起きする離れへと急ぐことにした。

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